Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第371号(2016.01.20発行)

ヴィルヤルマー・ステファンソンと北極圏

[KEYWORDS] 北極探検/環境/イヌイット
ガラス作家◆Kristin Newton

百年前、海は謎を秘め、広大で未踏の存在であり、南北両極地は探検家らが固い決意をもって挑戦する場であった。
ヴィルヤルマー・ステファンソンは、1906年から1918年の間に3度、アラスカおよびカナダ領北極圏を踏査し、数々の発見を行っている。彼自身、九死に一生を得た瞬間を幾度か経験し、極限の世界で生き抜くためには「健康と体力は望ましいことではあるが、第一に重要なのはものの考え方である」と述べている。

北極圏の探検

航空機時代到来以前、人は海というものに今よりはるかに近い関係をもって生きていた。日を越え、月を越え、ときには年を越えて人は海によって旅をしていた。何週間も、海のほかは目に入るものがない旅は、いかなる旅であっただろうか。ところが今、海を行き交う船舶からは、島なすゴミの塊が、およそ尽きることのない汚染の広がりが目撃されるという報告がもたらされ、また、流出油によって何年にも及ぶ海洋生物や沿岸域の破壊が起こっている。
わずか百年前、海は謎を秘め、広大で未踏の存在であり、南北両極地は探検家らが固い決意をもって挑戦する場であった。当時、北極はごくわずかの人を例外に、人を寄せ付けない無人の地で、多くの勇気ある探検家たちが何カ月も、時には何年にもわたって立ち往生を余儀なくされ、旅の中で非業の死を迎えた者もあった。旅は遅々として進まず、危険に満ちていた。イヌイットたちはそうした環境の中ですでに何千年もの間力強く生きていたが、白人たちにとってそこは異種の世界であった。
私の祖母(アイスランド人)の従兄弟にあたるヴィルヤルマー・ステファンソン(1879-1962)は、そうした初期の探検家のひとりだった。人類学者であり探検家であったステファンソンは、1906年から1918年の間に三度、アラスカおよびカナダ領北極圏を踏査した。踏査期間は16ヶ月から、長いもので5年間に及び、大陸棚の北限、カナダ領北極圏内の数々の無人島などの発見を行った。

ヴィルヤルマー・ステファンソンの生い立ち

■Vilhjalmur Stefansson(1879-1962)

ヴィルヤルマー・ステファンソンも私の祖母グズルンも、共に遠くアイスランドヴァイキングの血を引くが、ヴァイキングはもともと海に生き、世界を探検して回る民として、コロンブスより何百年もさかのぼる時代にすでにアメリカ大陸を発見していた。探検はヴァイキングのDNAの中に組み込まれているのである。
1877年、親族のうちの幾人かが、移民の波に乗ってカナダへ向けて出ていった。だが、七週間かけて行き着いた約束の地での暮らしは決してやさしいものではなく、最初の年には、移住者の多くが飢えに苦しんだ。そうした状況の中1879年、マニトバ州アーンズでヴィルヤルマー・ステファンソンは生まれた。兄弟のうち二人が過酷な環境の中で亡くなった後、一家はノースダコタの荒地に移って行った。ステファンソンは、後になって強靭さと、過酷な条件に打ち勝つ力を持つことができるようになったのは、子ども時代を厳しさの中で育ったおかげであると、感謝することばを述べている。

人類学者として

ステファンソンはやがて人類学を修め、イヌイットの言語を学んだ。多年にわたってイヌイットと共に暮らし、彼らの生き方を学んだ。イヌイットたちの中に家族として迎え入れられ、彼らの文化を幼児が学ぶごとくにして学んだ。これがステファンソンに利点をもたらし、きわめて多くの場面で助けとなった。
その頃、初めに交易の品を持った商人たちが、次に捕鯨船が、イヌイットたちのそれまで見たことのない品々を持ってやってきた。これらの品は彼らにとって初めのうちは贅沢品だったが、すぐに暮らしに欠かせない品となった。1889年から1906年の間にイヌイットの生活様式は、自立した自給自足の暮らしから、砂糖、小麦粉、缶詰食品など「文明的な品物」に操られる暮らしへとすっかり変わってしまった。
1908年の夏、氷の海を抜けて岸までやってきた捕鯨船は、わずか一隻だった。通常は海岸線に平行して流れる浮氷が、この年は風向きの変化によって海岸線を埋め尽くしてしまったのである。今や外来の贅沢品に慣れてしまったイヌイットたちは、祖先たちが何千年もの間トナカイを食べ、魚を食べて生きてきたことを忘れ、生きる術を断たれたと感じ、飢餓の淵に陥ってしまった。ステファンソンはイヌイットの食と健康の関係についても注目し、いくつか著作を残している。
このときの旅でステファンソンは外から食べ物を持ち込まず、現地で得られるものを食料として生活することを考えていたが、10年ほど前には無数にいたトナカイが極めてわずかな数になっていることがわかった。あたかもアメリカにおけるバッファローと同じように、掻き消されてしまっていたのである。アメリカではバッファローの生きる大地が農地となったことから起こった結果だったが、カナダやアラスカでは事情が違っていた。単に心ない娯楽としてトナカイが殺戮されていったのである。

北極探検

ステファンソンは、「冒険」とは難儀と困難を意味することだと言い、また、真にすぐれた探検は、後悔するより「安全な道」を選ぶ、面白みのないものである、と言っていた。極地では、たった一つの小さな誤算が死を意味することにもなり、ステファンソン自身、九死に一生を得た瞬間を幾度か経験し、そうした過酷な条件下で命を落とした者の数は少なくない。ステファンソンは自分の経験から、北極探検を行う者はイヌイットのやり方に従うことで、陸地でも、さらには浮氷の上でも生きていくことができるとの強い確信を持っていた。その実証のためにステファンソンは、二人の同行者を伴って、ボーフォート海からバンクス島まで流氷上800kmの距離を踏破した。1914年4月から15年6月までを浮氷の上で暮らし、「健康と体力は望ましいことではあるが、第一に重要なのはものの考え方である」と述べている。
1913年から1916年にかけてステファンソンはカナダ北極探検隊を編成して未発見の陸塊を探し、さらに大陸棚端特定をめざして氷床を通して音響測深を行うなどの調査を行ったが、まさに数多くの難儀と困難に満ちた、語るべきことの多い難業だった。最後には調査船一隻が氷に押しつぶされ、25名の乗員、調査隊員の内11名が死亡するという結果に至り、この悲惨な事故によって以後何年にもわたってステファンソンの評価に陰りが生じることとなった。1918年に重い病を患って以後、ステファンソンは北極に再びもどることがなかった。

探検後のステファンソン

北極を去った後、ステファンソンは豊かで満ち足りた人生を送ることになった。著名な探検家として講演・講義を行い、自叙伝を含めて24冊の著書を出し、さらに数々の遠征、観察に関して400件以上の記事・論文を発表し、ダートマス大学北極圏研究講座の長を務めた。ステファンソン自筆の文書類、北極圏に係る文物のコレクションは同大学図書館で一般公開されている※1。
ステファンソンが行った数々の遠征に関して綴った文を読むにつけ、私が最も無念に思うのは、探険家たちが極地に入ったことで始まった自然の破壊が、年を追って劇的に増えていったことである。やがて企業が、利潤追求のみのためにアラスカの原初の海を破壊していくことになるのではないかと危惧している。(了)

● 本稿は英語で寄稿いただいた原文を翻訳・まとめたものです。原文は /opri/projects/information/newsletter/backnumber/2016/371_3.html でご覧頂けます。

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