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第175号(2007.11.20発行)

第175号(2007.11.20 発行)

海の女神「媽祖」

三尾裕子(みおゆうこ)●東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 教授

10世紀後半、福建省沿岸部の郷土的な一巫女にすぎなかった女性が地方の船乗りの信仰を集めて航海守護の神になった。それが媽祖(まそ)の由来である。
いまでは中国だけではなく台湾や東南アジアの各地に「媽祖廟」は見られ、媽祖は、航海に限らず、あらゆることに利益のある神として祀られる。
媽祖から海を通した東アジア世界の広がりを見ることができる。

媽祖の由来

台湾関渡宮の媽祖の祭壇。
台湾雲林県水林聖母殿の媽祖。10年あまり前に媽祖が顕れる奇跡が起き、信者が殺到したことがある。

改革開放後の中国の経済的な発展はすさまじく、海外に進出するビジネスマンや知識人などのエリートの活躍には、目を見張るものがある。しかし、中国人の海外進出は、近年に始まったことではない。海外に勇躍する中国人を「華僑」と呼ぶようになったのは、19世紀になってからだが、それ以前にも、中国人の移動性は高かった。そんな彼らにとって、危険な海を渡っていく上での守り神となったのが「媽祖(まそ)」である。媽祖はまた、「天上聖母」「天妃」「天后」などとも呼ばれる。媽祖は、日本では関帝(関羽)と比べると、知名度は低いかもしれない。しかし、華僑が媽祖を伴って日本にきて、日本に寺廟を建てている例は少なくない。また媽祖との関係性が考えられる日本古来の信仰もあり、媽祖から海を通した東アジア世界の広がりを見ることもできる。
現在、媽祖は、漢民族が居住する地域で祀られている非常に人気の高い神である。その由来については、ある程度定式化した伝承がある。それによれば、媽祖は10世紀後半頃に中国大陸福建省甫田県の林姓の六女として誕生した。生まれてからまったく泣かなかったので「黙娘」と名づけられた。幼いときから賢く、仏教を熱心に信仰し、また法術を身につけたので、様々な奇跡を起こすようになった。とくに、たびたび水難事故から人々を救った。彼女自身、次第に人を救うことを天命と考え、生涯独身を誓った。二十八歳のときに、魂が天に昇って神になったという。
もっとも、このような伝承は、長い時間をかけて徐々にでき上がったもので、他にも細部の異なる伝承もある。はじめは、福建省沿岸部の一巫女にすぎなかった女性が、次第に地方の船乗りの信仰を集めたために、航海守護の神になり、南宋から元代初めに全国的に広まったようだ。初期の文献には、生前の氏名や生没年、生い立ちなどは詳しく記載されていなかった。

航海の神から万能神へ

媽祖が一郷土神から中国全土に知られるようになったのは、航海者の信仰を集めたからだが、それ以外に、国家による篤い保護があったことも関係している。朝廷は、外交使節の航海、海運による交易や物資の輸送の安全を確保するために、媽祖の霊験を必要としていた。このため、媽祖が霊験を顕すと、朝廷からその功を讃える額や封号が授与された。
15世紀の前半に、明の皇帝の命を受けて、全七回にわたって東南アジアからインド洋、アフリカ東岸方面に大艦隊を率いて遠征した鄭和も、船に媽祖を奉安し、その加護を得たことをたびたび奏上したという。このため、媽祖信仰は、ますます広まっていった。
海外への移民は、媽祖を船に乗せて航海の無事を祈ったが、上陸すると、媽祖の加護に感謝して陸地に寺廟を建立して奉祀し、未知の土地での生活の安寧や発展を祈願した。こうして、台湾や東南アジアでは各地に「媽祖廟」が増え、次第に媽祖は航海に限らず、あらゆることに利益のある神と考えられるようになった。

日本における媽祖

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中国大陸のすぐ向かいに位置する馬祖列島(台湾領)にある馬港天后宮。ここには、林黙娘が海難事故に遭った父を背負って流れ着き、昇天したという伝承が残っている。左写真は馬港天后宮の媽祖像。上は馬港天后宮の祭典の模様。

日本にも、媽祖廟は少なくない。その多くは、中国人が、船に載せて連れてきたものである。最も古い事例としては、15世紀ころ明との通交によって那覇に来住した中国人がもたらした。また、日本最古の中華街がある長崎では、福済寺や興福寺、崇福寺などに、17世紀頃にはすでに媽祖を祀っていた。水戸光圀は、長崎の黄檗宗の僧から排斥された曹洞宗の僧心越を水戸へ招聘したが、この僧が中国から携えてきた媽祖が、東日本における媽祖奉祀の最初となった。下北半島の大間の場合には、祭り手は華僑ではなく、日本人で、すでに300年余の歴史があるという。
沖縄久米島にある天后宮の場合には、1756年に琉球王の即位を承認する使節である冊封使の乗った船が暴風雨にあって遭難したときに、久米島の村人たちが使節を救えたのは、媽祖の霊験によると考えられた。そこで神のご加護に感謝して琉球王の経済的支援を得て媽祖廟が建立されることになり、神像を福建から勧請してきたのだという。
最近の研究によれば、『和漢船用集』や『増補諸宗仏像図彙』など江戸時代の文献に、舟玉(船霊)神やその「絵姿」として媽祖が登場しているらしい。媽祖は、寺廟等に祀られるのとは別の形でも、かなり広く知られた存在だったことが考えられる。これは、おそらく日本の従来の信仰の中に、媽祖を取り込む素地があったからと考えることが可能だろう。舟玉は、船の守護神として、船乗りや漁民に信仰されてきた。和船では、帆柱を支えるツツ柱に穴を彫り、舟玉様のご神体として賽や銭、男女の人形、五穀、毛髪などを込めた。女神と考えられる場合が多いことから、舟玉の擬人化として、同じ女神である媽祖が重ねあわされたのだろう。
沖縄・奄美には、オナリ神信仰が見られるが、これも媽祖との類似性が考えられる。オナリ神信仰とは、女性には兄弟を守護する霊力があるとする信仰で、兄弟の危機に姉妹が白鳥になって命を救ったとする言い伝えや、兄弟が出兵するときに、姉妹の手ぬぐいや毛髪をお守りに持っていくといった習慣があった。他方、林黙娘については、こんな伝承がある。ある年の九月に父と兄が海に出たところ、嵐に遭遇した。黙娘はこのとき家で機織りをしている間に居眠りをし、夢で嵐にあった父の船を口にくわえ、兄の船二隻を両手で掴んで岸をめざして引っ張っていたところ、母から起こされて、思わず返事をしたために、口にくわえた父の船を放してしまい、兄は救えたが父は救えなかったという。この他、民俗学的な研究によれば、オナリ神に類する女性の霊力という考え方は、韓国、東南アジアなどにも見られる。

おわりに

女性のもつ特別な霊力という信仰が、アジアのどこで最初に生まれた考え方であるのかについては、学者によって様々な説がある。しかし、媽祖信仰の発祥となった中国の東南部沿海地域には、かつて越人と呼ばれた人々がいて、イレズミや断髪、海の魚を獲る漁業など、日本にも共通する文化要素がいくつも見られたことから考えれば、女性の霊力についての観念も、古代における中国沿海部の文化との交流の中から、形成されてきた可能性も考えられる。舟玉神に媽祖が擬せられたのは、あるいは先祖返りといえるかもしれない。(了)

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