Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第484号(2020.10.05発行)

追いつめられる海

[KEYWORDS]気候危機/動物由来感染症/ブルー・リカバリー
(株)共同通信社編集委員◆井田徹治

海水温の上昇や海洋酸性化、酸素濃度の減少やプラスチック汚染、漁業資源の減少など海の環境は人間活動によって多面的な危機に直面している。
現在の新型コロナウイルスによる危機も、自然環境の破壊が背景にあるという点で、気候危機や海洋環境の危機と同根である。
各国の巨額の復興投資を持続可能な海洋経済の実現のために投じ、ブルーでグリーンなリカバリーを実現するべきだ。

多面的な危機

西アフリカ・ギニアの海岸を埋め尽くす大量のプラスチックごみ(筆者撮影) モルディブの浸食された海岸に横たわる枯れたヤシの木(筆者撮影)

西アフリカ・ギニア、高級ホテルの前の美しい海岸を埋め尽くす大量のプラスチックごみ。モルディブの浸食された海岸に大砲のように横たわる枯れたヤシの木。壊れかけた木道の両側に粗末な家がびっしりと建つフィリピン・パラワン島のスラム近くで異臭を放つ海。環境問題をライフワークとする記者として、世界中のあちこちで、海に関わる深刻な環境破壊の姿をこの目で見てきた。絶滅危惧種となったクロマグロやサメ、産卵に適した砂浜や暗い夜を奪われたウミガメなど、消失が著しい海の生物多様性に関わる記事もいくつも書いてきた。
「海は人間活動の結果、さまざまな危機に直面している」。取材の中で得たこの思いをさらに確固たるものにしたのが、人間が大量に排出する温室効果ガスによって起こる海水温度の上昇や海洋酸性化によって、このままでは海の環境破壊はさらに深刻なものになると警告する「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が2019年に発表した『変化する気候下での海洋・雪氷圏に関する特別報告書(SROCC)』だった。
サンゴ礁などに甚大な被害をもたらす海の熱波が多発し、海洋酸性化や海水温度の変化がもたらす漁業資源の変化や減少が発展途上国に食料安全保障上の問題を引き起こす。海水温度の上昇は熱帯低気圧を強大化させ、上昇する海面が過去に例を見ないような高潮の原因ともなる。SROCCが描いて見せた海の将来像は、ショッキングとも言えるものだった。
2019年末、マドリードで開かれた気候変動枠組み条約の第25回締約国会議(COP25)は、議長国のチリの意向で気候危機と海の関連を主要テーマの一つとする「ブルーCOP」と呼ばれた。その場で注目されたものの一つは、国際自然保護連合(IUCN)が発表した、海の酸素濃度の減少に関する長大な報告書『Ocean Deoxygenation: everyone's problem』だった。海の酸素が少なくなり、生物が生きられなくなる貧酸素海域が、海洋汚染が深刻な沿岸域で多発していることは知られているが、温室効果ガスがもたらす海水温度の上昇によって海の成層化が進み、その結果、海水中の酸素濃度が低くなっていることはあまり知られていないだろう。
筆者が2020年4月『追いつめられる海』(岩波科学ライブラリー)を上梓したのは、深刻な割には陸上での環境破壊に比べて多くの人の目にとまらない海洋環境の危機に対する、社会の関心を高められればと思ってのことだった。気候危機、生物多様性の危機、プラスチック危機、漁業資源の危機……。人類社会は自らが引き起こした多面的な危機によって「存亡の危機」に立たされていると言っても過言ではない、との思いを込めたものだった。
その中で今、世界は新型コロナウイルスがもたらすパンデミックという、新たで重大な危機に直面している。拙著の刊行は、緊急事態宣言が発せられた翌日のことだった。COP25の会場となったマドリードの国際会議場が、約2カ月後には、多数の肺炎患者のベッドが所せましと並ぶ巨大な病院に姿を変えるなど、あの場にいた人々の誰が想像し得ただろうか。
だが、気候危機への警告と同様に、新型コロナウイルスに代表される動物由来感染症が多発し、パンデミックを引き起こすことへの警告は少なからず、われわれの前にあった。熱帯林の破壊や「ブッシュミート」と呼ばれる野生の獣肉消費の急拡大、野放図な野生生物の取引などが、過去には稀だった野生生物と人類の接触の機会を大幅に増やし、本来は野生生物とともにひっそりと過ごしていたウイルスや病原体が人間を宿主とするようになると、科学者によって指摘されて久しい。
人間と人間が食べるために飼育する家畜の数が増え続けた結果、地球上の哺乳類のバイオマスの60%を家畜が、36%を人間が占め、野生哺乳類はわずか4%でしかないとの研究結果が報告されている。急速に個体数を増やした動物の群れが、それに寄生する病原体やウイルスにとって格好の増殖の場となることは想像に難くない。
だが、科学者の警告は、海の危機や気候危機への警告と同様、世界の政策決定者の耳に響くことはなく、多くが無視されてきた。
やがて、ワクチンや特効薬の開発によって、人類は新型コロナウイルスがもたらす危機を乗り越えるかもしれない。だが、自然破壊という根本原因を放置している限り、人類は第二、第三の動物由来感染症のパンデミックに直面することになるだろう。今、多くの人の視野から一時的に消えているが、気候危機も海の危機も、プラスチックの危機も消え去ることはない。そして、人類が自然の生態系を破壊することで「豊か」になり、地球の許容力を超える規模の負荷を与えながら「便利な暮らし」を求めてきたという点で、動物由来感染症の危機も、海や気候の危機も同根だ。

千載一遇のチャンス

日本をはじめ多くの国で、パンデミックがもたらした不況からの復興のために巨額の公共投資がなされようとしている。そこで今、最もしてはいけないことは、元々あった世界を作り直すことだ。元々あった世界とは、人類の暮らしに不可欠な海を危機的な状況に追いつめ、気候危機や生物多様性の危機、食の危機を内在する世界であるからだ。だがもし、巨額の投資を適切に使えば、人類はこれまでとまったく違った社会づくりに向けた歩みを早めることができる。われわれは今、そのための千載一遇のチャンスを迎えている。
カナダのトルドー首相、ケニアのケニアッタ大統領、そして安倍晋三首相(当時)も加わる「持続可能な海洋経済に関するハイレベルパネル」は先ごろ、2兆ドルの規模で今、持続可能な海洋経済への投資を行えば、2050年にはそれによって得られる経済面、環境面、経済面での利益は10.3兆ドルとなり、5倍を超える投資効果があるとの報告書を発表した。報告書は、マングローブの保全と再生、洋上風力発電の拡大、海からの持続可能な食糧生産、海運の脱炭素化が中心分野となると指摘、ブルーでグリーンなリカバリー(復興)政策の重要性を強調した。
欧州などでは既にグリーンリカバリーは復興政策決定上のキーワードの一つとなり、さまざまな政策が打ち出されているのに対し、日本のこの面での議論は極めて遅れている。「単にパネルのメンバーに名を連ねただけだった」とのそしりを受けないためにも、日本政府が、ブルーでグリーンな復興政策の立案と実現に真剣に取り組むことを期待したい。(了)

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