マーシャル諸島で今年行われた国勢調査の速報値は、驚くべきものだった。同国の人口が、予想されていた緩やかな増加ではなく、26%も減少していることが分かったのだ。
2011年の国勢調査で、マーシャル諸島の人口は、5万3,158人だった。2021年の速報値では、これが3万9,262人に減少している。
国勢調査を担当した経済政策・計画・統計局(EPPSO)のフレデリック・デブルム局長は、「大きな要因のひとつは移住率です」と語る。
マーシャル諸島の人々は、米国との自由連合盟約(Compact of Free Association)により、米国へのビザなし渡航が可能である。
今回の国勢調査では、10年前の調査で予想されていたような、離島の居住者減少だけでなく、マジュロとイバイの人口も大幅に減少しており、第二次世界大戦の直後から70年近く続いてきた人口増加から、劇的な逆転現象が起きている。
2011年の国勢調査では、人が居住する24の環礁・島のうち18で人口が減少し、マジュロやイバイといった都市部および4つの離島のみで人口が増加していた。しかし、今回の国勢調査では、すべての島や環礁で人口が減少していることが分かった。
デブルム局長によれば、国勢調査の集計担当者は、すべての離島で調査を完了しており、マジュロとイバイでも、ほとんどの世帯の調査を終えたという。
現在EPPSOのスタッフは、8月から10月の調査初期段階でカバーできなかった世帯の集計を完成させるため、フォローアップを行っている。局長は、残っている世帯数が少ないため、速報値から「大幅な変更はないだろう」としており、まだ調査が終わっていない世帯を加えれば、人口は「4万か4万1,000程度にはなるかもしれない」と補足した。
国勢調査データの分析作業は、太平洋共同体事務局(SPC)の協力を得ながら進行中であり、2022年前半には完了する予定だという。
最も減少率が大きかったのはラエ環礁で、2011年には348人だった人口が、現在は55人と84%下がった。マジュロでは、2011年に2万7,797人だった人口が、今回の速報値では2万483人にまで減少している。
第二次大戦後、米国がマーシャル諸島の統治を開始して以来、実施されたすべての国勢調査において、人口は増加していた。1920年代、1930年代は、約1万人で推移していた。
1958年に行われた米国による初の国勢調査では、1万3,928人のマーシャル人が居住していた。数値は1967年に1万8,925人、1973年には2万4,135人にまで増加した。1980年の国勢調査では3万873人となり、1988年の国勢調査では、4万3,380人と飛躍的に増加した。
当時、マーシャル諸島の居住者が2020年代には8万人から9万人になることが予測され、政府は年間4%の出生率に歯止めをかけるため、家族計画に対する大規模な取り組みを推進した。
その後も人口は増え続け、1999年の国勢調査では5万840人に達した。しかし、2011年の国勢調査では、国外移住者の増加が顕著となる。12年間でわずか2,000人強の増加にとどまったマーシャル諸島の人口は5万3,158人となり、1958年の国勢調査開始以来、最低の増加率となった。
今回の国勢調査では、2011年から2021年までの10年間で、マーシャル諸島が人口の2万5,000人を移民によって「失った」ことが明らかになり、国外移住率は1999年から2011年までの2倍以上となった。
国外移住者「2万5,000人」という数値は、2011年の人口5万3,158人と、2021年の国勢調査速報値39,000人の差と、2011年から2020年までの平均年間出生数1,142人を踏まえ、大まかに計算している。
学校の入学者数と出生数のデータも、この10年間で同様の落ち込みを見せている。
出生数は、2000年代半ばのピーク時は年間1,500人を超えていたものの、2010年には既に減少傾向となり、国の記録によれば、マジュロ、イバイ、離島における出生数は1,406人だった。その後も変わらず減少し、2019年の出生数は980人と、過去20年で最低水準となった。保健福祉省が2020年に記録した出生数1,002人は、2010年の1,406人から30%の低下となっている。
他方、学校の入学者数も2010年以前に比べて大幅に減少している。教育省がまとめた就学データによると、2010年にマーシャル諸島の学校に在籍していた生徒数は約1万5,000人で、2015年の1万5,942人までは微増が続いていた。しかし2015年以降は、生徒数が17%減少し、2021年は1万3,274人だった。
2021年後半に実施の国勢調査という点でカギになるのは、マーシャル諸島の国境が18か月間閉鎖されていることだ。2020年10月以降、2021年8月下旬の国勢調査開始までに戻ってきた政府支援の帰国者グループは10組のみで、計600人程度。この間、3,000人以上のマーシャル人が米国への定期便で出国したとみられ、結果的に大規模な人口の純流出につながった。
2011年以来、10年ぶりの国勢調査がマーシャル諸島で実施され、速報値では大幅な人口減少という驚きの結果が示されました。これに関し、現地における経験に基づく主観的見解となりますが、筆者としては家計経済と内政が背景にあると考えています。
筆者は2003年から2009年の6年間マーシャル諸島の首都マジュロに居住していました。前半3年間はJICAボランティアや現地政府の直接雇用によるマーシャル諸島高校の理数科教師、後半は日本大使館で政務・経済・経済協力・広報を担当する専門調査員を務めていました。教員時代には各生徒の家庭訪問を行ったり、生徒や保護者とのコミュニケーションを重視し、彼らの生活の実情を学び、専門調査員時代にはさらに国の政策レベルの視点も得ました。
マーシャル諸島には他の多くの太平洋島嶼国と同様に、現代社会と伝統社会が併存しています。マーシャル諸島の伝統社会の場合には、島や島内の地域ごとに酋長(イロージ、レロージ)、土地管理人(アラップ)、平民(リジェレバル=労働者)の階級がありますが、いくつかの酋長家系を除けば、教員時代の生徒の多く(感覚的には7割以上)が、実の親に育てられていない実態がありました。10代で子供を産むことも多く、生まれた子供は、養う余裕のある親や親類に預けたり、養子に出されることが珍しくありませんでした。パラオなど他の島嶼国に比べれば、「家族の絆」が希薄と言えるかもしれません。
マーシャル諸島における雇用機会というのは、政府系が多く、他には限られた民間部門、教員、クワジェリン基地などであり、離島では沿岸漁業やコプラ生産が現金収入源となっています。他に権利者には、米国からの核実験に関わる補償、クワジェリン基地借地料などもあります。しかし、増え続ける青少年に対し、雇用機会が少ないことが長年にわたる社会課題であり、限られた世帯収入(世帯は親類も含む場合も多い)で養えなくなると、米国の親類に送られることが少なくありません。
例えば、筆者が2003年9月に初めて担当した4クラスの生徒110人について、2019年に動向を探ったところ、実に7割以上が米国に移住していました。また、同年マジュロ環礁の村落部にあたるローラ地区を訪問した際には、多くの住民が米国に移住し住人のいない家屋が目立ち、ライロックから東の人口の多い地区でも、放棄された建物が目に付き、人が減少している印象を受けました。聞き込みをすると、高度医療が必要な病気の治療のためという場合もありましたが、多くは生活のため、食べていくために米国に移住したということでした。米国に雇用機会を求めたり、親類の下で食べていくということでした。
もともと米国との自由連合盟約(コンパクト)では、マーシャル人には米国準市民の権利が付与されており、マーシャル諸島で短大まで修めた後、米国で更なる教育機会や就業機会を得るというのが、一つの考え方でした。いずれにせよ、ビザ免除規定があることから、マーシャル諸島の人々は(他の米国自由連合国であるパラオとミクロネシア連邦も同様)、米国本土やハワイ、グアムなどに移住するのは珍しいことではなく、2003年~2009年頃にも毎年1000人程度が米国に移住していました。今回の記事では、2011年から2021年にかけて年平均2500人に増加していたことになります。
これに関し、2つの可能性が考えられます。1つはマクロ経済の変化。2010年代のマーシャル諸島のマクロ経済は実質GDPではほぼ横ばいで安定していますが、国の歳入区分が変化しています。例えば、入漁料収入が2009年までは4百万米ドル程度だったものが、ナウル協定締約国グループの取り組みにより年20百万米ドルから40百万米ドルに増大しました。しかし、入漁料収入は税収とは扱いが異なり、その使途については担当部局が強い影響力を有しています。マクロ経済上は安定していますが、実際のお金の流れには変化があり、一般の家庭に流れるお金に変化があった可能性があります。
もう1つは内政の影響です。マーシャル諸島が1986年に独立した後、1999年までは大酋長が大統領の職にありましたが、2000年1月から2008年1月までは平民中心の政権となりました。2007年の選挙の際、筆者は一部現地家系に密着し選挙過程を調査しましたが、当時の平民側の話題は、平民政権になるのか大酋長が権力を持つのかという点にありました。平民側には、大酋長側の政権になることを恐れ、大酋長側の政権(特に故イマタ・カブア元大統領の影響が強い政権)になればマーシャルを離れるという声もありました。2008年からは内政が不安定化し、数度にわたり平民と大酋長が混在する政権が作られましたが、一方で大酋長が影響を持つ政権が続きました(マジュロを含むラタック側とクワジェリンを含むラリック側の違いなども影響していますが、本稿では省略します)。なお、ラリック側の大酋長であったイマタ・カブア元大統領は2019年9月に逝去されたため、現在の政権では同元大統領の影響は消えています。
長くなりましたが、筆者としては、マクロ経済の観点でお金の流れが変わったこと、そしてラリック系大酋長の影響下にある政権が続いたことで、一般的な平民の家計経済が悪化し、生活していくために米国の親類の下に移住した人々が多いのではないかと考えています。
2003年以降の政治・経済資料を見直すことで、今回のコメントの正誤を含め、より正確な分析が可能となるでしょう。