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オーシャンニューズレター

第155号(2007.01.20発行)

第155号(2007.1.20 発行)

日本最大の無人島「渡島大島」におけるオオミズナギドリの受難史

北海道大学名誉教授、山階鳥類研究所客員研究員◆小城春雄

北海道松前沖約50km沖合に位置する渡島大島は、
日本最大の無人島であるが、その存在はほとんど知られていない。
この島はわが国最北端のオオミズナギドリ繁殖地である。
江戸時代から現在までオオミズナギドリは、火山噴火、人間による捕獲、ドブネズミによる直接的な捕食、
そしてアナウサギによる間接的な営巣環境の破壊等の試練を受けてきた。
現在では絶滅危機状態にある。


渡島大島(おしまおおしま)は、津軽海峡に面した日本海に位置し、北海道松前より約50km沖合にある無人島である。島の周囲は16km、標高は江良岳が737m、清部岳が722m、そして寛保岳が648mもある。山頂付近には、三層の外輪山により構成された素晴らしい景観が見られ、一度登山するとその感動は生涯忘れられない記憶として残る。恐らく2~3万年前に海底火山が溶岩を噴出しはじめ、やがて海上に姿を現し、成層火山として現在の形になったのであろう。

渡島大島のオオミズナギドリは、日本海に対馬暖流が流れはじめた9,000年ほど前にこの島を繁殖地として利用しはじめたらしい。その頃の渡島大島は、樹木に覆われた緑滴る豊かな自然に覆われていた。オオミズナギドリにとっては楽園であったに違いない。

このオオミズナギドリ(Calonectris leucomelas)は、雌雄同型、体重550~650グラムで、極東アジア特産のミズナギドリ科海鳥である。現在では日本、韓国、ロシアの離島だけで繁殖している。わが国では伊豆諸島の御蔵島が最大の繁殖地である。台湾や中国の繁殖地は消滅したようである。毎年3~4月に繁殖地に戻り、つがい形成、巣穴掘り、6月に1個の卵を産む、8月に孵化、11月に雛は巣立ち、すべての個体は東南アジアからオーストラリア北部海域へと渡り越冬する。

オオミズナギドリを襲った噴火、ドブネズミ

渡島大島が歴史上に登場したのは今から265年前であった。寛保元年(1741年)7月13日頃から噴火を開始し、その最中の17日未明に大津波が起き大災害となった。その被害は、松前から江良、江差、熊石を経て瀬棚まで及び、合計2,500~3,000もの人が犠牲となった。この大津波の原因は、渡島大島の北斜面の大崩落である。この海底地すべり体積は約2.5km3で、速度は毎秒約70m、山頂より約16kmも沖合の水深2,000mの深海にまで及んだ。この噴火活動はその後50年続き、現在の中央火口丘である寛保岳が形成された。その後の噴火はないが、火山防災の面からは現在でも要注意の火山島である。樹木はすべて焼かれ植生の破壊が顕著であったが、オオミズナギドリは何とか生き延び、やがて繁殖地は賑わうようになった。

江戸時代後期となると、北海道の開拓が進み、人や物の流れが活発となり、北前船(きたまえせん)が往来した。その頃外国船よりドブネズミが外来生物として日本に移り住み分布を拡大した。渡島大島へのドブネズミの侵入は、難破した船から逃れたドブネズミが生き延びて現在に至ったと思われる。ドブネズミは、オオミズナギドリの親、雛、卵まで捕食する。それでもオオミズナギドリは増加し、20万羽以上にまで回復した。

1868年明治維新となり開国した日本は、外貨を獲得し資本の蓄積が急務となった。明治42年10月5日の函館新聞に、函館の毛皮業者が渡島大島で明治38年より42年までの毎夏に、防寒服や布団の詰め物として羽毛採取のために総計22万羽以上のオオミズナギドリを捕獲し、横浜の毛皮業者に販売したことが記されている。江良の古老の話では、「夕刻巣に帰るオオミズナギドリの島の上空の乱舞は、あたかも空が真っ黒になるほどであったが、大量捕獲後は鳥影がまったく見られなくなった」と話してくれた。オオミズナギドリはこの大量捕獲にも耐えて、その後何とか繁殖数を増加させていった。

絶滅危機状態にある渡島大島のオオミズナギドリ

渡島大島のオオミズナギドリは絶滅危機状態にある。

北海道の日本海側沿岸域では、ニシンが毎年春に産卵のために大量に押寄せることで沿岸漁民が潤い、本州の水田に施肥するべくニシン粕が重要な産業となっていた。大正時代初期にニシンの来遊が途絶え、沿岸漁村は一気に寒村化した。渡島大島周辺海域に漁業権を持つ江良町村でも事態は同じであった。江良町村は生活資金を得るために換金漁獲物が求められた。渡島大島は対馬暖流の真っ只中に位置しているため、春の到来が北海道本土より約一カ月早い。そのためワカメの生育期が3~5月になる。これに注目した江良町村の漁民は渡島大島でワカメの採集を大正10年(1921年)に開始した。鳴門若芽の代替品として良く売れた。戦争のため一時中断したが、戦後は食糧難のためワカメは高値で取引された。ところが1960年頃からワカメの人工養殖技術が開発され全国的に普及するにつれて、渡島大島のワカメの値段が下降した。1967年(昭和42年)を最後に渡島大島でのワカメ採集は採算割れのために終焉した。

ワカメの採集は磯船に乗り深場の若芽を採集する作業で、まさに重労働である。ちょうどワカメ採集を行う3~5月には南半球での越冬を終えたオオミズナギドリが繁殖のために渡島大島に回帰し、積極的に巣穴を掘り産卵準備する時期である。このオオミズナギドリが食糧として大量に食されたのだ。ところが渡島大島は、「オオミズナギドリのわが国最北端の繁殖地」として1928年(昭和3年)天然記念物として指定された。オオミズナギドリを食べることは大変な犯罪行為となった。そのため、ワカメ採集期間にオオミズナギドリを食べることは、決して外部に漏らしてはならない村内のタブーとして守られた。このワカメ採集が行われた46年間に、ワカメ採集漁民により食されたオオミズナギドリは総計30~41万羽に達した。このことにより渡島大島のオオミズナギドリは繁殖地が縮小し、壊滅的な数にまで生息数が減少した。また昭和13年(1938年)には毛皮採集の目的でアナウサギが放獣され、島の緑が食いあらされ、営巣地が荒らされた。

以後渡島大島のオオミズナギドリは、現在に至るまで繁殖個体数の増加の傾向は見て取れない。現在では60~100つがい(総数120~200羽)位が繁殖しているにすぎない。

その原因は、第一に、ドブネズミによるオオミズナギドリの親、雛、卵の捕食。第二に、アナウサギの環食(樹木の表皮をぐるりと食べてしまうこと)により木本性植物の生育を不可能にしていることと草本性植物の採食等による植生破壊に起因する、オオミズナギドリ営巣地の裸地化である。とくにアナウサギによる森林発達の阻害は、火山島である渡島大島の脆弱な生態系では顕著である。

渡島大島のオオミズナギドリの繁殖個体群は、火山噴火、人間による捕獲、ドブネズミによる直接的な捕食、そしてアナウサギによる間接的な営巣環境の破壊等の試練をこれまでに受けてきた。現在の渡島大島でのオオミズナギドリは、絶滅危機状態である。早急にドブネズミとアナウサギの駆除が望まれる。(了)

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