Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第364号(2015.10.05発行)

第364号(2015.10.05 発行)

編集後記

ニューズレター編集代表(総合地球環境学研究所名誉教授)◆秋道智彌

◆トルコの軍艦エルトゥールル号が串本沖で座礁した1890年9月16日当時は、アジアでもヨーロッパでも戦争が相次いで起こった時代である。トルコ海軍総司令部のIlker GULER海軍士官は、明治の遭難事件から今日にいたるまで、トルコ・日本間の海を越えた友好関係について、桜をたとえとして熱く語っておられる。帝国主義時代、日本とトルコは西洋列強の進出に大きな危機感を持っており、日本はロシア、フランス、ドイツなどと緊張関係にあった。日露戦争のさい、対馬沖でロシアのバルチック艦隊のほとんどが日本の海軍により撃沈され、日本海を越えてウラジオストックに逃げ帰ったのはわずか数隻であったという。
◆現在、竹島問題や北朝鮮の脅威があるとはいえ、日本海の真ん中に位置する富山湾は平穏な状態にある。昨年秋に「世界で最も美しい湾クラブ」に富山湾の加盟が決定した。富山湾は3,000m級の立山連峰を望める、世界でも数少ない海の景観をもつ。「美しい富山湾クラブ」が今年の5月に設立され、同クラブ事務局長の高桑幸一氏は湾を巡るさまざまな取り組みについて提案されている。かつて、大伴家持は「東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉の海人(あま)の 釣りする小船(をぶね)漕ぎ隠る見ゆ」と謳った。奈呉の海は射水市、旧新湊周辺を指す。高岡市万葉歴史館の新谷秀夫氏は、家持は海にしか興味がなかったとみる。ただし今後は、海と山をつなぐ連関や海底湧水など、陸と海を有機的につなぐ活動にも注目しておきたい。
◆湾を含め日本の沿岸や浜は戦後期に大きく変貌した。瀬戸内海の高砂は沖積平野に位置し、開発と埋立ての進む前、塩田が数多くあった。明治20年代から海水浴場が開かれ、昭和期までにぎわった。高度成長期の1970年代、企業が進出し、砂浜や海岸が埋め立てられた。生活環境も悪化の一途をたどり、過疎化に拍車がかかった。こうしたなかで高崎裕士氏らを中心とした入浜権運動が進められた。同宣言には、「古来、海は万民のものであり、海浜に出て散策し、景観を楽しみ、魚を釣り、泳ぎ、あるいは汐を汲み、流木を集め、貝を掘り、のりを摘むなど生活の糧を得ることは、地域住民の保有する法以前の権利」とある。生活権は地域住民によるコモンズ的な発想にほかならず、石垣島の白保で展開した新空港反対闘争のさいに議論された総有論ともつながる。その高砂の浜で自然保全活動を続けるガタガールの前田真里さんは「この浦舟池」で生態系の復元を目指しておられる。3.11の津波で被災した塩性湿地でヨシが果たした役割が注目されており、この活動のひろがりが大きく期待される。(秋道)

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