Ocean Newsletter

オーシャンニュースレター

第492号(2021.02.05発行)

明治日本の海港検疫〜水際作戦の歴史〜

[KEYWORDS]感染症対策/海港検疫/コレラ
沖縄国際大学総合文化学部准教授◆市川智生

わが国では江戸末期以降、海外諸国との通商を背景として、コレラがたびたび大流行していた。
1877(明治10)年秋、西南戦争の帰還兵がもちかえったコレラを水際でくい止められずに、全国的流行へと発展していった事態を受けて、明治政府は検疫法令の作成に着手することになった。
水際における検疫にもさまざまな試行錯誤の歴史があったことを紹介したい。

西南戦争コレラ事件

日本における検疫の歴史は、明治の初めにまでさかのぼる。その背景には、江戸時代末期に始まった海外諸国との通商、特に東アジアおよび東南アジア諸地域との往来がある。1877年以後、90年代にいたるまで、国内ではコレラがたびたび大流行を起こすようになった。
コレラという病気は、原因となる細菌が飲料水や食品とともに経口でヒトに侵入・感染する細菌性の感染症である。長崎、横浜、函館、神戸、新潟などの開港場を拠点に国際貿易が行われるようになった時期は、中東、ヨーロッパ、アフリカ、中国大陸などでコレラが猛威を振るう第四次世界大流行(パンデミック)のさなかにあった。
日本が最初に経験した本格的なコレラの流行は1877(明治10)年秋、長崎を起点とするものだった。この年の西南戦争では、明治政府が全国から召集した兵士は大阪へ集められ、そこから輸送船で長崎へと送られ、熊本や鹿児島など九州南部の戦場へ向かった。そして終戦を迎えた1877年9月、今度は派兵のルートをさかのぼる形で、長崎から海路で神戸、大阪へと将兵の引き揚げが行われた。これから戦場へ向かう兵士たちと、戦闘で傷つき引き上げる兵士たちが直面したのは、中国南岸のアモイから長崎へと伝播しつつあったコレラの流行だった。多くの兵士が行き交う長崎で、政府軍将兵たちはつぎつぎとコレラに斃(たお)れていったのである。
そして、長崎から輸送船で大阪へと引き揚げる将兵の間からもコレラ感染者は続出した。その通報に接した大阪の陸軍事務所では、神戸港沖での停船措置を命じ、帰還兵の上陸を禁止した。九州の戦場から神戸・大阪へと続々と到着する感染者を前にしての、まさに水際作戦の試みであった。上陸を禁止し、病気を避ける方法を講じようとしたが、戦争に勝利した官軍の将兵のなかに、医務官のいうことを聞いて衛生の方法を守る者は少なかった。逆に、医務官を馬鹿にして、喧嘩をしたうえで上陸したとの記録がある。
反乱軍の鎮圧に成功した政府軍将兵は、神戸港で上陸禁止命令を伝えた医務官の説得に応ずることなく、神戸から大阪への行軍を強行したのだった。神戸と大阪では多くの帰還兵がコレラを発症し、1,000名以上の将兵が大阪に開設されていた陸軍臨時病院へと収容された。それだけではなく、京阪神地方の市街地に宿泊する将兵から市民へとコレラが感染し、全国的流行へと発展していったのである。

「罹虎列刺(コレラ)病死」とある真田山旧陸軍墓地の墓標

検疫と国際関係

1877年の検疫の失敗とコレラの蔓延という事態を受けて、明治政府では検疫法令の本格的な作成に着手することになった。ただし、想定されていたのは日本国内の港湾を移動する船舶ではなく、海外から日本の開港場へと入港する船舶への検疫だった。
当時、ヨーロッパ諸国の間で数年ごとに開催される国際衛生会議で争点となっていたのは、船舶を一定期間停留させることで感染の伝播を防ぐ「停船法」と、特定の症状をみせる船員・船客がいるかどうかを医師が検診し停留は最小限にとどめる「医師検査法」をめぐってのものであった。この二つの異なる基準には、厳格な防疫を求めるのか、経済流通を優先するのかという、現代にも通底する問題が背景にあった。外務省での会議は、欧米系医師の主張に押し切られる形で、1878(明治11)年8月末、「医師検査法」に基づく検疫法令を採用することで幕を閉じた。ところが、翌年春にはじまるコレラの流行を受け、同年7月に明治政府が発令した「海港虎列刺病予防規則」は、流行地から日本の開港場に入港する船舶に対して、沖合で7日間の停船を規定する内容となっていた。
事実、「海港虎列刺病予防規則」をつきつけられた欧米諸国は、それまでは外務省の検疫会議に自国の医師を派遣するなど協力姿勢を示していたが、一転して懐疑的な態度をとるようになった。1879(明治12)年7月、香港を出港し神戸経由で横浜へ向かっていたドイツ船ヘスペリア号が、日本の検疫官の制止を振り切って、停泊期間中に横浜へ入港する事件が発生した。
ヘスペリア号が日本の停船要請に従わなかった理由は、ドイツの外交記録から判明する。横浜のドイツ総領事ザッペおよび医務官グッチョーは、船内にコレラ患者がいない限り、航行が許可されると考えていたようである。そして、臨検のために乗船した日本の警官が、コレラの蔓延地域と多くの停船中の船舶とを繰り返し往来していることから、自船内にコレラが伝播することを危惧していた。日本がコレラを輸入感染症と考え、船舶の上陸を阻止しようとしたのに対して、ドイツは、日本の警官(検疫官)がコレラを船内に持ち込むと恐れているのは極めて対照的で興味深い。
感染症の来源がどこにあるのかという点に注目する時、コレラは海外から輸入されるものだという島嶼国日本の発想は、欧米諸国にとっては全く受け入れられないものだったことを、この事件は示している。事実、記録的大流行となった1879年および1886年のコレラは両方とも輸入感染例ではなく国内で発生・拡大したものだった。

検疫をめぐる方針転換

ヘスペリア号事件を経験した日本は、島嶼国としての発想に基づく古典的な検疫が不可能であることを悟り、制度を一新した。1882(明治15)年6月、新たにコレラの流行が警戒されるなかで発令された「虎列刺病流行地方ヨリ来ル船舶検査規則」は、わずか五カ条からなるものだった。停船時間を48時間以内とし、コレラ感染者および疑似症患者がいなければ直ちに入港をさせる旨を明記している点から、医師検査法への転換は明らかであった。
この規則の実施にあたっては、外務省は「最も簡便な手段を実施することで、公衆の健康および生命をできるだけ確実に保護することを目的とする」と説明している。つまり、検疫に際しての停船措置を最小限に抑えることを条件に、諸外国の外交官に協力を求めることにしたのである。これは、海港検疫の方法論という点からすれば、一律に長時間の停泊を定める古典的なあり方から、国際衛生会議の議論に沿った国際基準への転換を意味した。また実際の運用面においても、簡略化された検疫法令を用いることによって、日本の行政規則を諸外国の船舶に遵守させることが期待されたのである。実際にこの時期の検疫に関する記録には、コレラ感染者が乗船する船舶に対して、検疫港での検査ののち、隔離と消毒を実施し、結果的にそれがコレラの感染を防いだとするものが散見される。
初期の検疫のあり方からは、コレラという感染症は海外から日本へ輸入されるものだという前提に立っていたことが見てとれる。現在、日本最初の検疫法令である「海港虎列刺病予防規則」が施行された7月14日は、「検疫記念日」に設定されている。この日は、検疫という水際作戦による本格的な感染症対策のはじまりであることは間違いないが、同時に検疫制度をめぐる試行錯誤を通して、日本の保健医療のあり方が海外諸国からどのように見られているのかを学習した痕跡であるともいえるだろう。(了)

第492号(2021.02.05発行)のその他の記事

ページトップ