Ocean Newsletter

【Ocean Newsletter】最新号

第507号(2021.9.20 発行)

江戸時代の漂流者対応と無人島利用にみる疫病の水際対策

[KEYWORDS] 江戸時代の感染症対策/水際対策/隔離
東京学芸大学人文社会科学系教授◆橋村 修

江戸時代の九州西部沿岸部における疾病の水際対策について、異国船漂着者への対応がその属性により異なること、疾病者が無人島に隔離されたこと(長崎五島・熊本天草)を紹介し、病死者対応をめぐる特徴や現代の無人島活用について問題提起を行う。

江戸時代の疫病の水際対策

江戸時代の疫病の水際対策は、医学的な治療が十分でないなかで、祈り、避難や隔離などの対応が主となっていた。江戸時代を通してもっとも猛威を奮っていた疫病は疱瘡(ほうそう)(天然痘)であり、19世紀以降にコレラ、麻疹が流行した。最近話題になっているアマビエ(アマビコ)の「肥後国海中の怪(アマビエの図)」(1846(弘化3)年)、「姫魚図」(1823(文政6)年)、「神社姫」(1819(文政2)年)は肥前(長崎県佐賀県)、肥後(熊本県)の九州西岸、いわゆる「国境」の海域に出現したとの語りで共通している。この海域における江戸時代の疫病の水際対策について、薩摩藩の異国船病死者の対応、五島列島と天草諸島における疱瘡患者の隔離等の対応を紹介する。

薩摩藩の異国船漂流者への水際対策

日本列島の南端に位置する薩摩藩では琉球からの南西諸島において疫病発生がみられ、琉球航路の重要な港である山川(指宿市)では江戸時代に疱瘡踊がおこなわれていた(図1)。現在でも県内各地に疱瘡踊習俗が残っている。薩摩藩では異国船漂着時には、キリシタン改め、病人対応などがおこなわれていた。病人への対応を記した1724(享保9)年辰4月、1745(延享2)年10月に異国方から諸所津口番所へ出された史料「異国方御條書」(『島津家列朝制度 巻五十四』)には、異国船の渡来や漂着船の処理の指示が記され、領内各地の津口番所に同内容の対応をおこなうよう命令されていた。
すなわち、「唐人」(中国)が病死の場合は、寺か人の往来のないところに土葬した(唐人三四人を陸へおろし、噯(あつかい)・役人・横目・浦役等の役人に見張らせて、土葬で処理し、犬類が寄らないように、虎落(もがり)を結び廻して置いて異国方御用人へ伝達)。「朝鮮人」病死の場合は、本国に返すために死骸を塩漬けにして桶に入れておく(申し聞いた通りの大きさの桶に死骸の鹽詰を入れて異国方御用人座へ急ぎ伝達)とされていた。
南蛮船と阿蘭陀船の破損の際にはすぐに舟を出し、船中の人たちを助け、異国人を指定の家屋、小屋に入れて監視し、地元の者を近づけさせないようにし、食べ物は飢えないように提供し、もし溺死・病気の者がある場合には、その後の対応を速やかに鹿児島へ連絡し、死骸を塩漬けにする。これらをみると、漂着者の属性によって病死者対応に違いがあったことがうかがわれる。朝鮮人の扱いについては国交があったことと関係するかもしれない。土葬や塩漬けなど死体処理の方法をめぐっては、アジアや太平洋全体を視野に入れながら海の文化の問題として比較検討する必要がある。

図1 山川郷竹の山疱瘡踊図(白尾国柱『倭文麻環(しずのおだまき)』1811年)

五島列島・天草諸島にみる無人島の利用

ルイス・フロイス『日本史』の五島列島(1566年ごろ)の記載に「日本では天然痘が珍しくないが、五島の人々はこの病を(ちょうどわれわれがペストを毛嫌いするように)忌み嫌う。そのため妻子や夫・家族が罹患すれば、家から出して連絡を断つ。どういうことかというと、人里離れた林の中に藁小屋を建てて、病人が死ぬか完治するまでそこで治療し、食べ物を運ぶのである。完治した後も、殿と接したり殿に仕官したりする人間であれば、一定の月数が経つまで屋敷に入ることは許されない。」(『完訳フロイス日本史』松田・川崎訳)とあるように山里に隔離していた。この地域は江戸中期から幕末まで疱瘡が猛威を奮い、幕末期にコレラが流行した。
疫病流入の背景として、海を通した人の動きがあった。五島列島の上五島は江戸期の三大漁場でも知られ、固定網の他国者経営、各地の鯨組出漁と島外者の雇用などのように全国各地との船での行き来が多く、長崎への異国船の航路にもあたっていた。天草諸島(熊本県)で天然痘が大きく流行したのは、長崎口の富岡、熊本口の大矢野、薩摩口に位置する風待港の牛深の周辺であった(「口」とは、人や物の出入り口で、地名をつけて呼ばれた)。
山への隔離が主流だった感染者への対応は、19世紀前半になると、地付きの無人島への隔離がみられるようになった。五島列島中通島上五島では1819(文政2)年に瀬戸内から戻った疱瘡を拡散させた者たちを祝言島へ、1837(天保8)年には中通島飯ノ瀬戸村で144人の死者が出たため、病人を村の目の前に位置する串島へ隔離している(図2)。串島は近世から定置網漁業の納屋や魚見台がおかれていた(図3)。福江島富江では1864(文久4)年に疱瘡が発生した際に、富江の地先に浮かぶ太郎島(多郎島)に小屋掛けし、「逃藪」(隔離所)がつくられた。天草諸島では、1838(天保9)年10月に天草下島楠浦村(熊本県天草市本渡)で疱瘡が流行し、同村内の本渡水道に浮かぶ錦島(二色島)(現在は陸続き)へ小屋掛けし、病人を隔離したが、その後、この島の病人小屋について、本渡水道をはさんで島の対岸の天草上島の下浦村から楠浦村と本戸組大庄屋へ苦情が出され訴訟になった(図4)。
こうした無人島の利用は現代にも通じる問題である。今回紹介した五島や天草の無人島は地付きの島だったので、周囲の村の目もあり、その利用にあたっては当事者の村だけでなく周囲の村との合意形成が必要だった。無人島の利用に関する地域の習慣として、五島列島小値賀島近くの宇々島や瀬戸内海の二神島(ふたがみじま)近くの由利島などのような「属島」に、破産した村人を数年間にわたって農作業などに従事させ、更生する仕組みが存在したとされている。農村における「山あがり」という奥山に住まわせて更生する仕組みとも類似する。こうした地付きの島は前述の串島、祝言島、多郎島などと類似した無人島である。
近代以降においてハンセン病の隔離施設が瀬戸内海の小さな島におかれた歴史がある。島の使用に際しては、政府、自治体のトップダウンだけではなく、地元の意見を踏まえ検討することが大切であり、無人島の活用という点でも所有者だけではなく、関係する地域関係者との合意形成が不可欠である。現在でも鹿児島県の馬毛島(まげしま)の基地設置問題が話題になっている。日本列島には6,800余の島があり、そのうち無人島は6,400余であり、無人島の問題はもっと議論されるべきではないだろうか。新型コロナウイルスの問題が終息をみないなかで、海の向こうからやって来る人たちの水際対策や避難場所としての無人島利用に関する歴史的知見にさらに注目したい。(了)

図2 天保肥前国絵図に描かれた祝言島と串島 国立公文書館所蔵 図3 明治時代の串島の地図 伊藤家文書 図4 天保肥後国絵図 国立公文書館所蔵
  1. 【参考文献】橋村修2021「江戸時代における疫病の水際対策」秋道智彌・角南篤編『海とヒトの関係学4 疫病と海』西日本出版社、148-163頁
    桜田勝徳1948「困窮島」『水産』3-7『桜田勝徳著作集2巻』名著出版(1980年に再録)
    長嶋俊介2000「困窮島制度ならびに同類似制度の比較考察-宇宇島・大水無瀬島・小手島・由利島と類似制度―」島嶼研究1,15-34
ページトップ