東南アジアにおける対日世論調査の課題と可能性:ヘッジングを具体的に語るために
2023年は、日本ASEAN友好協力50周年である。日本では、日本と東南アジア諸国、あるいはASEAN(東南アジア諸国連合)と戦略的にどのように付き合っていくべきか、日本の国益を東南アジアでどのように最大化するかといった点が大きく注目されている。
前稿[マレーシアの新型コロナウイルス対応 (1)―2020年前半期の政府と社会の対応]では、マレーシアにおける新型コロナウイルス(以下、「コロナ」と省略)に対する対応について、2020年3月から5月の感染拡大の第二波の時期を中心に政府と社会の動向を検討した。本稿では、2020年9月末から2021年2月初頭までのコロナ第三波の期間を視野に入れて、コロナ危機下での政局の動向を中心とした検討を進めたい。
2021年1月に国王は、急拡大するコロナ感染の拡大を抑止する目的で、ムヒディン内閣からの助言に基づいて憲法150条1項の規定に基づいた非常事態宣言を全土に発令した。非常事態宣言の発令によって議会が停止され、選挙の実施が延期されることになった。議会停止や選挙延期という重大事態をもたらした非常事態宣言はなぜ、どのような背景で発令されたのか。本稿執筆段階の2021年2月初頭のマレーシアの政治とコロナとの関係性を理解するためには、コロナ危機が発生した2020年の状況に加えて、2018年の史上初の政権交代やそれに至るまでの過程の理解が必要不可欠である。
2020年のマレーシアはコロナに翻弄されたと同時に、大きな政治変動を経験した年でもあった。最大の政治的変化は2018年5月の総選挙で史上初の政権交代を成し遂げた政党連合の希望連盟(PH)が内紛によって2年も経たずに政権を失い、マレーシアで60年以上与党として君臨し続けてきた統一マレー人国民組織(UMNO)が再び政権に復帰したことである。そこでまずは、PH政権発足の経緯と、なぜPH政権が短命に終わったのかを説明することからはじめ、その後に2020年のコロナと政局との絡み合いについてみていくことにしよう。
2018年5月の総選挙を経て史上初の政権交代を成し遂げたPH政権を率いたのは、第4代首相で1981年から2003年まで22年におよぶ異例の長期政権を担ったマハティール・モハマドである。マハティールは、2016年に当時の首相だったナジブ・ラザクが関わったとされるワン・マレーシア開発公社(1MDB)の汚職スキャンダルを批判してUMNOを離党し、マレーシア統一プリブミ党(PPBM)を結成することでナジブを首相から引きずり降ろそうとした。PPBMには、ナジブ政権の副首相でマハティールと同じくナジブと対立してUMNOを去り、2020年3月から第8代首相に就任したムヒディン・ヤシンも参画した。マハティールやムヒディンのUMNO離党とPPBM結党は、史上初の政権交代に向けての重要な要因であったが、それと同等かそれ以上に重要だったのは、長年、人民公正党(PKR)の事実上のトップであり続け、1990年代末以降の野党連合の形成に大きな役割を果たしてきたアンワル・イブラヒムと、マハティールとの政治的和解だった。
アンワルは第一次マハティール政権(1981~2003年)下の1993年から1998年まで副首相を務め、マハティールの後継者と目された人物だった。しかし、1997年のアジア通貨危機に端を発した経済危機が深まるなかでマハティールとアンワルは対立し、アンワルは政治改革運動を率いてマハティールに対抗することとなる。最終的にアンワルは政府と与党UMNOから追放されたうえで、汚職と同性愛の罪に問われて逮捕・拘禁された。その後のアンワルは2004年に釈放され、2006年になると政治活動を再開して野党勢力を率いる中心人物となった。アンワルを中心的指導者とした野党勢力は、2008年総選挙後に野党連合の人民連盟(PR)を結成して与党への攻勢を強めた。しかし、2014年には1990年代末に続く2度目の同性愛の罪に問われた裁判で敗れ、再び拘禁されてしまう。アンワルの政治活動を封じられた野党勢力ではリーダーシップの迷走が始まった。PRの構成政党間の対立も深まり、2015年にはPRの構成政党であったイスラーム主義政党の汎マレーシア・イスラーム党(PAS)がイスラーム法の施行にかかわる問題で他の野党と距離を置いたことをきっかけに、PRは活動を停止して崩壊した。
マハティールやムヒディンらのPPBMを結成したUMNOからの離党組は、以上のように野党の顔であったアンワルが政治的に活動できず、野党勢力の結束が乱れる状況下でナジブ首相の追い落としを画策したのである。街頭抗議や連邦下院での首相の不信任決議の可決が空振りに終わった後、マハティールは野党勢力を結集させ選挙を通じて政権交代を目指すことになった。そのためにどうしても必要だったのが、マハティールとアンワルの和解と協力だった。マハティールは2016年9月に裁判所に自ら出向いて報道関係者が取り囲むなかでアンワルと18年ぶりに面と向かって会い、和解の握手を交わした。こうした和解劇を通じてマハティールは一般の野党支持者の結集を図った。他方で野党指導者たちの間では、政権交代を果たした直後はマハティールが首相を務めるものの、任期途中でマハティールは退任して後継首相としてアンワルを指名するという合意が形成された。
マハティールからPPBMの主導権を奪い、UMNOとPASを連立パートナーとして首相に就任したムヒディンだったが、その政権基盤は最初から非常に不安定であった。総選挙を経ずに政党および下院議員の組み換えを通じて成立したムヒディン政権は国民からの正統性の確保に問題を抱えるとともに、現在でもムヒディン政権から離反者が出て政権が崩壊する可能を抱えている。それは、ムヒディン政権を構成する与党が連邦下院で過半数をわずかに超える議席しか確保していないからである2。さらにムヒディン政権を支えるはずの最大与党のUMNOのなかには、ムヒディン政権に不満を抱いて離反の兆しを見せている議員も一定数おり、一般党員のなかでもムヒディンが代表のPPBMとは次期総選挙を一緒に戦えないとの声が高まっている。与野党の勢力伯仲下で与党が内紛を起こしている状況は本来野党にとって最大のチャンスであるはずだが、野党はこのチャンスを生かすことができていない。それは野党もまた団結を欠いていたことと、コロナ感染拡大のタイミングがムヒディン政権を延命させる力学として作用したからである。以下では、2020年9月に第三波が始まる以前のコロナと政局との関係性をみていくことにしよう。
最初に、ムヒディン政権に挑戦する側のマハティールや野党に焦点を当てる。2020年2月の政変によって下野したPHの指導者アンワルやムヒディンに党と政権を奪われた形となったマハティールは、3月1日のムヒディン首相の就任から直ちに議員を寝返らせることで再び政権を取り返そうとする動きに出た。最初に動いたのはマハティールだった。マハティールはムヒディン首相を連邦下院での不信任決議案の可決で追い込もうとした。しかし、連邦下院の開催延期と期間短縮によってそれは不可能となる。
ムヒディン政権発足前のスケジュールでは、連邦下院の本来の開催日は3月9日に予定されていた。しかし、政変を経て唐突にスタートしたムヒディン政権の組閣が完了したのが3月9日であり、首相や閣僚の連邦下院での論戦の準備が整わなかったために、開催日は5月18日に延期された。当初は3月9日をターゲットにしていたマハティールも最終的には5月18日の連邦下院の開催に焦点を当てて、ムヒディン首相の不信任案提出に向けた政界工作を始めた。しかし、この3月から5月の2か月間の時間はマハティールの政界工作に致命的な悪影響を与えた。
まず、2か月の時間を使い、ムヒディン首相は政府と自党のPPBMからマハティール色を払拭していった。なかでも政府の部局や政府系企業のポストの確保と配分はムヒディンに支持拡大の資源を与えた。例えば、政府系ファンドで最大の規模を誇るカザナ社ではマハティールに代わりムヒディンが取締役会の議長になったほか、マハティール政権下で就任した取締役が2020年3月に退任し、4月からムヒディン首相の意に沿う新たな人物が据えられた。このように、ムヒディン首相は政府やその関連企業のポストの確保と配分を通じて自派の勢力を伸ばしていった。
さらに、3月から始まった第二波のコロナ感染拡大のタイミングが決定的だった。PPBMでは3月1日にムヒディン政権が成立してから5月28日にマハティールが党員資格を剥奪されて党を追放されるまでの間に、ムヒディン派とマハティール派の党内での綱引きがあった。2020年のPPBMは、当初は1月から4月にかけて草の根から中央のレベルに至る各党組織での会議と党選挙が実施される予定で、ムヒディン派とマハティール派の党内抗争が激化するシナリオも有り得た。しかし、コロナの第二波が拡大することで、3月18日から全土で「活動制限令」(MCO)が施行されて市民生活が大きく制限された。もちろんPPBMの党内選挙活動も同様である。仮にコロナがなければ、PPBMの党内選挙活動はマハティール派にとってはムヒディンによる党権力の奪取に疑義を示し、選挙を経ないまま成立したムヒディン政権の正統性に正面から抗議するまたとない機会となったはずだった。しかし、低調な選挙活動とコロナに人々の関心が集中する中で、コロナ対策の中心となったムヒディン首相に一層の注目と支持が集まったのである。
極めつけは連邦下院の期間短縮である。5月18日に開催が延期された連邦下院は、MCO下でのコロナ抑制を理由として国王の開会演説を行った後、その日のうちに閉会した。連邦下院が1日しか開かれなかったことで、マハティールが主導した5月の不信任決議案の提出は不可能になったのである。
5月の連邦下院でのムヒディン首相に対する不信任決議は不発に終わったものの、与野党間の議席差は僅差のままでムヒディン政権の不安定さは変わらなかった。とはいえ、野党側もまとまりを欠いて政権を追い込むことに困難が生じていた。最大の原因はPPBMから追われて無所属3の立場になったマハティールと、PHを率いるアンワルとの対立である。6月初頭にはアンワル以外のPHの指導者の間からはマハティールをムヒディンに対抗する首相候補としようとする声があったが、アンワルがそれを拒否し続けた。アンワルやその支持者にとっては、PH政権の時代にマハティールからの首相の禅譲を前提として協力し続けたものの約束が果たされなかったことから、マハティールへの強い不信感を抱いていたとみられる。一方でマハティールはメディアとのインタビューで、アンワルの指導者としての欠点を指摘するとともに、彼や彼が総裁を務めるPKRの民族や宗教に対するリベラルな態度では、保守的なマレー人からの支持を集めることはできないと批判しており、少なくともPH政権が崩壊した時点でアンワルと自分から進んで協力しようとする姿勢を放棄していたようである4。
マハティールとアンワルが相互に不信を強めるなかで、野党が推す第三の首相候補としてサバ州の地方政党でPHと同盟関係にあるサバ伝統党(WARISAN)代表のシャフィー・アプダルを推す動きが、マハティールやその周辺から出てきた。マレーシアのなかでマレー半島から地理的に離れた東マレーシアのサバ州とサラワク州の2州は、憲法の規定に従って他州と比べて一定の自治を認められ、政治的にもマレー半島部とは異なる独自のブロックを構成している。そのため、シャフィーを首相候補として推すことは野党が東マレーシアを政治的に取り込む戦略としても有効であった。しかし、この動きもアンワルらの反対で実現しなかった。最終的にPHは政党間の合従連衡や与党の寝返りを促す政界工作をアンワルに一任することになったが、野党全体としてみればまとまりを欠いたままでムヒディン政権に対峙することになったのである。
連邦下院で現在のムヒディン政権を支える与党は、政党連合の国民連盟(PN)、UMNOが中核政党の政党連合の国民戦線(BN)、サラワク州の政党連合のサラワク政党連合(GPS)、サバ州の地域政党のサバ団結党(PBS)である。PNを構成するのは、ムヒディンがマハティールから主導権を奪ってPHから離脱させたPPBMとイスラーム主義政党のPAS、そしてサバの地方政党の故郷団結党(STAR)とサバ進歩党(SAPP)である。
サバ州とサラワク州を基盤とする政党(連合)をいったん除外すれば、現在のムヒディン政権を支える与党とはマレー半島を基盤とするPPBM、PAS、そしてUMNOである。この3党はいずれも多数派のマレー人を支持基盤とする政党である。各党トップレベルの幹部の間では、連立を維持してムヒディン政権を支える合意があるが、各党の草の根レベルの支部や州の幹部の間ではマレー人の支持をめぐってお互いに対立する構図がある。なかでも元は同じ政党だったUMNOとPPBMの草の根レベルでの対立は抑えきれないものであった。実際にUMNOとPPBMはジョホール州やサバ州で州政権のポストをめぐって対立が表面化し、ペラ州では両党の対立の結果、PPBMの州首相がUMNOの州首相にとって代わられるという事件も起こっている。
ムヒディン政権を支えるマレー人与党の下院議席数は、UMNOが38議席、PPBMが31議席、PASが18議席で、最大の議席数を誇るUMNOのなかにはムヒディン首相への支持をためらい、アンワル支持に鞍替えする可能性がある議員が複数存在しているとされる。ムヒディン政権は野党からの攻勢を耐えるだけでなく、自陣営のなかからの裏切りを常に警戒しなくてはならない不安定な状況に置かれている。これまでムヒディン政権が政権を維持しているのは、先述のように野党内の対立やコロナの影響という外部的要因に大きく助けられているためである。
これまでみてきたようなムヒディン政権下の与野党伯仲の下で、連邦だけでなく各州政権も議員の鞍替えを通じて動揺した。そのうちサバ州では、2018年総選挙を経て成立したサバの地方政党WARISANがPHとの同盟関係のもとで州政権を担っていた。連邦でムヒディン政権が成立した後もWARISANは州政権を維持していたが、2020年6月から7月にかけてWARISAN政権からPNやBNに鞍替えする州議員の動きが活性化した。UMNOの州議員で前州首相のムサ・アマンが新政権成立に必要な州議員の数を確保したと宣言したところで、現役州首相のシャフィーが州議会を解散して選挙に突入した。9月26日実施された投票の結果、WARISANは州政権を失ってサバ州は連邦と同じ与党の下で統治されることになった。
問題が発生したのはサバ州選挙が終了した直後からである。表1は2020年9月26日のサバ州選挙の投票日から1か月ごとのコロナ患者数を各州別で示している。
表1: 各州および連邦直轄地のコロナ患者数の推移(2020年9月26日以降)
9月26日 | 10月26日 | 11月26日 | 12月26日 | 1月26日 | |
---|---|---|---|---|---|
プルリス州 | 33 | 38 | 43 | 46 | 156 |
クダ州 | 352 | 2052 | 2446 | 2949 | 5349 |
ペナン州 | 142 | 942 | 1847 | 3191 | 7390 |
ペラ州 | 269 | 483 | 1470 | 3042 | 5603 |
スランゴール州 | 2230 | 4264 | 12912 | 29161 | 56751 |
クアラルンプール | 2661 | 2976 | 5300 | 12437 | 22349 |
プトラジャヤ | 99 | 141 | 204 | 263 | 821 |
ヌグリスンビラン州 | 1047 | 1493 | 4589 | 7485 | 11233 |
マラッカ州 | 264 | 310 | 385 | 949 | 3177 |
ジョホール州 | 756 | 879 | 1220 | 4577 | 17389 |
パハン州 | 375 | 392 | 398 | 1000 | 2682 |
クランタン州 | 161 | 179 | 332 | 597 | 3009 |
トレンガヌ州 | 116 | 180 | 236 | 300 | 1696 |
サラワク州 | 705 | 818 | 1062 | 1107 | 3711 |
サバ州 | 1616 | 13131 | 27383 | 36021 | 47473 |
ラブアン | 26 | 342 | 1291 | 1633 | 2033 |
合計 | 10852 | 28620 | 61118 | 104758 | 190822 |
出所: Kementerian Kesihatan Malaysia
表1にみられるように、9月の段階では連邦直轄地のクアラルンプールとスランゴール州という首都圏でコロナ患者が最も増えて、それにサバ州が続いた。大きな変化が起こったのは10月であり、サバ州のコロナ患者数が約8倍に増えている。スランゴール州が2倍弱、クアラルンプールが微増にとどまっているのに比べてサバ州の急増が目立っている。その後はサバ州では毎月1万人を超えて患者数が増えていったが、2021年1月にスランゴール州での患者数が急増するまでの3か月間は常に最大の患者数を記録していた。
サバ州の患者数急増の原因がサバ州選挙の選挙キャンペーンであることは明らかである。マレーシアでは2020年3月のコロナ第二波以降では、サバ州選挙の前に2回補選を実施した5。この2回の補選では選挙区が限定されて小規模であったことからコロナの感染拡大を引き起こさなかった。しかし、サバ州選挙は73議席を争ってサバ州全域で選挙活動が実施されたことで、コロナが蔓延する環境が整った。マレーシアの選挙では、選挙期間中の夕方から夜にかけて各選挙区で毎日のように「チェラマ」と呼ばれる数千人を集める大規模な選挙集会が実施される。この時のサバ州選挙では従来ほどの大規模なチェラマは実施されなかったものの、与野党双方が政党幹部の出席する集会を実施し、候補者個人が開催する集会や戸別訪問での訴えかけも普段とほとんど変わらなかった。集会が実施された時には、対人間の非常に密着した距離で蒸し暑いテントの中に集まった参加者たちのマスク着用が常に徹底されていたわけでもなかった6。さらに、選挙応援のために政党の職員やボランティアが州をまたいで往来したために、コロナが全国に蔓延することになった。9月末以降の全国でのコロナ患者数急増を受けて、ムヒディン首相はサバ州選挙がコロナ第三波を引き起こしたことを認めている7。
選挙管理委員会委員のゾイ・ランダワは、サバ州選挙以前の2回の補選と比べて選挙に大きなコストがかかったことを指摘する8。投票日に限ってみても、コロナ感染拡大を防ぐために、従来よりも投票所を増やし、様々な器具を整えたりする必要がある。そのうえ最もコストがかかったものは、投票に関わる職員のトレーニングの実施であって資金と人材の双方で選挙管理委員会にとって大きな負担となった。このマレーシアの経験からわかるように、新興国でコロナの感染が終息しないなかで選挙を実施する場合にはそのやり方だけでなく、巨額となったコストをどのように負担するのかも問題になるだろう。
9月のサバ州選挙によってコロナ第三波が発生して患者数が急増するなかで、政局も風雲急を告げていた。9月23日にはアンワルが記者会見を開いて政権発足に十分な数の連邦下院議員の支持を得たと発表した。過半数を超える議員数を確保した主張するアンワルは国王と面会した。本来ならば9月22日に面会をするはずだったが、国王が入院したために面会は10月13日に実施された。この時の面会内容については明らかになっておらず、アンワル支持議員のリストも公表されなかった。
アンワルの動きに対して、ムヒディン首相も新たな政治的動きをみせる。10月23日に国王と面会し、コロナの感染拡大抑止を理由として、内閣として憲法に規定された非常事態宣言を発令するように要請したのである。国王による非常事態宣言の発令は議会の停止や選挙の延期を通じて首相に権限を集中させる効果がある。コロナ対策として首相のリーダーシップの下で迅速な対応が可能となることが表向きの理由だが、実際は野党の封じ込めを意図していたともみられている。この時の国王は各州スルタンが参加する統治者会議の結論として非常事態宣言の発令を拒否したものの、コロナの感染拡大に対するムヒディン政権の取り組みへの支持を表明し、与野党双方の議員に対して、コロナ対策をスムーズに行うために11月から始まる連邦下院で政府が提出する2021年度予算成立に協力すること、政界工作を控えるように注文をつけた。従来のマレーシア政治において、国王が儀礼的な行為から外れて政治的決定を行う場面は少なかった。しかし、与野党の勢力が伯仲し、コロナの感染拡大が続くなかで、内閣から要請された非常事態宣言の発令を拒否し、政府予算案への支持を公式に表明したことは、国王の政治的影響力が従来以上に高まっていることを示す出来事だった。
国王から2021年度予算案の支持を得たものの、ムヒディン政権は困難に直面する。アンワルの指導のもとで野党が予算案を材料として倒閣の動きにでたためである。予算案を人質に倒閣を目指した野党だったが、12月15日の第三読会で予算案は賛成111票、反対108票の3票差で辛うじて連邦下院を通過した9。予算規模は3225億4000万リンギット(約780億ドル)であり、コロナ対策のためにマレーシア史上最大規模の予算に膨らんだ。野党側にとっては、コロナ対策という名目で作成され、国王から公に支持を要請されているなかで最初から不利な戦いであったことは否めない。また、この予算案の審議過程ではアンワルが政界工作に明け暮れてコロナ対策への障害となっているとのネット上の意見も複数表明されていた。筆者が観察しているネット上の複数のニュースサイトやそのコメント欄、SNSから伝わってくる限りでは、コロナの発生から1年が経過した現在、一般のネットユーザーの間では一般大衆の生活や仕事の安定を顧みずに政治エリートが権力闘争を続けることに対する怒りがみられる一方で、政治参加に悲観的であり、ネガティブな意見を表明する者も増えたように思える。
しかし、2021年度予算が連邦下院を通過した後も政治エリートの間での対立は一向に止まなかった。翌2021年1月にUMNOが独自に調査した結果、下院選挙区ごとに置かれているUMNOの191の地域支部のうち、143の地域支部がPPBMとの協力を拒否すると答えており、野党の攻勢をしのいだはずの与党内で亀裂は一層明らかになりつつあった10。こうしたなかで、ムヒディン首相は国王と面会して10月に続いて再度の非常事態宣言の発令を要請した。この2度目の試みで国王は内閣の要請を受け入れて、2021年1月11日から8月1日までの期間で非常事態宣言を発令した。非常事態宣言の発令については、1月に首都圏でコロナ患者が激増したことが表向きの理由としてあるものの、野党議員や国内のニュースメディアの一部からは非常事態宣言による議会の停止や選挙の延期を通じたヒディン首相の延命策であるとの指摘も少なくない。
これまでみてきたようにマレーシアでは2020年2月に政変が起こってムヒディン政権が成立した。ムヒディン政権下では与野党の勢力が伯仲し、与党内部でも構成政党のUMNOとPPBMが潜在的な対立を抱えていたために、政権は常に不安定であった。この政治状況を生み出したのはコロナではなく、2018年のPHによる史上初の政権交代の前後から続いてきた民主化過程の一環として生じたものである。
しかし、安定性を欠くムヒディン政権が2020年を通じて危機を経験しながら現在も継続しているのは、コロナの影響が大きいとみられる。2020年5月の連邦下院でのマハティールが主導したムヒディン首相の不信任決議案が不発に終わり、アンワルが主導した2021年度予算案を人質にとった政権打倒の試みが失敗した直接的な原因はコロナであった。いわばコロナが政局を動かす要因となり始めた。その一方で、政局の動きがコロナの感染拡大をもたらす逆ベクトルの動きも発生している。それは2020年9月のサバ州選挙である。2020年にそれぞれ独自に展開し始めた「政治」と「コロナ」の動向が、現在ではお互いに絡み合ってマレーシアの今後の進路を決定づけるようになっている。
2020年を通してマレーシアの政治変動を主導したのは政治エリートだった。一般大衆は、コロナの感染拡大が続きMCOで社会的・政治的活動を大きく制限されるなかで、政府からの指示を受け入れて自身や家族を守ることに注力せざるを得なかった。そこで、多くのマレーシア人はムヒディン政権の進めるコロナ対策を支持し、それがムヒディン首相への高い支持率にもつながっていた。しかし、コロナによる耐乏生活が1年を経過した現在、ムヒディン政権や政府に対する一般大衆からの不満や批判も高まりつつある。
そのなかには、マレー語のフレーズの「二つの階級の間」(Antara Dua Darjat)11を用いた批判がある。これは一般人と政府高官との間でコロナ感染防止のために適用される基準が異なるダブルスタンダードの状況を表したものである。政府は一般人にはMCOの下で集会や移動の厳しい規制を適用するものの、政府高官に対しては甘い規制が適用され違反行為も見逃されているのではないかとの不信感が一般市民の間に広がってきたのである。2021年1月の非常事態宣言発令によって国民は議会や選挙という公式の場面を通じて意見を表出する機会が大きく制限されるなかでマレーシアの政治とコロナの動向が今後どのようになっていくのかは引き続き注視していく必要がある。
1 Merkeka Center 2019 (April 26). National Voter Sentiments: Excerpt of Principal Indicators. https://merdeka.org/v2/download/news-release-26-april-2019-getting-into-one-year-after-ge14-pms-approval-rating-at-46-government-at-39/ 2021年2月5日確認。
2 2020年5月18日に開催された連邦下院では与党側は全222議席のうち、過半数を1議席だけ超える113議席を確保した。