1.国内にムスリムの墓を
日本国内でムスリムの姿が人目に付くようになったのは1990年前後からである。イラン=イラク戦争後にイランから、そして(当時)ビザ免除措置がとられていたパキスタンやバングラデシュから、若者たちの就労目的での来日が相次ぎ、日本人はムスリムを身近に見るようになった。そしてイスラームという宗教の存在を実感するようになったのである。
その若者たちの多くは祖国に十分な送金をし、またある程度の蓄財をした後、帰国していった。しかし、日本での永住を選んだ者たちも相当数に上る。結婚を契機に「日本人の配偶者等」の在留資格を得たムスリムがその典型である。その彼ら、そして彼らの配偶者たちが現在、老境にさしかかろうとしている。
それに伴い彼らが意識するようになったのが「死」であり、死して後に葬られることになる「墓」である。墓をどこに設けるかは、ライフステージの最終段階の重要課題である。ムスリムにとって墓は、一般日本人のように、仏教寺院の境内墓地や公営・私営の霊園に設ければ済むという問題ではない。ムスリムが必要とするのは土葬墓地である。そして土葬が可能な墓地は国内に極めて少ない。
イスラームでは、キリスト教と同じく、最後の審判の教えが説かれ、審判を下す神の前に立つために死後は土葬されることが求められる。何より聖典『アル・クルアーン』に、罪人は地獄の炎に焼かれるとの記述があり、火葬されることは罪を犯したことと結びつけられるがゆえに、火葬が選ばれないのである。土葬可能な墓地を現住地の近くに確保したいという思いはおそらく、日本で埋葬されることを予定しているムスリムたちすべてが抱いているであろう。
ただ、自分たちのための墓地を確保しようとしながら難航した、というケースが確認できる。その一方で、大過なく確保しえたというケースがいくつかあることも確かである。ここで考えるべき問題が現れてくる。なぜ難航したのか、なぜ成功しえたのか、という問題である。
2.資源動員論
このことについて、資源動員論を参照して考察しようとするのが本稿である。資源動員論とは1980年代の世界で盛んに論じられた社会学理論で、何らかの目標達成に向けて発生する人々の企て、すなわち社会運動を非合理的・感情的・暴発的なものと捉えず、利用可能な諸資源を獲得することによって合理的に遂行されると捉えるものである。
資源動員を効果的に行うためには運動関与者が多数であることが望ましい。協働する者が多くなれば資源が――彼らが持ち寄ることで――豊かになるからである。持ち寄られる資源のなかには経済的な資源の他、有用な道具や会議室などのハードな物理的な資源、交渉のやり方や文書作成のノウハウさらには種々の情報といったソフトな文化的な資源が想定される。
そして多くの賛同者を得ようというなら、目標はわかりやすいものであるべきである。また運動に関わる情報(資源)が特定層に独占されていてはならず、誰もがアクセスできる状況こそ望ましい。この協働者たちは人的資源であり、その数が多いとき、運動目標には正当性が賦与されることになるはずである。多くの人が賛同して関わっているのだからこの運動は間違っていない(正当である)、と理解されるわけである。この正当性という資源の獲得に成功すれば、人々は活動により深く関与し、彼らの間の連帯は強化されるであろう。それが、翻って、資源の動員をより容易なものにする。
要すれば社会運動は、誰にもわかりやすいがゆえに共有可能で、多くの人に支持されていることから正当であると認識される目標に向かい、連帯した人々が適切な資源を獲得していくとき、成功を収める可能性が高まるということである。逆にいえば運動の失敗は資源動員が十分に行われていない場合と認識でき、その原因として運動目標のわかりにくさや、目標の正当性認識において参加者間にコンセンサスが成立しておらず、関係者の得る情報にも偏りが生じていることによって、人々の間に生成される連帯が脆弱であることが指摘される。
上記を念頭に置きつつ、ここからは国内のいくつかの事例に目を向けていこう。墓地を確保しえた事例と難航(失敗)した事例を紹介してゆくが、その前に現時点でムスリムが埋葬されている国内の墓地について確認しておくことが必要であろう。
3.ムスリムが眠る国内の墓地
ムスリムが埋葬されている公営墓地が存在している。1923年開園の多磨霊園(東京都府中市)と1952年に整備された神戸市立外国人墓地のことである。しかし両所ともに、新たな土葬が認められることはない。文字通り土葬のための余地がなくなっているからである。それゆえこの公営墓地について、これ以上の言及は行わない。
言及されるべき墓地の中で最古は、1962年に設けられた山梨県甲州市の文殊院塩山イスラーム霊園である。同じ山梨県の笛吹市出身である日本人ムスリムと文殊院の前住職との間に交流があり、日本人ムスリムによる団体「日本ムスリム協会」の要請を受けた前住職が――朝日新聞が提供するニュースサービスwithnewsによると――“地元住民に呼びかけ数年かけて用地を確保し”、イスラーム霊園開設に至ったものだという。
この塩山ムスリム霊園以降しばらくイスラーム墓地開設の動きがみられなかったのは、いうまでもなく国内に暮らすムスリムの人口増が低調だったからである。しかし冒頭に記したように、1990年以降にムスリム人口増が顕著になり、そして現在に至って彼らの高齢化に伴う墓地確保という問題が話題に上るようになってきた。
かくして2010年以降、各地にムスリムのための墓地開設が相次ぐようになった。それらを以下に列挙しよう。
- よいち霊園(北海道余市町) 2016~
- 谷和原御廟霊園(茨城県常総市) 2013~
- MGIJムスリム墓地(茨城県茨町) 2010~
- 本庄児玉聖地霊園(埼玉県本庄市) 2019~
- 清水霊園イスラーム墓地(静岡県静岡市) 2011~
- 高麗寺霊園(京都府南山城村) 2022~
- 大阪イスラミックセンター墓地(和歌山県橋本市) 2014~
- 本郷霊園(広島県三原市) 2021~
これら以外に、変則的ではあるが、大分県日出町のキリスト教施設である大分トラピスト修道院の墓地に数名のムスリムが眠っていることも付記しておく。これは、別府のムスリム・コミュニティによる墓地計画が実現する前に世を去ったムスリムのため、修道院側の好意で一時的に埋葬することを許された――墓地開設の暁にはそこに改葬する――というものである。これに似たケースが大分以外にあるかもしれないが、現時点では把握できていない。
前段で触れたように、別府のムスリム・コミュニティは墓地をつくることを計画していた。ムスリムのためだけの墓地の、新規の開発である。別府のマスジドは宗教法人格を取得していて、自らの手でそれを行うことが法的に可能な立場にあった。そして当該墓地の予定地を管内に持つ自治体・日出町は2022年に開発を承認しており、計画は順調に実現の方向へと進んでいくはずであった。しかし予定地の近隣住民から反対の声が上がって計画が滞り始め、2024年に至って(新たに選出された)町長が墓地予定地とされた町有地のムスリムたちへの売却を白紙に戻すと表明する事態となった。広く報道されたこの案件が今後どう展開していくか、目が離せないところである。
別府の事例ばかり話題になりがちであるが、これ以前に足利市でも同様なことがあった。日本イスラーム文化センター(大塚マスジド)による足利市での墓地開発計画が2008年から動き出していたものの、地元住民が反対し、遂には計画が水泡に帰した(2010年)というものである――当該ムスリムたちは取得していた足利の土地を諦め、他所に可能性を探り、そして谷和原に埋葬地を確保することになった。
その一方で2024年、宮城県知事が県内で働くムスリムを念頭に、ムスリム労働力の県への呼び込みを一層に促すため、土葬可能な墓地の開発を検討すると発言して話題になったことは記憶に新しい。宮城県の計画が首尾よく進むかどうか、予断は許さないが、自治体からの支援なしでも墓地が確保された事例は、甲州市以外にも、少なからずある。
4.成功と難航
ここではMGIJムスリム墓地――Muslim Graveyard Ibaraki Japanの略――を取り上げよう。人里離れたところに位置する墓地、では決してない。農地が広がり民家も少なくない地に造成された「光明台霊園」の、その一部がMGIJになっているのである。墓地は四方を壁で遮蔽されていて、地元住民であっても、そこに墓地――しかもイスラームの土葬の墓――のあることを意識できないほどである。茨城町南隣の小美玉市にオフィス(そしてマスジド)を有するパキスタン出身実業家が中心になって、霊園設置者である寺院――この寺院は霊園地元にある寺院ではない――と交渉し、開設へと漕ぎ着けたものがMGIJである。
実業家は寺院から敷地を借用するため、そして借用後に遮蔽壁を設置したり埋葬区画を整える等のため自らの経済的資源(個人資産)を大量に動員したというが、それと同時に留意すべきは、土葬が許可された(仏教寺院の経営になる)霊園の開設されているという情報(資源)を彼が得ていたことである。同国人あるいはムスリムだけから成る人間関係のなかに暮らしていたなら得られなかったかもしれない情報がこれである。同国人に限定しない社会関係(資源)が動員されて、情報が獲得されたのであろう。霊園経営主体との交渉のノウハウは、パキスタン出身の事業家には使いやすい手持ちの資源であったかもしれない。さらにMGIJが所在する地域では四半世紀前まで土葬の行われていたという情報(文化的資源)を得ていたかもしれないが、これは推測の域を出ない。
このMGIJと大きく異なるところのないプロセスを経て、国内の他所のムスリム墓地が成立している。そうであれば、ムスリム墓地の実現にあたり多数の運動参加者・支援者(人的資源)はあまり必要ではない。また、国内にムスリム墓地をつくることの正当性を掲げることも不可欠ではない。大切なのは土葬可能な霊園を所有・管理する団体(寺院あるいは運営会社)についての情報を収集することであり、団体との交渉力、そして用地を借入あるいは購入するための資金である。
ここで別府の事例に立ち戻る。先に、墓地予定地になっている町有地をムスリム側に売却しないとの新町長の意向を記したが、別府ムスリム側が最初に考えていた適地は、これとは別の場所であった。日出町の標高の高い山中に別荘の建つ区域があり、その近くにある土地が当初の予定地とされていたのである。予定地を所有していたのは所謂地元の住民ではなかった。そしてその人物と専らに交渉したことでムスリムたちは蹉跌をきたしたと推測される。予定地よりも下方に暮らす地元住民たちから生活用水への悪影響を心配する声が噴出し、ここから計画の停滞が始まったのである。結局自治体はトラピスト修道院の近くに町有地である代替地を用意することになり、これで収束するかと思われていたところ、今度は日出町に隣接する杵築市住民から異論が出て、現在へと至っている。彼らが声を挙げたのは外国出身者やイスラームという宗教への不信感からではない、ということは大分のテレビ局制作のドキュメンタリー番組で強調されていたところである。水質汚染を案じて、そしてそれに連動して農産物が売れなくなるという風評被害の起きることを懸念して、声を挙げたということである。
別府で行われようとしたのは、(類例の多い)既存墓地の一角の利用ではなく、ムスリム専用の墓地の新規開発という、日本ではまだ実現していない試みであった。このためには、利用の場合と同じ資源の動員で事足りる、とは思われない。
ムスリムたちが、予定地より下方に暮らす人々の(地下水に頼る)生活スタイルを知らず、また彼らとの交渉を過小評価したこと、すなわち文化的な資源を十全に獲得しないまま計画を進めたことを難航の発端とすることができるだろう。
停滞を始めたこのプロジェクトは全国的な関心を喚起することになった。非ムスリムの名かからも、ムスリムの死後の人権を尊重すべきとの主張に賛同する者たちが現れてきた。ムスリムの人権を守ること、延いてはムスリムのための墓地を開設することに対する正当性という資源も、集められてきたと思われる。しかし反対側の地域住民の掲げる「風評被害」説が簡単に一蹴しうるものではなく、それどころか多くが同意しうるものであることも同意されるところであろう。よって反対運動もまた、正当性を持っている。正当性の争いがいま、ムスリム墓地予定地の大分県の山中で起こっている。
別府のムスリムは賛同者という人的資源を動員し、その「仲間」のサイズに合わせた正当性という資源を強化しようとしている。おそらく経済的な資源も(新規墓地開発をもくろむほどであるから)相当程度動員していたことだろう。しかし、既存墓地利用のケースに比較すると交渉力という資源には乏しかったと考えられる。とはいえ外国出身のムスリムが地域共同体に暮らす日本人と交渉することは容易なことでないことは、想像の範囲内である。
別府の事案に対し、解決策を提示しうる能力を筆者は持たない。ムスリムたちと反対派の地元住民そして自治体の三者で議論が尽くされ、三者ともが得心する結論へと至ることを期待するばかりである。
5.在日ムスリムの解消しきれない不安
ムスリム墓地開設をめぐる事例を見てきた。ここから、ムスリムたちの後顧の憂いをなくすためには次の方法のあることが理解されたであろう。すなわち、既存の土葬可能な霊園のなかに自分たちのための場を確保することである。あるいはムスリムが寺院・管理会社と協同し、新たに墓地開発を行って、そこに自分たちだけの場を設けることもありうる。
しかし、これにムスリムすべてが諸手を挙げてくれるわけではない。イスラームを信仰しない他宗教の人々のすぐ傍に葬られることを望まないムスリムは、少なからず存在するからである。また、そうした墓地であれば――ムスリム以外の墓地設置者・運営者に対して――多額(埋葬費用や管理費用等)を支払わねばならない可能性があり、それを喜ばないムスリムが存在するからである。
そうであればムスリムたちによるムスリムたちだけの(新しい)墓地の開設が期待されるものの、このプロジェクトの容易でないことはいまや、多くのムスリムが知るところになっているはずである。
国内各地に暮らすムスリムたちが抱える不安は、しばらく消えそうにない。