震災復興へ想いをつなぐ日中交流
中国の無形文化財保護団体が輪島漆芸技術研修所に漆を寄贈
笹川平和財団(東京都港区、理事長・角南篤)は、3月3日(月)、昨年1月に能登半島地震により甚大な被害をうけた現地の伝統工芸関係者を支援するため、石川県立輪島漆芸技術研修所で寄贈品贈呈式を実施しました。
笹川平和財団海洋政策研究所(OPRI)および水交会は2019年7月23日、第6回「海洋安全保障シンポジウム」を開催しました。米中対立など最近の国際情勢と昨年末に改訂された防衛計画の大綱(30大綱)の内容を踏まえ、「我が国の海洋安全保障と今後の海上防衛力の役割」をテーマに、海上防衛の現場での実務経験を有する現職自衛官・水交会会員、海洋安全保障分野の研究者が忌憚なく議論しました。
統合幕僚監部防衛計画部副部長の福田達也将補
福田将補が指揮官を務めたCTF151司令部は世界11カ国から派遣された総勢25名で編成され、2017年3月9日~6月28日の活動期間中、警戒監視・情報収集および各種訓練を行うとともに、国際会議への参加や、部隊指揮官が関係国、関係国際組織などの要人を訪問し、海賊対策の推進を訴えるキー・リーダーシップ・エンゲージメントなどに従事しました。就任直後の3月13日には5年ぶりに海賊による商船の乗っ取り事案が生起し、在任中7件(内、乗っ取り成功事案4件)の事案に対処されました。
また、インド太平洋方面派遣訓練は、海自の護衛艦3艦と搭載航空機、乗員約800名で編成する部隊で、2018年8月31日に出国、フィリピン、インドネシア、スリランカ、インド、シンガポールに寄港。その間、訪問国海軍及び米、英等海軍との共同訓練を実施し、10月26日に帰国。訓練を通じて「諸外国海軍との連携強化や相互運用性、さらに部隊としての戦術技量の向上を図った」ことを成果として示し、「海自は今後も海上防衛力の役割の一環として、こうした活動を推進することで、FOIPの実現に貢献し、あわせて地域の海洋安全保障に寄与する」と決意を表されました。
つづいて、4名のパネリストによる発表がありました。
パネルディスカッションの様子
つづいて、OPRI客員研究員の倉持一氏がモデレーターとして加わってパネルディスカッションがありました。
倉持氏から「中国の研究者などから、FOIPは自由で開かれたものというのに、なぜ中国を入れないのか、という疑問が呈されることがある。また、中国は国際法は守らないとはいっていない。ただ、独自の解釈をしている。そういう立場にある中国を、FOIPに取り込んでいくのか、あるいは拒絶するのか。どう考えるべきか」と提起しました。
相澤氏は「FOIPは包括な国際秩序として、中国を取り込むことを考えるべき。そのために、まずは日本がやろうとしていることをきちんと伝える。そして、できるところから協力する。法の支配など理念のとらえ方にギャップがあるなら、すり合わせていくことが肝要だ」、寺田1佐は「FOIPの価値の面を前面に出して、最終的には中国を取り込むという姿勢を示すことは、国際世論の支持を得やすいという意味で悪くはない」との見方を示しました。
一方、池田委員は「令和の時代は現状の国際秩序を是とする陣営とそれを変更していこうとする陣営それぞれが、どう生き延びていくかという時代。FOIPは前者なので、後者の国を取り込むことは考えていないのではないか」と異なる見解を述べました。
川島教授は「問題は米国」だと指摘。「米中対立が激化する中で、中国を取り込むという発想を日米でシェアできるか。米国ではFOIPの中に台湾を位置づけようという議論もある。日本は中国を取り込むべきとは思うが、難しい」とし、「せめて経済面においては中国とののりしろをつくるようにできないか」と重ねて強調しました。
「日米同盟がある中で、英国は東アジアの海洋安全保障にどのような距離感でコミットしようとしているのか」との倉持氏の問いに対して、寺田1佐は「英海軍が東シナ海への艦艇の派遣を決めたのは、米英関係を考慮した部分もあるだろう」と、また池田委員は「欧州の国々にとって、アジア地域でプレゼンスを示すことは重要。英国は東アジア地域に艦隊を置く価値を認めているのではないか」と分析されました。
さらに「現在の大綱、中期防が積み残している課題」について問われると、池田委員は「自由で開かれた海洋秩序をどうとらえて海自の任務として確立していくのか、という部分が薄い。海自は中国の艦隊と対峙し、日々さまざまな事象が起こっている現実の中でどうすればよいのか。こうした点も大綱に明示されていることが必要だ」と率直に指摘しました。
ディスカッションではほかにも、パートナーとしてのインド・豪州の見方、新たな関係を築きだした中印、民主化と経済発展の問題、米中対立の落としどころなど話題の幅をひろげ、さらに議論を深めました。
※文末注
注 2018年12月17日付『読売新聞』掲載。