Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第506号(2021.09.05発行)

深海生態系はどこまでわかっているのか?〜ヨコヅナイワシの発見が物語るもの〜

[KEYWORDS]トップ・プレデター/トップ・ダウン・コントロール/地球環境変動
(国研)海洋研究開発機構地球環境部門海洋生物環境影響研究センター上席研究員◆藤原義弘

2016年2月、神奈川県立海洋科学高等学校と共同で実施した底延縄調査において、駿河湾の水深2,000メートルを超える深海底から、誰も見たことのない巨大な深海魚を釣り上げた。
後にセキトリイワシ科の新種「ヨコヅナイワシ」として報告したこの深海魚は、単なる新種の発見に留まらず、深海生態系を考える上で根本的に欠けているものがあることを教えてくれた。

海洋の生態ピラミッド

生態系はよく「ピラミッド」で表されます。この生態ピラミッドには、個体数を基にしたものや生物量を積み重ねたもの、あるいは生産速度で表したものなどがあり、栄養段階の低いものから順に積まれます。例外もありますが、概して述べれば一次生産者がピラミッドの底辺を形成し、ステップ毎に段が小さくなり、頂上には地域の生態系の頂点に君臨する捕食性の動物、すなわちトップ・プレデターが位置します。海洋の生態系を生態ピラミッドで表すと、一番下に植物プランクトン、次に動物プランクトン、そして一番上にはシャチなどのトップ・プレデターが描かれます(図1)。
トップ・プレデターは、生態系の構造や機能に大きな影響を与え、この効果はトップ・ダウン・コントロールと呼ばれます。また地球環境変動や人間活動の影響を最も強く受けるのはトップ・プレデターであると言われています。
ここで深海に目を向けてみます。深海は地球上で最も広大な生命圏の一つであり、地球環境の恒常性に大きな役割を果たしていると考えられています。しかしながらその生態系の理解はいまだ不十分で、トップ・プレデターの役割はおろか、誰がトップ・プレデターであるのかさえわかっていないのが現状でした。そこでわれわれは駿河湾をターゲットとしてトップ・プレデターの研究に着手しました。

■図1 海洋の生態ピラミッドの一例

駿河湾深部からのトップ・プレデターの発見

駿河湾は日本で最も深い湾で最深部は2,500メートルに達します。また海底地形が複雑で深い谷や高まりがあり、海底には柔らかい底泥から大きな露頭まで様々な環境が存在します。大きな河川が流入し、栄養が豊富であることも知られています。海洋では水深や環境に応じて生物相が変化することが知られているため、総面積2,300平方キロメートルという比較的狭い範囲で多様なトップ・プレデターの研究を実施するのに好都合であると判断して、この湾を調査海域としました。トップ・プレデターの調査には最新の潜水調査船や無人探査機などが使えません。これらの調査機器は海中で大きな音を出し、煌々とライトを照らして進むため、体が大きく遊泳能力の高いトップ・プレデターに近づくことが困難です。そこで調査には主に底延縄とベイトカメラを用いました。底延縄とは釣りの一種で、餌を付けた数百本の釣り針を数キロメートルに及ぶ縄に取り付けて海底に降ろし、直接、深海のトップ・プレデターを採集する調査手法です。一方、ベイトカメラとは海底設置型の餌付きカメラで流向流速計を装備しており、これを用いてトップ・プレデターの多様性の把握や生息密度の推定を行うことができます。底延縄を実施するには船側にも専用の装備が必要ですので一般的な調査船を使用できず、底延縄漁船「長兼丸」と高校の実習船に協力いただき調査を実施しました。
2016年2月および11月に水深2,000メートルを超える駿河湾最深部周辺で底延縄調査を実施したところ、これまでに見たことのない巨大な深海魚を合計4個体採集しました(図2)。全長1.4メートル、体重25キログラムにも達するこの魚は、その後の研究によってセキトリイワシ科の新種であることがわかり、同科最大種であったため「ヨコヅナイワシ(Narcetesshonanmaruae)」と命名しました。学名の「shonanmaruae」は本種の採集に尽力いただいた神奈川県立海洋科学高等学校の「湘南丸」に献名したものです。一般的にセキトリイワシの仲間はクラゲなどの動物プランクトンを餌とするものが多いのですが、ヨコヅナイワシは釣り餌のサバで釣り上げられたことや口の大きさ、歯の形状などから他のセキトリイワシとは異なる食性と生態学的な役割を担っているのではないかと考え、栄養段階の推定を行いました。栄養段階とは簡単に言うと生態ピラミッドの下から数えて何番目に当たるのかということで、上位捕食者ほど栄養段階が上がります。タンパク質を構成する特定のアミノ酸の窒素安定同位体比を調べることで栄養段階を推定できる最新の技術を用いた結果、ヨコヅナイワシの栄養段階はおよそ5であることがわかりました。この値はこれまでに同様の手法で調べられた、あらゆる海洋生物の中で最も大きいもので、ヨコヅナイワシは駿河湾深部のトップ・プレデターであると結論しました。また胃内容物の環境DNA解析を実施したところ、中型の深海魚であるフクメンイタチウオの仲間を食べている可能性が高いこともわかりました。ヨコヅナイワシの生息環境を理解するため、水深2,572メートルにベイトカメラを設置したところ、海底設置から約3時間50分後にヨコヅナイワシが姿を現しました。同一地点に生息する魚類にはウナギ型をしたものやオタマジャクシ型をしたものが多いなか、大きな尾ビレで力強く泳ぐその姿から他種を捕食できる運動能力の高さを垣間見ることができました。

■図2 ヨコヅナイワシ。2016年2月4日、駿河湾、水深2,176メートルにて採集

ヨコヅナイワシの発見が物語るもの

この一連の研究からわかったのは、深海のトップ・プレデターに関する情報があまりに少ない、ということです。ヨコヅナイワシを発見したのは陸からわずか20キロメートル、水深も海の平均水深3,729メートルよりはるかに浅い2,500メートル前後でした。駿河湾はわが国でも最も深海研究が進んでいる湾の一つであったため、魚類の多様性に関しては十分な情報の蓄積があるものと考えていました。従って、これまで報告されている魚類の中から、誰がトップ・プレデターであるのかを明らかにすることを目指していましたが、実際にはパズルのピースすら揃っていなかったことになります。先に述べた通り、トップ・プレデターは生態系に欠かすことのできない存在であり、また環境変動の影響を受けやすい存在です。実際、海陸を問わず多くのトップ・プレデターが国際自然保護連合の絶滅危惧種レッドリストに掲載されています。一方、深海では「誰がトップ・プレデターなのか?」さえわかっておらず、またトップ・プレデターと推定される多くの動物は「データ不足」として脆弱性の評価すらなされていません。加えてヨコヅナイワシのようにその存在すら知られていないものが恐らく相当数存在します。一方で地球温暖化や酸性化、低酸素化の影響はすでに深海に及びつつありますし、漁業はどんどん大深度化しており、採鉱や油田・ガス田の開発、廃棄物の投棄など様々な人間活動の影響が深海に及びつつあります。海洋の9割以上の体積を占める深海でトップ・プレデターが大きく減少した場合、海洋環境にどのような影響が及ぶのかは計り知れません。そこでわれわれは、まだ見ぬ第2、第3のヨコヅナイワシが人知れず地球上から消えてしまう前に、深海生態系を正確に理解する必要があります。そのためには、これまでに実施されている調査方法に加え、迅速かつ簡便に海洋生態系の現状を把握することのできる新たな研究手法を開発し、地球環境変動が深海生態系に及ぼす影響を正確に評価することが急務です。(了)

  1. ヨコヅナイワシ採集に成功した調査航海などの様子 https://youtu.be/F0P78ETCL8w

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