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コロナ対応から考えるアジアと世界

コロナ禍のフィリピンにみる
「国家の強さ・リーダーの強さ」再考
その1

ドゥテルテ政権と「市民社会」

木場紗綾

2021.07.31

1.本稿の目的

 フィリピン政府は2020年3月から5月にかけて、マニラ首都圏および一部の自治体に、2ヶ月にわたる非常に厳しい隔離・移動規制措置を発出した。この措置は当初、「世界で最も長いロックダウン」とも呼ばれた。
 その後、新規感染者数はいったん減少したが、変異株の拡大とともに再び増加し、2021年3月にはまたしても、1年前と同様のレベルの規制措置が導入された。現在に至るまで、フィリピンCIVID-19による人口100万人あたりの死亡率は、インドネシアと並んで、東南アジアで最高レベルのままである1。従来の医療水準が決して高くないことや、都市貧困地区の人口密集ぶりを想像すれば、現状はたいへん厳しいものに見える。さらには、国民の1割が海外在住と言われており、移住・出稼ぎ労働者からの送金に下支えされてきた国であるから、送金額の大幅な減少が今後の国内経済に及ぼす長期的な影響も懸念される。
 本稿の目的は、COVID-19渦中のフィリピンの「国家の強さ・リーダーの強さ」を、多角的な観点から分析することである。比較政治学においては、フィリピンは、80年代にジョエル・ミグダルが論じた「弱い国家・強い社会」2の事例であるとみられてきた。国家の統治能力・資源分配分能力が弱いなか、地方の利権を牛耳る「地方ボス」の略奪的行為も注目されてきた3。2010年以降は、民主的な選挙で選ばれた政治的指導者が、そのポピュリスト的な権力基盤をもとに権威主義的な政権運営を行う「ストロングマン」4の事例として、ドゥテルテ大統領の手法が大きく注目されてきた5。
 しかし果たして、2021年のフィリピンは本当に、「弱い国家」のままなのか。ドゥテルテ大統領は「強い」指導者なのか。
 第1回の本稿の結論は、次の2点である。
 第一に、ドゥテルテ大統領が感染症対策に便乗して、その権力を超法規的に強化しているとは言い切れない。これは、タイ6やインド7とは異なる点であろう。
 ドゥテルテ政権の強権的な手法は、かねてより国際社会の耳目を集めてきた。麻薬密売人・使用者の殺害、左派系活動家の迫害・殺害、政権に批判的なジャーナリストの迫害などの人権侵害は、2016年の政権発足時から続いている。2020年5月には、フィリピン最大のテレビネットワーク局ABS-CBNが放送を停止させられた。政府の感染症対策をインターネット上で批判した市民が令状なしで逮捕される事態も発生している8。日本でも「ロックダウン措置に違反した者は射殺してもよい」といった彼の粗暴な発言が報じられたし、実際、外出制限に違反した者は次々に逮捕された。
 しかし、非常事態宣言も規制措置も、憲法に則ったものである。COVID-19が大統領の権限を不当に強めたわけではなく、COVID-19以前から続く政権の権威主義的体質が継続しているとみるべきであろう。
 第二に、ベニグノ・アキノ前政権を支えたリベラル派の野党や、かつての民主化運動を支えたNGO業界の発言力は低下しているのだが、これは、大統領が彼らの口を封じているという単純な話ではない。過去の政権は、NGO幹部のような市民社会のオピニオン・リーダーを政権入りさせ、多様な勢力との利害調整を図ってきた。しかしドゥテルテ政権は、リベラル派との間に調整役を配置しないままに高支持率を維持している。COVID-19という未曽有の国家的危機において、NGOは社会的弱者への支援に奔走したが、それでも、国家がNGOの役割を再発見するほどのインパクトにはつながらなかった。
 1986年の民主化以降のフィリピンの「弱い国家」は社会の有力エリート層に安易に妥協してしまうが、同時に、野党や市民社会からの突き上げにも妥協する柔軟性を持ち合わせていた。政権と市民社会の間の垣根が低く、市民社会勢力がガバナンスを支えていくダイナミズムが見られた。ドゥテルテ政権下ではそれが停滞している。それは何を意味するのだろうか。

2.規制措置の制度的枠組み

 中国湖北省武漢市がロックダウンを導入して10日が経った2020年2月上旬、ドゥテルテ大統領は、「COVID-19は限られた国のみで蔓延している感染症であり恐れるに足らない」と述べ、中国からのフライトも制限しないと明言した。しかし、東南アジアの近隣諸国で陽性者が増加し始めた同年3月16日には、方針を180度転換し、マニラ首都圏およびルソン島広域に、もっとも強い隔離・移動規制措置(Enhanced Community Quarantine:ECQ)を発令した。すべての市民の夜間外出禁止(21時から翌朝5時まで)と、未成年者、高齢者、妊産婦、免疫機能低下者などの通院時以外の外出禁止などを含むこの措置は、5月16日まで2ヶ月にわたって実施された。
 フィリピン政府は表1のように隔離措置を4段階に分類し、自治体(市町村、人口密集地域ではさらに下位の最小自治体ユニットであるバランガイ(barangay))ごとに、隔離の度合いを定めてきた。 
表1 フィリピン政府の隔離・移動規制措置の種類

レベル4:ECQ(Enhanced Community Quarantine)
レベル3:MECQ(Modified Enhanced Community Quarantine)
レベル2:GCQ(General Community Quarantine)
レベル1:MGCQ(Modified General Community Quarantine)

※上へ行くほど厳しい措置となる。判断基準は、①社会、経済、安全の諸要素、②感染者のクラスター、③医療設備のキャパシティ、④新規感染者数、集中治療施設利用率など。

 表2は、2020年のフィリピン政府による規制措置や関連法の成立を、時系列順に整理したものである。
 2020年3月当初の規制措置は、議会の同意を必要としない大統領布告(Presidential Proclamation)によって規定された。しかしこれは、必ずしも大統領の権限濫用を意味しない。クーデター未遂やテロ事案の直後、非常事態宣言や反乱状態宣言、無法暴力状態などが大統領布告という形式で発出されることは憲法に則っており、過去にも多くの事例がある。大統領布告は、大統領に新たな権限を付与する性質のものではなく、軍および警察に対する大統領の指揮命令権限を、憲法18条の非常事態規定に則って再確認するものである。
 その後、大統領布告を後追いする形で、議会が恒久法や特別措置法を審議、可決してきた。むろん、それらの内容には賛否両論があったが、少なくとも、大統領に超法規的権限が追加されたり、議会が恣意的に停止させられたりといった事態は発生していない。
表2  2020年のフィリピン政府のCOVID-19対応
3月8日 公衆衛生に関する緊急事態宣言(大統領布告922号)の公布。すべての学校が休校措置となる。
3月16日 マニラ首都圏およびルソン島広域にECQ(レベル4)発令(大統領布告929号)。夜間外出禁止(21時から翌朝5時まで)、未成年者、高齢者、妊産婦、患者、免疫機能低下者は通院時以外の外出禁止、公共の場でのマスク着用義務、許可された者以外の通勤、食料品や薬品の買い出し禁止などが規定された。
3月26日 共和国法第11469号「国民が一体となって回復するための互助特措法」(Bayanihan to Heal as One Act)施行。(6月24日まで)。危機対応における大統領の権限、隔離措置下での禁止事項、貸付金や賃料の納付延期、医療従事者への補償などを規定。
4月1日 大統領が「外出禁止に従わない者は撃ち殺しても構わない」と発言。国連人権高等弁務官事務所、国際NGOから批判される。
5月16日 マニラ首都圏のECQが2か月ぶりに解除され、MECQ(レベル3)へ引き下げられる。また、以後の措置は大統領布告ではなく「タスクフォース決議」により国民に通知されることが発表される。
7月21日 令状なし拘留期間を3日間から最長24日間に延長することなどを可能にする「反テロ法」が議会で成立。
7月27日 大統領の施政方針演説。貧困世帯への2,000億ペソ(4,400億円)規模の支援を強調、「独立した外交政策」を確認、「中国と軍事的に争うのは無意味」、「習近平国家主席に、ワクチンを開発したら最初に供給してほしいと要請した」などと発言した9 。
8月15日 運輸省が公共交通機関利用者に対してフェイス・シールドの着用を義務付ける。
8月19日 マニラ首都圏を含む多くの地域の隔離措置がGCQ(レベル2)に引き下げられる。政府は「MECQ(レベル3)以上の発動は国内経済に取り返しのつかない打撃を与える」として、以後の引き上げをしない方針を発表した。(以降、首都圏では、2021年3月29日に再びECQ(レベル4)が発令されるまでGCQが据え置かれた。)
8月24日 「国民が一体となって回復するための互助特措法2」が議会で可決される。医療体制拡充、低所得者や失業者への支援、帰国した海外出稼ぎ労働者への支援、零細中小企業への貸し付け、遠隔教育などに、総額1,655億ペソ(約3,600億円)の予算を計上する内容。
10月5日 小中高校の新学期の開始(オンライン授業のみ)。
 フィリピン政府は初動期より、感染症の情報収集および規制措置の決定のために、2つの省庁間タスクフォースを設けてきた。そこには、大規模災害の度に省庁間タスクフォースを運用してきた災害多発国としての経験が生かされている。
 規制措置の引き上げや引き下げは、保健大臣率いる省庁間タスクフォース(Inter-Agency Task Force for the Management of Emerging Infectious Diseases)において決定される。タスクフォースには、医師をはじめとしたテクノクラート、経済界の代表が含まれる10。
 これに対して、中長期的アクションプランの策定は、元軍人らを中心とした国防コミュニティ関係者から構成される別のタスクフォースによって担われている。同タスクフォースは、自然災害対応の司令塔となる国家災害リスク軽減管理評議会(NDRRMC)の下にあり、その事務局は、国防省の市民防衛局(Office of Civil Defense)が担っている。
 日本の報道では、感情的で曖昧な大統領の発言ばかりが伝えられるが、実際は、このように制度化された省庁間タスクフォースが日々、国民やメディアに対する地道な情報伝達を担ってきた。

3.困窮世帯への支援策

 どの国の政府も、感染拡大防止策と経済政策との舵取りに腐心している。サービス業に従事する人口割合が高く、かつインフォーマルセクター労働者を抱えるフィリピンにおいても、厳格なロックダウンの代償は甚大である。
 国家統計局によると、フィリピンの労働者人口の約57%から58%がサービスセクターに従事している11。COVID-19前の2019年第4四半期、サービスセクターが国民総所得(GNI)に占める割合は48.5%であった12。これらサービスセクター、特に飲食業、運輸業はロックダウンによって深刻な打撃を受けた13。
 国際労働機関(International Labor Organization:ILO)は、インフォーマル産業に従事している労働者の苦境を警告している14。フィリピンではかなりの人口が、露天商や二輪タクシーの運転手、建設業といったインフォーマルな労働に従事しており、休業しても補償はない。規制措置によって外出ができないとなると、こうした労働者は、即座に生計の手段を断たれる。
 現地の民間調査会社であるパルスエイシア(Pulse Asia)が2020年11月末から12月にかけて全国で実施した世論調査(複数回答可)によると、回答者の58%がCOVID-19のために仕事や収入減を失い、44%が収入減少を経験したという15。別の調査会社ソーシャル・ウェザー・ステーション(Social Weather Stations)が2021年4月末から5月にかけて実施した調査によると、成人の失業率は25.8%と、COVID-19前の2019年12月の数値である17.5%を大幅に上回った16。
 COVID-19によって生計手段を失った個人や世帯に対する経済的支援策は、先に挙げたタスクフォースとは別に、自治体および社会福祉開発省が主体となって実施されてきた。困窮世帯への支援金の給付は複数回にわたって実施されており、ロックダウン下では各自治体が食糧の無償配布を展開している。
 ソーシャル・ウェザー・ステーションが2020年7月に実施した世論調査によると、回答者の72%が、政府から何らかの支援金を受けとっていた17。同年9月にパルスエイシアが実施した調査では、ドゥテルテ大統領の防疫策に対し、高く評価するとの回答が33%、ある程度評価するとの回答が51%に上った。また、生計を失った人々への支援金給付についても、高く評価するとの回答が32%、ある程度評価するとの回答が53%に上った18。
 フィリピンは貧富の格差が大きく、貧者が行政サービスから取り残されていることは事実であるが、市民の側は支援を求めて積極的に行政に働きかける。また行政の側も、貧困世帯の実情をある程度は把握している。社会福祉開発省は、2000年代後半に導入された最貧困世帯への条件付現金給付(Conditional Cash Transfer)の施行過程で同省のソーシャルワーカーを貧困地域に派遣・巡回させ、世帯ごとの面談を通じて情報を収集してきた。また、土地の区画配分を担当する天然資源環境省や国家住宅庁は、スラムと呼ばれる非正規居住地区で何度も調査を実施しており、その人口動態をかなり正確に把握している。
 もちろん、行政の支援には限界がある。日々の食糧にも困窮する世帯に対し、財閥や大企業、ライオンズクラブなどのフィランソロピー団体は、何度も食糧や学用品の配布を実施してきた。首都圏が二度目のロックダウンに突入した2021年4月には、農家が収穫した農作物を路上に置いて貧困層に無償で提供したり、あるいは、自宅に食糧ストックを豊富に持つ世帯が自宅の軒先にそれらを置いたりする「コミュニティ・パントリー(community pantry)」運動が全国的に広がった。

4. フィリピンの国家-NGO関係

 フィリピンはアジアでもっともNGOの活動が活発な国とされてきた。フィリピン政府は、1987年憲法(現行憲法)や1991年地方自治法、5年ごとに見直される中期開発計画などに、NGOや住民組織の政治参加の重要性を明記してきた。
 重富(2001)19は、アジア各国のNGOの活発さを規定する要因を、図1のように、政治的スペース(国家からの規制・締め付けが弱ければ、NGOのスペースは拡大する)と経済的スペース(国家のサービス提供能力が弱ければ、NGOのスペースは拡大する)の2点から説明している。
図1  NGOの活動スペース(重富2001より)
 同書によると、フィリピンは図1のAに相当する。フィリピンのNGOは、国家に代わって市民にサービスを提供しつつ、「大きな国家」を求めるアドボカシー(国家のサービスの拡充を呼びかけるアドボカシー)と展開してきた。中央省庁も自治体も、NGOを、国家の役割を補完するパートナーと見なし、その活動を規制することなく、寛大に接してきた。NGOはそうした政治的スペースの広さを存分に活用し、政府の汚職、行政の非効率、ネポティズムなどを堂々と指摘し、ガバナンスの改善を迫ってきた。
 民主化後、欧米ドナーから安定的な資金援助を受けてきたフィリピンのNGOは、管理費や人件費に潤沢な予算を回すことができた。国際機関や欧米ドナー向けに英語でプロポーザルを書ける人材がNGOで勤務し、さらなる資金を獲得した。また、80年代の民主化運動に従事した優秀な人材の多くがNGOの事務局長や幹部職に就き、政権に入った仲間たちとの人的ネットワークを駆使しながら、政策提言やロビイングを実施してきた。
 このように、政府の役割を補完しながらも政治的発言力を有する、というのが、民主化後のフィリピンのNGO業界の特徴であった。NGOは野党と協力して政権批判を展開するし、選挙となれば、各NGOはそれぞれに人脈を持つ候補者を堂々と支援し、党派化する。
 フィリピンのNGOは、政権内部にも入り込むのが常である。アメリカ型大統領制をとるフィリピンでは、6年に1度の政権交代に伴って、大統領と近しいNGOの幹部が閣僚入りし、福祉政策や貧困対策に大きな影響力を持つ。エストラダ政権(1998-2001)、アロヨ政権(2001-2010)、ベニグノ・アキノ政権(2010-2016)のすべてが、市民社会のオピニオン・リーダーともいえるNGOの重鎮幹部らを閣僚に登用してきた。彼らは、政権と野党、政権と市民社会、そして政権と社会的弱者を媒介する役割を果たしてきた。
 ドゥテルテ大統領は就任当初、非合法のフィリピン共産党と近い急進左派の活動家らやNGO幹部を閣僚に迎え入れ、共産主義勢力との和平合意も達成するという壮大なプロジェクトを描いていた。しかし、政府と共産党勢力との和平交渉が早々に決裂したことで、その目論見は崩れ去る。それ以降、大統領は一転して、左派を批判・弾圧する方針に転換した。
 ドゥテルテ政権発足後のこの5年間、政権は国内外から人権侵害を非難されつつも、まったく妥協を見せなかった。従来の政権であれば、閣僚や側近の中に、野党勢力や「人権派」と近い人物が数名は存在し、国家人権委員会や国際社会との調整役を果たし、市民社会の声を多少は取り込もうと努めたはずである。しかし、プロジェクトを早々につぶされた大統領は、対話の意欲を失ったのか、人権侵害を正当化する強気の発言を繰り返した。さらに、左派のみならず、アキノ前政権を支えた元閣僚らやリベラル派のNGO20,そして政権に批判的なジャーナリストの言論を敵視している。
 これは、一般に理解されているような、「政権が反対勢力の声を封じ込めている」という単純な話ではない。政権と市民社会とを媒介する調整弁が設けられていないのである。
 こうした中、COVID-19という未曽有の国家的危機が、フィリピンNGOの役割を「再発見」するのではないか、との期待もあった。しかし、NGOの経済的スペースは縮小する一方である。過去15年あまりにわたって、欧米ドナーはフィリピンから徐々に撤退し、ミャンマーやカンボジアのような東南アジアの貧困国、あるいはアジア以外の最貧困国に軸足を移してきた。資源を失ったフィリピンのNGOは、国内にまだまだ残存する貧困層を救済するだけの経済的資源を持ちえない。また幸いなことに、前政権時代から続く経済成長を背景に、政府のキャパシティは高まっている。NGOが国家を補完する時代は終わりつつある。

5.NGOの「代表性」の弱まり?

 ドゥテルテ大統領が、ここまで外野の言論を無視できるのはなぜだろうか。「彼が強権的だから」「支持率が高いから」というだけでは、説明がつかないのではないか。フィリピンのように、多民族・多言語で、かつ、国民の社会階層も大きく分断されている国では、社会の諸勢力との協力・調整も、指導者の「強さ」の要素である。いくら支持率が高くとも、強権性とポピュリスト的な言動だけで、5年間もその支持基盤を維持できるはずがない。
 一つの仮説は、NGOはもはや、多様な勢力の利害を代表できる存在ではなくなった、というものである。
 従来、フィリピン社会の亀裂は、エスニシティ、言語、そして社会階層から説明されてきた。中でも社会階層の分断は深刻で、大統領選挙では決まって貧困対策が重要な争点となった。ただしフィリピンの政党は有力な個人のもとに呉越同舟するチームのような性質を持っており、異なる社会勢力の利害を代表してはいない。そうした中、NGOが政党に代わって社会の利益を集約してきた21。選挙の洗礼を受けていないNGOは本来、なんの代表性も持たないはずだが、NGOは、選挙後に新政権が諸勢力と利害調整を行う際の調整役をも果たしてきた。アロヨ政権は前任者のエストラダを支持した貧困層と和解しようと、NGO出身の幹部らに調整を命じたし、ベニグノ・アキノ政権も、貧者への共感を公約として落選した対抗馬らを指示したNGOに資源を分配するなどの配慮を行ってきた。
 しかし、NGOが社会の諸勢力の声を集約できるような時代は終わったのかもしれない。筆者の調査地であるマニラ首都圏のスラムの青少年組織の20代のリーダーらは、その地で長く活動を続けてきた老舗NGOの幹部らの言葉を「伝統的(traditional)」だと批判する22。彼らによると、NGOによるドゥテルテ政権批判23は、特権階級と貧困層との格差やエリートによる汚職といった聞き覚えのあるテーマに終始し、現状を嘆いているだけにしか聞こえないという。彼らは、先述したコミュニティ・パントリー運動の展開を受けてSNS上でNGO職員らが一斉にシェアした「貧困層に対して十分な支援策を打ち出せない政府」と、「相互扶助精神(タガログ語でbayanihan)を発揮する共同体」を対比させる論調を、「これだから、リベラルは古い」と切り捨てた。
 NGO職員らの発言を手垢のついたナラティブとして敬遠する若年層の姿勢は、橘玲の新書『朝日ぎらい:よりよい世界のためのリベラル進化論』24の議論を想起させる。同書は、読売新聞と早稲田大学現代政治経済研究所が共同で実施した世論調査を引用しつつ、日本の20代が、リベラルとは「自民党や日本維新の会」であり、保守とは「公明党や共産党」であると認識していることを指摘している。
 日本よりも若年層人口の割合がはるかに高いフィリピンでも、類似の現象が起こっている可能性が考えられる。すなわち、ベニグノ・アキノ前政権を支えたリベラル勢力や左派やNGO業界は保守的で、現代社会の多様性を反映していない、ドゥテルテ大統領こそが「革新」であるとの認識が、若年層に広がっている可能性がある。
 ドゥテルテ大統領は就任以降、野党自由党やNGO業界を徹底的に無視する一方で、それを補って余りあるほどに、その他の社会勢力と温情的な取引を行い、広範な層の政治参加を寛大に許してきた可能性がある。彼は選挙キャンペーン中から、組織化されていない有期契約労働者や、ミンダナオのエスニック・マイノリティに配慮すると明言してきた。就任後は、伝統的なエリートである軍部に対し、手厚い恩典を与えてきた。彼にとっては、政権に社会の多様な声を届けてくれるアクターは、NGOではなかったのかもしれない。
 だとすれば、彼を単に強権的な「ストロングマン」と決めつけることは短絡的であろう。ドゥテルテ政権は、社会の諸勢力とどのように取引を行っていたのか、あるいは行っていなかったのか、そのメカニズムを解明する価値は、十分にあるように思われる。そして、フィリピンの「市民社会」とは民主化を希求したNGOや左派によって担われるという既存の理解も、見直すべき時が来ているのかもしれない。

1 米国の戦略国際問題研究所(Center for Strategic and International Studies, CSIS)が、東南アジア11ヶ国の新規感染者数、累積感染者数、死者数などを以下のサイトでアップデートしているので、最新のデータについてはそちらを参照されたい。CSIS Southeast Asia Covid-19 Tracker. <https://www.csis.org/programs/southeast-asia-program/southeast-asia-covid-19-tracker-0>
2 Migdal, Joel. 1988. Strong Societies and Weak States: State-society relations and state capabilities in the Third World. Princeton: Princeton University Press.
3 実際にはそう単純ではなく、膨大な研究が蓄積されている。それらを端的にまとめたものとして、後掲の外山(2018)に収録されている佐久間美穂のコラム「フィリピンは弱い国家か」がある。また、詳細な分析としては、川中豪(2001)「フィリピン地方政治研究における国家中心的アプローチの展開(書評論文)」『アジア経済』第42巻2号.がある。
4 外山文子、日下渉、伊賀司、見市建編著(2018)『21世紀東南アジアの強権政治:「ストロングマン」時代の到来』明石書店
5 前掲書第3章の、日下渉「国家を盗った『義賊』」を参照。
6 玉田芳史(2020)「2つの病と1つの封じ込め策:コロナ禍のタイ」『国際問題』No.697.
7 中溝和弥(2020)「コロナ禍と惨事便乗型権威主義:インドの試練」『国際問題』No.697.
8 Marites Danguilan Vitug. 2020. “Amid the Pandemic, a Killing, Arrests and Crackdown on Freedom” CSEAS NEWSLETTER, 78: TBC. <https://covid-19chronicles.cseas.kyoto-u.ac.jp/post-013-html/>
9 5th State of the Nation Address <https://pcoo.gov.ph/wp-content/uploads/2020/07/20200727-5TH-State-of-the-Nation-Address-of-Rodrigo-Roa-Duterte-President-of-the-Philippines-to-the-Congress-of-the-Philippines.pdf>
10 タスクフォースウェブサイト <http://www.doh.gov.ph/COVID-19/IATF-Resolutions>
11 Philippine Statics Authority, 2020. Employment by economic sector in the Philippines 2020. <https://www.statista.com/statistics/578788/employment-by-economic-sector-in-philippines/>
12 Philippine Statics Authority, 2020. National Accounts of the Philippines, January 2020.
13 International Labor Organization, 2020. COVID-19 labour market impact in the Philippines: Assessment and national policy responses.
14 ibid.
15 Pulse Asia. <http://www.pulseasia.ph/november-2020-nationwide-survey-on-covid-19/>
16 Social Weather Stations, Press Release, June 16, 2021. <https://www.sws.org.ph>
17 Social Weather Stations. <http://www.sws.org.ph/swsmain/artcldisppage/?artcsyscode=ART-20200807142142>
18 “Pulse Asia: 8 in 10 Filipinos approve of Duterte gov't's coronavirus response.” Rappler, October 8, 2020. <https://www.rappler.com/nation/filipinos-approval-duterte-government-covid-19-response-pulse-asia-survey-september-2020>
19 重富真一編著(2001)『アジアの国家とNGO─15カ国の比較』明石書店
20 フィリピンにおける狭義のリベラルとは、1946年に創設された老舗政党としての自由党(Liberal Party)とその支持層を指すが、広義のリベラルは、自由党だけでなく、自由・民主主義・人権といった価値の浸透を呼びかけてきた市民社会グループを含む勢力を指す。ベニグノ・アキノ前大統領も、彼の父ベニグノ・アキノ・ジュニアや母コラソン・アキノも自由党所属であり、アキノ前政権は、自由党、穏健左派、民主化運動経験者、調査報道に携わるジャーナリストといった層であり、現代ではそれらの層を総称して、リベラル(the liberals)と呼ぶことが多い。
21 川中豪(2005)『ポスト・エドサ期のフィリピン』日本貿易振興機構アジア経済研究所.52ページ。
22 2021年6月10-13日、筆者インタビュー(オンライン)。
23 政府のCOVID-19対応に対するNGOからの批判は、次の4点に集約できる。第一は、閣僚や議員といった特権エリート層が優先的にPCR検査やワクチン接種を受けていることへの批判である。第二は、政府のワクチン確保および接種が遅々として進まないことへの批判である。第三は、国民に対する補償が不十分であるとの批判である。第四は、フィリピン健康保険公社汚職疑惑の追及である。
24 橘玲(2018)『朝日ぎらい:よりよい世界のためのリベラル進化論』朝日新書.

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