Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第370号(2016.01.05発行)

種・船・海底・レンガ

[KEYWORDS] アートプロジェクト/地域コミュニティ/種は船・航海プロジェクト
アーティスト、東京藝術大学教授◆日比野克彦

アートプロジェクトはどのように生まれてくるのか。
朝顔の種から生まれた『種は船・航海プロジェクト』がいかにして各地で発展し、ついには35港を航海するに至ってきたのかをひもとき、地域における社会問題とアートの関連性も踏まえながら、次なる新たなプロジェクトも紹介する。

舞鶴の赤レンガから

半年ぶりに京都府舞鶴を訪れた。東京から新幹線で京都まで行き、山陰線に乗り換え、途中の綾部駅で進行方向が変わる。西舞鶴の駅の次が終点東舞鶴である。感覚的に東から西に向かっていくのに、駅の名前が西東に順番が逆になるというのに最初の頃は戸惑った。それ以上に、初めて舞鶴に行くときに、交通手段を調べようとアプリに行き先「舞鶴」と入力しても、該当駅名なしと表示される。西舞鶴駅、東舞鶴駅はあるけれど舞鶴駅は存在しないのである。そもそも舞鶴が京都府であるというのも意外である。なにかと地形的特色がある土地である。舞鶴は日本海に面しているが、山に囲まれていて、港の入江は複雑に奥まっており、水深も深い。故に大型船も入れる自然の良港である。海上自衛隊の基地があり、街を歩くと大きなグレーの戦艦が何隻も道のすぐ傍にそびえ立つ。明治の時代に日本海軍がこの地に軍港を開いたのが最初のきっかけである。その時代に倉庫として建てられた赤レンガ建造物群が街のシンボルとなっている。
私が舞鶴で活動を行うきっかけは、この「赤レンガ」にある。市民とともに赤レンガ倉庫のまわりでアート活動をすることにより、市民に親しみを持ってもらえる港にしていこうと始まったのが『種は船・航海プロジェクト』というアートプロジェクトである。種の形をした船を作って航海するぞ! というものであるが、舞鶴でいきなり始まったものではなく、ここにいきつくまでの物語が背景にある。その話をしばししますので、お聞きください。

地域コミュニティにアートプロジェクトを

むかしむかしあるところに...そこまでは古くありませんが、私は2003年新潟県十日町市莇平(あざみひら)という集落に行きました。山深い棚田が美しい20世帯ほど100人に満たない集落。住民の高齢化、少子化で、木造2階建の学校は廃校になると同時に、運動会とか盆踊りとかの行事も行わなくなり、住民同士の交流のきっかけも少なくなりました。同じような問題が日本各地で起こっており、その典型的な地域でした。この社会的問題に対して新潟の行政はアーティストを地域に送り込むことをしたのです。つまりアートプロジェクトを起こすことで、新たな地域コミュニティを創造しようと考えたのです。そんな事情で、私が村に行き、村の人たちと会話をしている中からアートプロジェクトは始まります。
そのくだりをかいつまんで話すと、こんな感じです。
「夏にはどんな花が咲きますかね?」と私が聞くと「そりゃ、朝顔すけ!」となり、私が「じゃあ、校舎の2階の屋根までロープを張って、朝顔で校舎を覆ってしまおう!」と言うと。「おめえさん、そんなに朝顔が伸びるわけねえすけ!」と笑われるが、男衆が屋根までロープをはることに興味を示した。一緒に村に入ってきた学生たちと共に、苗の育て方、ロープの結び方、杭の打ち方などなど一緒に作業をする。夏前に3度ほど通って、白いロープが校舎の屋根から15センチピッチで180本張られた。すると見慣れた校舎が化粧し何かが起こりそうに見えてきた。みんながロープを見ながら「屋根までのびるといいね」「1本ぐらい、行くかもね...」村の人も学生も私もみんなが同じイメージを持ったのである。こうなると、誰が誰に指示することなく、水やり、草取り、手入れをするようになる。互いの会話もはずむ。一緒に汗かき、過ごした時間の分だけ、毎朝朝顔が咲き、天に向かって伸びていく...。そして屋根まで朝顔が伸びました! そんなエキサイティングな夏が終わり、秋になり、雪が降る前に朝顔のロープを外す。朝顔は枯れていた。そして当然種が採れた。大量の種が採れた。すると誰かが言った「種が採れたからまた来年もやろう」「いいねえやろう!」
あれから毎年通って今でも続いている。

種は船

新潟で始まったこの『明後日朝顔(あさってあさがお)プロジェクト』※は2005年に水戸芸術館、2007年に金沢21世紀美術館の建物を覆うことになる。新潟で採れた種が水戸に行き、水戸で採れた種が金沢にいく。種が土地をつないでいきながら、種の中にはその土地土地の記憶が積み込まれていく。そんな気持ちで種を見ていると、種が船の形に見えてきた。「種は記憶を運ぶ乗り物のようだ」そして『種は船』という言葉が生まれた。ここからが話は急激に進化し始めていく。人はイメージをすると形にしたくなる。作者本人だけの意図だけではなく、関わる人々が同じような思いを持ち始めると作品はメタモルフォーゼしていく、この変容はある意味自然な流れとも言えるほどスムーズに進む。
『種は船』の言葉が生まれてまもなく、「じゃあ種の形をした船を作ろう」と金沢の明後日朝顔の人たちが言う、そして2007年金沢で最初の『種は船』という名の種の形をした船を段ボールで制作し展示室に飾った。2008年に横浜の明後日朝顔の人たちが「海に浮かべたい」となり、段ボールを防水して山下公園の港に浮かべた。2009年鹿児島の明後日朝顔の人たちが「人を乗せたい」となり乗船できるように構造計算した『種は船』をつくり錦江湾で人を乗せて動力船に曳航してもらった。そして次は「自走したいね」となり、2010年舞鶴で『種は船・航海プロジェクト』が始まった。3年かけて船を作る仲間を築きながら、エンジン付きの種船が2012年にできあがる。
2012年5月19日に全長6メートル、60馬力の船外機付きTANeFUNeが完成して舞鶴港から出港した。目指すは種がうまれた新潟。80日間35の港を経由して、港々で地域の人とワークショップをし、土地の記憶を『種は船』に積み込みながら8月6日に新潟港に到着したのでした。

海でひろがるアートプロジェクト

そんな記憶のある舞鶴で、次なるアートプロジェクトが「赤レンガ」をキーワードに生まれようとしています。私が瀬戸内海の海底で見つけた沈船の積荷のレンガの時代や生産地などの資料が舞鶴の「赤レンガ博物館」にあったのです。海の底のレンガは何になるべきレンガであったのか? それを海底で構築する...などとまたまたイメージがひろがるのである。日本海と瀬戸内海は由良川で繋がっていて、水運でレンガが運ばれた時代もあったらしい。この話はまだまだ続きます...。(了)

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