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オーシャンニューズレター

第418号(2018.01.05発行)

古代より継承される信仰 ~世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群~

[KEYWORDS]世界遺産/宗像・沖ノ島/信仰
海の道むなかた館 宗像市郷土文化課学習指導員◆鎌田隆徳

「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群は、2017年7月にユネスコ世界遺産として登録された。
これらは沖ノ島そのものを神として信仰する宗像地域の漁師をはじめ、地域の人々によって古代から守り伝えられてきた遺産群だ。
世界遺産となっても、これまでと変わることなく、この信仰を守り、次世代へと受け継いでいきたい。

宗像というところ

宗像(むなかた)は、福岡市と北九州市との中間に位置し、玄界灘に面した海・川・山ありの大変に自然豊かな地域である。古来より九州北部(日本)と朝鮮半島を結ぶ「海北道中」(『日本書紀』より)として大陸との交流の玄関口であり舞台となってきた。
宗像は、漢字からは「しゅうぞう」「そうぞう」と読まれ、「むなかた」とはすらりと読めない。宗像の地名語源については諸説あるが、一つには海が満潮時に内陸部に入り込み、干潮時には干潟が広がる。そうした自然環境の様子から水無潟(みなかた)を「むなかた」と呼ぶようになったこと。二つ目は『古事記』や『日本書紀』に記載された漢字「胸肩」「胸形」に関係する。また、北部九州沿岸にからだに文身(イレズミ)を施した海人がいた。つまり「むねにかた」は文身を意味し、この地域で暮らす胸に文身を施した海人たちのくらしの様子から呼ばれるようになったという※1
いずれにしろ、宗像という地名は、海を介しての自然、そしてそこで暮らす人々の様子から「むなかた」と呼ばれるようになったという「海」との強い関わりを示す地名である。

ユネスコ世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」

2017年7月9日(日)17時47分、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」について、文化庁より「第41回世界遺産委員会が8つの構成資産すべてを世界遺産一覧表に記載することを決定」という報道発表があった。日本国内では21番目の世界遺産(文化遺産として17番目)となったのである。
「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は、「沖ノ島を崇拝する文化的伝統が、古代東アジアにおける活発な対外交流が進んだ時期に発展し、海上の安全を願う生きた伝統と明白に関連し、今日まで継承された」ことを物語る物証として8つの構成資産からなる。その構成資産は、①沖ノ島(宗像大社沖津宮)、②小屋島、③御門柱、④天狗岩、⑤宗像大社沖津宮遥拝所(ようはいじょ)、⑥宗像大社中津宮、⑦宗像大社辺津宮、⑧新原奴山(しんばるぬやま)古墳群である。
『古事記』など日本神話にも登場する宗像大社は、天照大神と素戔嗚(スサノオ)尊の誓約(うけい)により誕生された宗像三女神(田心姫(たごりひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・市杵島姫(いちきしまひめ))をお祀りする古社で、沖ノ島(①沖津宮)に田心姫、大島の⑥中津宮に湍津姫、田島の⑦辺津宮に市杵島姫をそれぞれお祀りし、この三宮を総称して宗像大社と呼ぶ。②小屋島、③御門柱、④天狗岩は沖ノ島へ参拝する者が上陸する前に通る鳥居の役割をする。しかし沖ノ島への上陸は一部の神職のみに限られ、一般には大島の⑤沖津宮遥拝所から遠く仰ぎ見るしかなかった。⑧新原奴山古墳群は福津市北部の高台に位置し、この沖ノ島祭祀を担い、海を越えた交流に従事した古代豪族の宗像氏によって築かれたと言われる。
世界遺産登録への取り組みは2002年からはじまり、2009年に世界遺産暫定リストに記載された。2017年ICOMOS(国際記念物遺跡会議)からの当初の勧告では、沖ノ島と3つの岩礁(①②③④)のみが登録対象とされた。しかし最終的には日本が主張してきた「沖ノ島そのものを神と見なした古代自然信仰が形を変えて現在の宗像大社信仰につながっている世界に類のない文化的遺産である」ことが認められ、新原奴山古墳群までを含む8件すべての登録が決まったのである。
その決定に、地元は歓喜に沸いた。沖ノ島と宗像三宮については、宗像地域の人々は宗像の神として特別な思いを持っている。とくに漁師たちからは、豊漁もたらして下さるとともに、漁民の命を守って下さる「神様」として、今なお信仰され崇拝されてきているからである。

■世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群

「みあれ祭」─古代から継承されているまつり

御座船(ござせん:神がのる船)

宗像大社の秋季大祭として10月1日に行われている「みあれ祭」は、宗像地域の最大のまつりである。このまつりは、鎌倉時代に行われていたという「御長手神事(みながてしんじ)」(沖ノ島から船の舳先に長い竹に布を付けたものを掲げた神璽(しんじ)を神のしるしとして辺津宮に迎えていた神事)を参考にして、1962(昭和37)年に再興した神事である※2
「みあれ」とは、「御生まれ」であり、神が誕生・降臨することをいう。全国各地で「みあれ神事」は行われているが、宗像大社の「みあれ祭」は、宗像三女神が年に一度一堂に会するというもので、三姫が一緒になることによって新たな命を得、強い神に生まれかわるという意味がある。
この神事は、9月中頃、沖ノ島の田心姫を大島の湍津姫のところに迎え、さらに10月1日に二女神を田島の市杵島姫(辺津宮)のところに送り迎える。大島から神湊までの海上を宗像七浦(宗像地域にある大島、地島、鐘崎、神湊、勝浦、津屋崎、福間の7つの漁村)をあげて漁師が約200艘の船を繰り出し、海上神幸(海上パレード)を行う。漁師たちは皆、「みあれ祭」には参加・奉仕しようという思いが強く、その日は全てを「漁止め」として、毎年盛大な海上神幸が繰り広げられてきている。
沖ノ島では古代より航海の安全と対外交流の成功を願う祭祀がおこなわれてきた。途中、祭祀や神事が絶えてしまうことがあっても、形を変え、長い年月の間、大島をはじめ宗像の漁師たちは沖ノ島の神に祈りを捧げ、大切に守り、その信仰は継承されてきているのである。かつての私の教え子に、大島で父親の後を継いだ漁師がいる。彼の「沖ノ島の神には、毎日無事に漁ができていることへの感謝をしとると」という言葉から、現代に続く宗像の漁師たちの神に対する純粋な信仰を感じる。
鎌倉時代に行われていた「御長手神事」を再興して始まったとはいえ、50年以上も続く「みあれ祭」もまさに古代から時を超えて続く、神に対する信仰の継続なのである。なお、沖ノ島は女人禁制の島であり、女性は島に上がることはできない。また、まつり(みあれ祭等)の際は、女性は船に乗せない・乗らない。これに対して地元の女性たちは特に違和感を持つことなく、「女人禁制」をごく当たり前のこととし、守り続けてきているのである。漁師たちは親の代からそう教わり、代々伝えられてきているものであり、常に危険と隣り合わせで仕事をしている漁師にとっては、親から伝えられてきたことを守ること、それはまた神との約束ごとを堅く守ることなのである。

世界遺産となっても

「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群は、宗像地域の漁師をはじめ、地域の人々によって守り伝えられてきた遺産である。世界遺産に登録された今、これまでと変わることなく宗像地域の人びとによって守り、さらに次世代へと継承されていくのである。(了)

  1. ※1金関丈夫 1979「むなかた」『えとのす』12 : 34-35 頁
  2. ※2森弘子 2011「宗像大社の無形民俗文化財」世界遺産推進会議編 『宗像・沖ノ島と関連遺産群 研究報告 I』197-224 頁

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