Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第481号(2020.08.20発行)

フィジーのランビ島、「環境移転」の今

[KEYWORDS]バナバ人/環境移転/島嶼国
(公財)笹川平和財団海洋政策研究所主任研究員◆前川美湖

気候変動に伴う海面上昇によって海抜の低い沿岸国や島嶼国では、移住問題が大きな課題となっている。
こうした気候起因の「環境移転」を考えるうえで、戦時中、半強制的にフィジーのランビ島へと移住を余儀なくされた島民の話は示唆に富んでいる。「環境移転」後の生活再建には適切な支援や独自の言語・文化・風習などを維持できるような対応が必要であり、何世代にもおよぶ大事業になる。

ランビ島のバナバ人

タラタイさんを囲んで筆者(左から2番目)と海洋政策研究所吉岡渚研究員(右端)

気候変動問題への関心が世界的に高まる中、気候変動に伴う海面上昇によって海抜の低い沿岸国や島嶼国では、移住問題が大きな課題となっている。人々の移住の動機は複合的であるが、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が『海洋・雪氷圏特別報告書』(2019)で示すように将来的な世界規模での海面上昇、沿岸域での災害リスクが高まるという予測を受け、気候変動に伴う移民の発生に備えた対応が求められる。私は、約半世紀以上前のバナバ人の集団移住の経験について、島嶼国が直面する気候起因の「環境移転」の文脈の中で調べてみたいと考え、フィジーのランビ(Rabi)島を2018年10月に訪れた。ランビ島は、フィジー諸島共和国の第二の島であるバヌアレブ島のデボ港からさらに小型ボートで約30分の場所に位置し、農業や漁業を基盤とする美しいのどかな島である。
第二次世界大戦中、出身地のバナバ島(別名Ocean Island、現キリバス共和国)では、英国による燐鉱石採掘が行われ、島民の自給自足の生活様式は奪われていった。さらに、日本軍の占領を受けたバナバ島では、食糧確保が困難になったことから、全住民が日本軍により強制疎開させられた。彼らはナウル、コスラエ、タラワの三島に分散移住させられた。戦後、連合軍は全員をキリバスのタラワ島に集め、バナバ島は戦禍により居住ができないとして、移住地として購入していたフィジーのランビ島にそのまま半強制移住させた※1。1945年12月15日、4歳の時に家族とともに、フィジーのランビ島に連れてこられたバナバ島出身のトンガナリキ・タラタイ(Tongannariki Tratai)さんに話を聞くことができた。幼い女の子としてランビの地を踏み、現在は79歳、息子さんご夫婦とお孫さんたちと、元気に島で暮らしている。
タラタイさんへのインタビューによると、両親らとコスラエ島を経てランビ島にやってきた。「島に到着したのは、ちょうどサイクロンの時期で船が安全に航海できるか皆がとても不安だった」、「移住する前にはランビ島で立派な住居が用意されていると写真まで見せられたが、実際にはそのような住居はなく、骨組みと屋根のみのテントしかなく皆が落胆した」と私たちに語ってくれた。「バナバ島では見たこともなかった牛が島を歩き回っており、とても怖かった」とも。

ランビ島でのインタビュー

バナバ島の方角に建つ石碑ゲストハウスのおかみさん(夕飯の準備)

ランビ島は、フィジー国内でランビ島政府による自治が認められており、独自の裁判所や警察機能も有している。1945年に上陸したヌク村の小湾の脇には、バナバ島の方向に石碑が立っており、島民がバナバ島から移住してきた自らのルーツについて強い思いを持っていることが分かる。よそ者が島に上陸する礼儀として、まずセブセブの儀式が行われ、私たちは正装である腰巻をつけ、島政府の副局長をはじめとした島のリーダーの方々への挨拶をし、カヴァ(伝統的飲料)の原料であるヤンゴーナ(コショウ科の木)を献上した。
ランビ島の人口は約9,000人で、島民のうち5,000人程度はフィジーの首都スバや第二の都市ナンディなどで出稼ぎ労働に従事しており、島に残っている島民の主たる生業はヤンゴーナ栽培である。インタビュー当時は、ヤンゴーナの価格が高いので助かっているとのことであった。島では、バナバ人が人口の95%を占め、キリバス語を母語にしている。サンゴ島のバナバ島で漁業を営んできたバナバ人は、火山島のランビ島では、大変な苦労をしてフィジー人から農業を学び、自給用のキャッサバやヤムイモ、換金作物のヤンゴーナを栽培するようになった。毎年、12月15日は島の上陸記念日であり、盛大な饗宴が催され、移住第一世代の高齢者には特別席が用意され、上陸当時の様子やランビ島民の歴史を表現する演劇やダンスが披露される。
島には小中学校までしかないため、高等教育を受けさらに就業機会を求めて多くの若者は島を出ていく。その出稼ぎ労働者らは、都市近郊に分散し、バナバ人連絡事務所、メソジストのランビ島コミュニティ教会およびバナバ人の経営する市場のカヴァ商店を接点とし、相互に情報を交換しつつ、都市マイノリティとして生活していることが風間らの研究※2によって明らかになっている。
私たちは、島政府所有のゲストハウスに滞在した。送電網のない島では、ジェネレータで夜の数時間だけ電気がついた。水は雨水タンクの水を煮沸して飲み、その日に獲れた新鮮な魚を頂いた。ゲストハウスのおかみさんからも移住当時の様子が聞けた。バナバ島では日本軍を狙って空爆があったが、自身の母親が勇敢にも空爆で落ちたヤシの実をひろって自分たち家族の食糧にしたことなどを話してくれた。
島民の方たちは、繰り返し「我々は、バナバ島から来たバナバ人なのだ」と述べていた。突然バナバ島での平穏な暮らしが奪われたその理不尽さには胸がつまるし、強制移住後の生活再建も極めて困難なものであったという。また今でも島のインフラ整備など、フィジー中央政府からの補助金に依存している面もある。

「環境移転」を考える

歴史的背景は異なるが、「環境移転」のケースを考える際にいくつかの示唆を記したい。まず、移住のプロセスとは一過性のものではなく何世代にもおよぶ大事業であること、いかなる局面においても移住民の意思が尊重されなければならないこと、生活再建には適切な支援が必要なことは言うまでもないが、移住民のそれまでの生業の方法やライフ・スキル、教育レベルを考慮しなければならないこと。また、個人や世帯ごとの移住と比べある程度まとまったコミュニティでの移住の場合、独自の言語・文化・風習などを維持しやすい面もある。ランビ島政府は一定の自治を認められると同時にフィジー議会にも議員を選出し、かつキリバス議会にも議席を有している。自身のアイデンティティと代表制が現代の政治システムの中で確保されていることは極めて重要である。また、タラタイさんの息子さんは、南太平洋大学で農業を専攻し、その後ランビ島に戻り島の農業の発展に大きく貢献した。移住政策は、第二~三世代の教育や雇用の課題にも配慮し、かつその活力や新天地で培われた能力を最大限に生かす視点も重要である。そして、日本人にとっては、このあまり馴染みのないランビ島の歴史を紐解くこと、太平洋の島々で日本が歴史上どのように関わってきたかについて真摯に学ぶことが大切だという思いを強くし、島を後にした。(了)

  1. ※1小川和美、「太平洋島嶼地域におけるリン鉱石採掘事業の歴史と現在」日本女子大学史学研究会『史艸』1998年11月、39号、pp.74-94
  2. ※2風間計博、強制移住後半世紀を経た民族集団の生活戦略に関する人類学的研究、科研2002-2004

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