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オーシャンニュースレター

第515号(2022.01.20発行)

九十九里の海と栃木を結び付けた麻商人

[KEYWORDS] ノコギリ商い/野州麻/干鰯
栃木県立博物館名誉学芸員◆柏村祐司

海からは遠い栃木県の麻畑と九十九里浜の海を結びつけた江戸時代の麻商人の活躍について紹介したい。
麻商人は、漁網用の麻を大量に必要とした九十九里浜の網元へ栃木の「野州麻」を販売し、復路でイワシを干して乾燥させた干鰯を肥料用として持ち帰った。干鰯を大量に売りたい網元と、鹿沼地域の麻生産農家の干鰯の肥料への要望を巧みに捉え、双方が得をし、生産に結びついたという。

栃木の野州麻

栃木県は、海なし県。日頃海を眺めることのない県民の多くは、車窓から海が見えると物珍しげに思わず海を見る。栃木県民にとって、海は非日常の世界、ある種の霊気を感じるようだ。ところで潮の香も潮風も感じない栃木県ではあるが、それでも海と結びつけるものがある。漁網に使われた栃木県産の麻である。ここでは鹿沼地域の麻畑と九十九里浜の海とを結びつけた麻商人について紹介したい。
第二次世界大戦後ナイロンをはじめとする化学繊維が普及したが、それ以前は、わが国を代表する強靭な繊維として麻があった。麻と言っても大麻のことであるが、栃木県は江戸時代から昭和時代頃まで麻の一大特産地として知られ、栃木県から販売される麻は「野州麻(やしゅうあさ)」とか「野州大麻」の名で呼ばれた。
野州麻の生産地は、栃木県西部の足尾山間地および山麓一帯である。下南摩村(しもなんまむら)(現鹿沼市下南摩)での明治初期の統計によれば、現金収入源となった農作物として麻・米・荏(まめ)、朝鮮人参があったが、中でも一番の現金収入源になったのが麻であった。こうした状況は江戸時代でも同様であったと思われ、鹿沼地域においていかに麻が重要な農産物であったか窺い知れる。

野州麻の取引

野州麻の生産・販売の歴史は、江戸時代前半に遡る。例えば下日向村(しもひなたむら)(現鹿沼市下日向)の川田平左衛門は、17世紀後半、江戸に麻や炭を盛んに出荷している。当時、江戸に送られた野州麻は、品質・産地別による製品区分が細かく設定されていたが、それはとりもなおさず江戸市場において、野州麻の商品化が進んでいたことを示すものに他ならない。なお、鹿沼地域では、麻布として加工するには至らず麻原料の産地として特化していった。

■麻作り 麻切りの様子(1972(昭和47)年当時)

九十九里浜への行商

鹿沼地域の麻の取引は、当初もっぱら江戸の商人との間で行われていたが、18世紀後半になると鹿沼の麻商人が九十九里浜に直接出かけ、麻の取引を行うようになった。板荷村(現鹿沼市板荷)の福田弥右衛門は、九十九里浜まで出かけた麻商人の一人である。江戸時代中後期、九十九里浜はイワシ漁が盛んとなり、漁網用の麻が大量に必要となった。弥右衛門は、そうした情報をキャッチしたのであろう。江戸の商人を介した麻商いよりも、九十九里浜へ麻の行商に出かけて直接網元に販売した方が実入りもよく、また、良い値で買い付けてくれると踏んだのである。
1773(安永2)年、弥右衛門は、九十九里浜へ麻商いに出かけた。その時の様子を記した『道中記』がある。それによると10月20日に麻21箇(7駄分)を馬の背につけ板荷村を出立し、思川の壬生河岸まで運び、そこから舟で思川・利根川を下り、小見川河岸(現千葉県香取市小見川)で陸揚げし、11月10日馬を雇って八日市場の富谷町(現千葉県匝瑳市(そうさし)富谷)まで麻荷物を運んだ。八日市場では「鹿沼屋」と称する商家を拠点とし、浜方廻りと称して近在の尾垂(おだれ)村、屋形村、蓮沼村、今泉村、野手村(のてむら)等の網元の所に麻の行商に出かけている。予定通り商売が済むと帰路につき11月23日に板荷村に帰っている。この間約1か月の行商活動であり、持参した21箇の麻は売上げ上々の成果をあげたのであった。

■野州麻・九十九里のイワシ(干鰯)の流通ルート『鹿沼市史 通史編近世』より作成

鹿沼地域の麻と九十九里浜の干鰯のノコギリ商い

福田弥右衛門のように鹿沼地域から九十九里浜へ麻の行商に行く動きは、江戸時代後期から幕末期に至るまで増々盛んになった。弥右衛門と同じ板荷村の瀬兵衛は、近在の農家から麻を仕入れると、それを持って九十九里浜へ行き網元に売却した。ところが瀬兵衛の場合、空身で帰るのではなく、網元たちが作る干鰯(ほしか)を買い求め、板荷村に戻り麻生産農家に販売したのである。
干鰯は、イワシを干して乾燥させた後に固めた肥料である。17世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになり、それに伴い農家では肥料の需要がより一層高まった。従来、肥料として用いられた草木灰や人糞等に比べると、軽くて肥料として効果の高い干鰯が注目されるようになったのである。
鹿沼地域の麻畑は、ジャリッパタといわれるように礫交じりの痩せ地であり、麻生産農家では施肥に関心を寄せていた。一方、日本最大のイワシの漁獲地である九十九里浜は、干鰯の一大生産地となり販売に躍起になっていた。瀬兵衛はこのような麻を求める九十九里浜の網元と、鹿沼地域の干鰯に期待する麻生産農家の要望を巧みに捉えたのである。こうした九十九里浜と鹿沼地域との双方向の商いを、木材を挽くノコギリの動きにたとえ「ノコギリ商い」と言った。
ノコギリ商いは、その後明治の中頃まで続いたようである。なお、江戸期の頃九十久里浜で求めたイワシ原料の肥料は干鰯であったが、明治期になると〆粕(しめかす)に変わった。〆粕は、生イワシを釜で煮た後、油を搾ったもので、干鰯よりも高い価格で流通したという。また、搾った際に出る油は魚油と呼ばれ、安価な行灯(あんどん)油などとして利用されていた。これらを麻栽培農家で使用するようになったのは、干鰯より一層の肥料としての効果があったからである。
麻商人は、鹿沼地域の麻の生産と九十九里浜のイワシ漁に多大な影響を与えた。麻商人は、海なし県栃木と九十九里の海とを結びつけた、いうなれば仲人のような役柄を果たしたのである。(了)

  1. 【参考文献】・鹿沼市史編さん委員会『鹿沼市史資料編 1』鹿沼市2000年 ・鹿沼市史編さん委員会『鹿沼市史 通史編近世』鹿沼市2006年

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