Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第468号(2020.02.05発行)

微量元素・同位体を用いて海洋の現在と過去を解く

[KEYWORDS]微量分析/GEOTRACES/海洋断面観測
京都大学化学研究所教授、第12回海洋立国推進功労者表彰受賞◆宗林由樹

海洋は地球の生存可能性を支える重要なサブシステムである。
そのしくみを調べるために微量元素とその安定同位体は必須のアイテムとなった。
現在進行中の国際共同観測計画GEOTRACESは、微量元素とその同位体の海洋断面観測によって現代海洋の特徴をあきらかにしつつある。

国際共同観測計画GEOTRACES

海洋における化学物質の調査を目的とした最初の国際共同観測計画は1970年代のGEOSECS(大洋横断地球化学研究)である。この計画では数多くの航海を通して、窒素、リン、ケイ素などの栄養素元素、無機炭素や酸素分子、および放射性核種が定量され、海洋大循環の概念が確立された。しかし、当時の分析技術ではほとんどの微量元素を精確に定量することはできなかった。その後、海洋の微量元素の重要性が認識された。とくに鉄は広範な海域で光合成や窒素固定を制限するおもな因子であることがあきらかになった。分析技術の進歩を踏まえて2000年代に国際共同観測計画GEOTRACESが企画された(http://www.geotraces.org)。本計画は、世界の研究者が協力して重要な微量元素・同位体(キーパラメータはアルミニウム、マンガン、鉄、銅、亜鉛、カドミウム、鉛など)の全球的な分布と、環境変化に対する微量元素の応答をあきらかにすることを目的とする。GEOTRACES計画によって、外洋海水を用いた微量元素分析法の国際相互較正が初めて実現し、世界の海洋で海盆規模の鉛直断面観測が始まった。2017年8月にこれまでの成果をまとめた二つめのIntermediate Data Product(IDP2017)が公表された。データはGEOTRACES 計画のホームページからダウンロードできる。GEOTRACES 計画は今後3年おきに2回IDPを公表し、その3年後に最終とりまとめを行う予定である。

微量元素をいかに測るか

海水中の微量元素を分析するのは難しい。微量元素を分析するには、採水、前処理、測定という段階を踏まねばならない。これらすべての段階で目的元素の汚染混入(コンタミネーション)を防ぐ注意が必要である。海水中の主要成分は微量元素の測定に干渉するので、前処理において目的元素を分離濃縮しなければならない。精確な分析のためには、目的元素を定量的に捕集し(回収率95%以上)、主要成分を99.9%以上除去し、操作中にコンタミネーションを起こさず、かつ簡便な方法が必要である。私たちは新しいキレート樹脂(NOBIAS Chelate PA-1,(株)日立ハイテクノロジーズ製)に注目した。このキレート樹脂は、金属イオンを選択的に捕捉することができる。これを用いて世界で初めて海水中9元素(アルミニウム、マンガン、鉄、コバルト、ニッケル、銅、亜鉛、カドミウム、鉛)の一括定量法を実現した。この方法は分析化学の代表的な教科書に記述され、事実上の国際標準となった。さらに私たちは平沼産業(株)と協力して自動固相抽出装置SPE-100を開発し、分離濃縮の自動化に成功した。私たちは、この方法により、これまでにインド洋、ベーリング海、北極海、太平洋などの90測点で、さまざまな深度から採水された海水試料約1,500個を分析した(図1)。

■図1 (上)自動固相抽出装置SPE-100、(下)海洋観測採水システム(白鳳丸KH-12-4航海時)

海水の栄養バランス

海洋の生物生産の基礎をになう植物プランクトンは、おもな必須元素を一定の個数比で海水から取りこんで利用する。一般に植物プランクトン中では炭素:窒素:リン = 106 : 16 : 1という比が成り立つ。面白いことに、現代の海洋では深層水中の溶存態濃度にも窒素:リン = 16 : 1の比が成り立つ。よって、窒素とリンに富む深層水が表面に湧昇すると、植物プランクトンはこの両元素をあますところなく利用できる。同じように微量元素にも一定の比が成り立つのか? これは長年の議論の的であった。私たちは、インド洋と太平洋の深層水中のニッケル:リン、銅:リン、亜鉛:リン、カドミウム:リン比は植物プランクトン中の比とほぼ等しいことを見いだした。これらの微量元素については、植物プランクトンの必要量が深層水の湧昇によって供給されるといえる。しかし、深層水中のマンガン:リン、鉄:リン、コバルト:リン比は植物プランクトン中の比より2桁以上小さい。したがって、植物プランクトンが増殖するためには、深層水以外からのマンガン、鉄、コバルトの供給が欠かせない。例えば、世界でも指折りに生物生産が高いベーリング海東部の大陸棚海域では、マンガン、鉄、コバルト濃度が太平洋表面水の数十倍に達する。その供給源は北緯63 度に注ぐユーコン川である。ユーコン川上流の氷河が岩石を細かく砕くことによって、微量元素が効果的に輸送・溶解されると考えられる。もうひとつの供給源は大陸棚堆積物である。堆積物中で微生物が有機物を分解するためにマンガン還元を起こし、マンガンやコバルトを溶出させる。これらの過程によるマンガン、鉄、コバルトの大量供給がベーリング海大陸棚海域の高い生物生産を支えている。

海洋の鉛汚染

海洋化学の教科書では、溶存態アルミニウム、マンガン、コバルト、鉛は濃度が表層で高く底層で低いスキャベンジ(吸着除去)型分布をとると説明されていた。しかし、北太平洋ではこれら4元素はまったく異なる分布をとる。とくに鉛濃度は北緯35度、深さ200mに極大を示し、西から東に進むにつれて減少する(図2)。鉛はおもに人為起源である。人為起源エアロゾルは偏西風によって運ばれ、海洋に降下する(図3)。鉛はイオンとなって海水に溶解し、海水の混合によって亜表層に達する。海流によって運ばれるあいだに表面水中の鉛は粒子に吸着され除去される。その結果、亜表層極大が生じる。北大西洋西部のバミューダ諸島付近では、鉛の極大濃度は1979年の海水1kgあたり35ng(35 × 10–9g)から2008年の4ngまで減少した。これは米国や欧州で四エチル鉛のガソリンへの添加が廃止されたためと解釈されている。一方、中央北太平洋では1976年から2005年まで鉛の極大濃度は海水1kgあたり15〜17ngでほとんど変化しなかった。これは米国や日本からの四エチル鉛の供給は減ったが、かわって中国、ロシア、日本での石炭燃焼、高温製錬、ゴミ焼却などを起源とする鉛の供給が増えたためと考えられる。
以上述べたように微量元素は海洋生物生産の制限因子、物質循環のトレーサーとして重要である。人為起源の汚染は亜鉛、銅などでも起こっていると考えられるが、その解明は今後の課題である。さらに微量元素は古海洋の環境復元のプロクシ(手がかり)としても大きな可能性を秘めている。微量元素・同位体を用いる海洋研究は科学探偵の醍醐味にあふれている。(了)

■図2 (上)白鳳丸航海測点分布、(下)西経160度における溶存態鉛の断面分布(海洋表面から深さ1,200mまで)

■図3 人為起源鉛の供給経路の概念図

第468号(2020.02.05発行)のその他の記事

ページトップ