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オーシャンニュースレター

第209号(2009.04.20発行)

第209号(2009.04.20 発行)

初めて世界一周した日本人 --若宮丸漂流民

[KEYWORDS] 若宮丸/ナジェージュダ号/環海異聞
石巻若宮丸漂流民の会 事務局長◆大島幹雄

鎖国時代に、はからずも世界一周することになった石巻若宮丸漂流民4名がたどる数奇な運命のかげに、日本に通商を求めたロシアとあくまでも鎖国を維持しようとした幕府の確執があった。
2001年に若宮丸漂流民を顕彰するために設立された石巻若宮丸漂流民の会の活動をまじえ、彼らの足跡を追う。

江戸時代に世界一周

レザーノフ(『環海異聞』より)
レザーノフ(『環海異聞』より)

日本人で初めて世界一周を経験したのは誰か、と聞かれても即答できる人はほとんどいないだろう。答えは、津太夫、佐平、儀兵衛、太十郎の4人である。この4人は、仙台藩石巻の船若宮丸乗組員であった。しかも彼らが世界一周をしたのは、江戸時代のことである。鎖国下の江戸時代に、世界一周をした船乗りたちがいたなどという話は、にわかに信じられないかもしれない。しかし実際に200年以上前に北はベーリング海、南は南極近くまで旅した船乗りたちがいたのである。日本で初めて世界一周をした若宮丸漂流民の足跡を駆け足で追ってみよう。
1793年11月、石巻から江戸に向け、米と材木を積んだ若宮丸は、暴風雨のため遭難。16人の乗組員は、北太平洋のアリューシャン列島の一小島ナアツカに漂着する。当時ロシア領だったこの島に常駐していたロシア人に救出され、漂着後船頭が亡くなった。一行はシベリアの中心イルクーツクヘ移される。井上 靖や吉村 昭の小説で知られる大黒屋光太夫を日本に送還したロシアの女帝エカテリーナは、日本との通商を真剣に考えていたのである。救助と移送は、エカテリーナの対日政策を受けてのものであった。しかしイルクーツクに到着後まもなくエカテリーナが死去、漂流民たちは、あてもなくここで7年間生活することになる。その間、2名が病死している。
アレクサンドルが皇帝の座についてまもなく、漂流から10年して、漂流民たちは首都サンクトペテルブルクヘ呼びよせられる。3人が道中病気になりイルクーツクへ引き返した。サンクトペテルブルグに着き、皇帝の謁見を受けたのは10名。6名がロシアに残ることとなり、帰国を希望していた4人が、日本との交渉を委ねられた使節レザーノフと共に、ロシア初の世界周航船となるナジェージュダ号に乗り込み、日本へ向かうことになった。
サンクトペテルブルグ近郊のクロンシュタット港を出発した船は、途中コペンハーゲン、ファルマス(イギリス)、サンタ・クルス(スペイン領アフリカ)、サンタ・カタリーナ島(ブラジル沖)、ヌクヒヴァ島(南太平洋・マルケサス諸島)に寄港し、およそ1年かけてカムチャッカ半島のペトロパブロフスク港に寄港したのち、長崎へ向かった。北海海上では英仏戦争のあおりを受け、仏船に間違われ、英国船から砲撃を受けたり、南アメリカ最南端の難所として知られるホーン岬をまわる時に強風に遇い、南極近くまで流されたり、マルケサスでは全身に入れ墨をした南海の土着の人たちと遭遇したりと、数奇な体験をしながらの航海であった。

日本に帰国して

太十郎がロシアから持ち帰ったジャケット(東松島縄文村歴史資料館)
太十郎がロシアから持ち帰ったジャケット(東松島縄文村歴史資料館)

漂流民たちを乗せたナジェージュダ号は、1804年9月6日長崎港伊王崎に到着する。サンクトペテルブルグを出発してから1年2カ月、石巻を出航してから11年の歳月を経て、4人はやっと故国日本の地を踏むことができた。しかし彼らは幕府にとっては、招かれざる客であった。3カ月以上も幽閉状態におかれ、もはや故郷には帰れないと絶望した太十郎は、口に剃刀を突き刺し、自殺をはかる。一命は取り留めたものの、このあと口を開くことはなかった。太十郎は、世界一周の旅で、寄港地では必ず船を降りて、町を見て回ったという。太十郎が持ち帰った皇帝から賜ったという上着が、いまなお故郷に保管されている(東松島縄文村歴史資料館)。200年以上の歳月を経て、ボロボロになってはいるが、これを手にしたとき、わざわざ持ち帰った太十郎は、おそらく故郷の人たちに見せながら、ロシアでの生活や世界一周の話をしたかったのだろうという思いが込み上げてきたものである。彼は喉を切ることで、その思いを自ら断ち切ったのだ。
翌年3月やっと実現したレザーノフと幕府との会談は、通商のみならず、日本への来航さえも禁ずるという、ロシアにとっては屈辱的な結果に終わる。1806年ロシアは、突然、択捉と樺太を襲撃する。外国からの突然の襲撃に日本中は大騒ぎとなるが※、この襲撃の遠因は、レザーノフが長崎で幕府から受けた非礼な対応にあった。このあと北方の地を舞台に日本によるロシア船艦長ゴロヴニン拿捕、それに対するロシア側の報復としての高田屋嘉兵衛拿捕など、日ロ関係の緊張は一挙に高まる。そのすべての発端は、この長崎におけるレザーノフと幕府との会談にあった。
さてその後の漂流民であるが、長崎で取り調べを受けたあと、仙台藩に渡され、江戸の仙台藩屋敷で、再び訊問を受けることになる。この時取り調べにあたったのは、江戸一の蘭学者大槻玄沢だった。彼はのちにこれをまとめ、『環海異聞』と名づけ仙台藩に上梓した。漂流民の海外での数奇な見聞録は、鎖国のなか海外の知識に飢えていた知識人にとって、貴重な記録となり、数多くの写本がつくられることになった。

漂流民達の功績

大黒屋光太夫よりさらに数奇な運命をたどった若宮丸漂流民であるが、地元でもあまり知られてはいなかった。もっともっと知ってもらいたいということから、地元で若宮丸のことを調べている人たちに呼びかけて、2001年12月、石巻若宮丸漂流民の会を結成した。現在の会員はおよそ80名だが、地元を中心に盛んに活動を続けている。現在まで会報『ナジェージュダ』を20号発刊するほかに、2004年には「初めて世界一周した日本人展」を開催、この時作家吉村昭さんをお迎えしての講演会も開いた。帰郷200周年にあたった2006年には、漂流民の出身地である東松島と塩釜で「帰郷200年祭」も行った。この結果少しずつではあるが、若宮丸漂流民のことも知られるようになってきた。さらに会では、漂流民と縁の深い、サンクトペテルブルグに住む、ナジェージュダ号の艦長であったクルーゼンシュタインの子孫と交流、さらには世界一周の途上で寄港したサンタ・カタリーナ島があるブラジルのサンタ・カタリーナ州の団体「ニッポ・カタリネンセ協会」とも本格的な交流が始まっている。地元だけに留まらず、地球規模で交流が深まっているのは、世界一周した若宮丸漂流民のおかげだといっていいかもしれない。(了)

※  幕府側の対応等については、「文化戊辰蝦夷地警固の会津藩士の墓から見えるもの」本誌198号(2008.11.05)を参照ください。

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