Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第546号(2023.05.05発行)

別府湾の海底堆積物に記録された人新世境界

[KEYWORDS]GSSP/惑星限界/SDGs
愛媛大学沿岸環境科学研究センター准教授◆加 三千宣

人新世は地質時代区分の一つとして認識されつつあるが、その地質学上の定義はいまだ明確でない。
その定義には、その始まりを明確に特徴づける国際標準模式地(GSSP)が必要である。
別府湾堆積物には人新世の始まりを明確に特徴づける証拠があり、1953年の層がGSSPとしてふさわしいことがわかってきた。
人新世境界の誕生は、人新世の科学的根拠を与えると同時に、危機的な地球環境の状況を知らせる人類への警鐘という役割がある。

地質学としての人新世の誕生

地球温暖化に代表されるように、産業革命以降の人為撹乱による地球環境変化は、長い地球史から見ても、著しく大きな規模の一つである。そうした近年の大規模な地球環境変化の事実から、完新世から人新世(Anthropocene)という新たな地質時代に移行したという「人新世の到来」が提唱されるようになった。「人新世」という概念は、2000年のノーベル化学賞受賞者Paul Crutzen博士の提案以降、科学、社会学、政治、宗教、文化等、あらゆる分野ですでに広く使われるようになったが、地質学的にはいまだ定義された概念ではない。地質時代区分として認定されるためには、その始まりの基準となる「国際標準模式地(Global boundary Stratotype Section and Point)」、いわゆるGSSPを地球上のどこかの地層に設定する必要がある。
人新世のGSSP設定は、今新たな局面に入っている。国際年代層序表を決定する機関である国際地質科学連合の下部組織にあたる人新世作業部会が正式に人新世GSSPの設定に取り組んでいる。2023年3月にはすでにカナダや中国の湖の堆積物、カリブ海のサンゴ、南極の氷など12のGSSPの候補が挙がっていて、今着々とその候補の絞り込みが進められている。順調に進めば、2024年の国際地質科学連合理事会でGSSPが決定される。正式に地質時代としての人新世が誕生するのも間近にせまってきた。

別府湾堆積物に記録された人新世の始まり

12のGSSPの候補地の中で、日本の大分県別府湾の海底堆積物が有力候補の一つとして検討されている。別府湾には、全海洋でも珍しい年縞と呼ばれる縞状の堆積構造を持つ海底堆積物がある。これは季節ごとに色や密度の異なる層からなり、その縞を数えることで1年1年の層が識別できる。それらの層は、堆積した当時の海や陸上の環境がどんな状態でどんな生物が生息していたかをタイムカプセルのように保存している。その地層中のタイムカプセルに含まれる海洋生物や放射性化学物質等を分析したところ、この年縞堆積物はいつから人類が地球環境や生態系に甚大な影響を与えてきたかを詳細に記録していることがわかってきた。筆者ら愛媛大学沿岸環境科学研究センターは、別府湾の海底堆積物が人新世の始まりを地質学的に定義するポテンシャルがあると確信し、2019年以降、別府湾人新世GSSP研究チームを結成して、別府湾堆積物に刻まれた、人新世の始まりを特徴づける地層中のさまざまな痕跡を探索してきた。
得られた結果は、非常に興味深いものであった。海底下64cmの1953年の地層を境に、人為影響の痕跡とみられるさまざまな指標が顕著な変化を示している。プルトニウムやウラン、セシウム等の核実験由来の放射性同位体、化石燃料の燃焼由来物質である球状微粒炭、鉛や水銀等の重金属、PCBやDDT等の残留性有機化合物、マイクロプラスチックなど、人為的な環境汚染の痕跡がこの頃から初めて検出される。
カタクチイワシの鱗から、化石燃料燃焼由来の二酸化炭素濃度の増加を反映する炭素同位体比の減少や、窒素酸化物(NOx)や窒素肥料の環境中への過剰供給の痕跡が窒素安定同位体比の増加として1953年の層から検出された。窒素同位体比の変化は、過去25億年間で最大規模とされる地球の窒素循環の変化を捉えている。生態系もこれまで類を見ない変化がこの時期よりみられる。赤潮形成種を食べる渦鞭毛藻類の遺骸の増加や、色素分析から海洋植物プランクトン群集の大きな変化が捉えられ、沿岸海洋生態系の劣化が始まったことを示唆している。その他の指標を含めると、1953年を境に人為影響の痕跡が急増することがわかった(図)。これは、歴史上のGDPなどの人類活動のさまざまな指標の加速する時期と一致する。このように、別府湾堆積物には人新世の始まりを明確に特徴づける層序学的証拠が多数あり、1953年の層が人新世のGSSPとしてふさわしいことがわかった。

Kuwae et al.(2022)(The Anthropocene Review)より一部改変。左端は、別府湾の縞状の堆積構造を持つ海底堆積物(掘削コア)。

人新世境界誕生の社会的意義

人新世の地質時代区分境界の誕生は、『人類がもたらした新しい地質時代の到来』が科学的根拠に基づいてはじめて公に認められることを意味する。地球史上で初めて人類「Anthropo-」(ギリシャ語、人類のという意)と名の付く人新世境界は、地質時代区分の中で最も意義深い境界の一つであろう。人新世境界の設定は、単に地質時代区分を定義しただけにとどまらない。地球温暖化の対策をしない限りはあと最短7年もすれば暴走が始まり、7mの海水面上昇によって人口や重要インフラが集中する多くの土地が海に沈むという予想もあり、現在の地球はそうした気候システムが許容できる限界、いわゆる『惑星限界』(Planetary Boundary)を超える可能性がある。生物の絶滅速度も異常に速く、すでに惑星限界を超えていて、このままいくと数百年後には地球史の地質時代区分境界でのイベントに匹敵する6回目の大量絶滅が起こるとも言われている。そうした危機的な事態が人類の繁栄と引き換えに起ころうとしている、それが人新世という時代である。その意味で、人新世境界はこれから激変する地球環境の予兆を現代社会に知らせる、いわば人類への警鐘でもある。
惑星限界の概念と結びついた人新世仮説は、これまで国連が推進するSDGs(主に目標13気候変動、14海の豊かさ、15陸の豊かさ、関連目標で3福祉と健康、6安全な水、7エネルギー、11まちづくり)の科学的論拠となってきた。人新世が地質時代区分として正式に認められ、SDGs推進の気運をいっそう高めるきっかけになればと期待している。(了)

第546号(2023.05.05発行)のその他の記事

ページトップ