海洋に関する情報発信

【Ocean Newsletter】バックナンバー

第216号(2009.08.05 発行)

海洋鉄肥沃化~現場実験による成果と国際情勢~

[KEYWORDS] 植物プランクトン/二酸化炭素/地球温暖化
東京大学 大学院農学生命科学研究科 准教授◆武田重信

南極海への鉄撒布による地球温暖化抑制の可能性が提案されて以来、現場海域では13回の鉄撒布実験が実施され、海洋植物プランクトン生産の鉄制限仮説の科学的検証が進められてきた。
得られた結果の多くは鉄撒布による海洋のCO2吸収効果が従来の予想よりも小さいことを示唆しているが、ベンチャー企業による鉄撒布計画も検討されており、国際的な管理体制の構築が進められている。

海洋の生物活動とCO2吸収

海洋は、人間活動によって大気中に増加しつつあるCO2を吸収し、急激な地球温暖化の進行を緩和する能力を持っている。その能力は、物理的な海水循環と、植物プランクトンなどの関与する生物地球化学的な物質循環に依存しており、それらは相互に作用しながら地球の炭素循環を駆動している。
海洋の生物的な炭素循環の起点となる植物プランクトンの光合成がスムーズに行われるためには、光量と栄養塩の供給が共に十分でなければならない。外洋表層で不足しやすい栄養塩はNとPであるが、南極海の沖合域では、表層水の硝酸塩とリン酸塩の濃度が十分高いにもかかわらず、周年にわたり植物プランクトンの現存量が低く抑えられており、海洋学の謎の一つとされてきた。その原因として、米国の海洋化学者John Martinは、表層水の溶存鉄濃度が著しく低いことを見出し、微量栄養素である鉄の欠乏によって植物プランクトンの増殖が制限されているとの仮説を提示した。このような海域は、高栄養塩・低クロロフィル(HNLC)海域と呼ばれ、太平洋赤道域、北太平洋亜寒帯域にも広がっていて、海洋全体の20%近くを占めている。
Martinの発見は、人間活動由来のCO2による地球温暖化の抑制対策に関する議論を大いに賑わせた。すなわち、HNLC海域に人為的に鉄を供給することによって植物プランクトンの光合成を促進できれば、海洋のCO2吸収能を高めることが可能になるとのアイデアは、低コストで大規模なCO2固定方策の一つとして取り上げられるようになった。

海洋に鉄を撒く

鉄による海洋生物生産とCO2吸収の制御に関する仮説を検証するには、物理環境の変動や食物連鎖の作用を含めたプランクトン生態系全体としての応答を調べることが不可欠になる。そこで、50~300km2に及ぶ自然海域に実際に鉄を撒布する、新しい開放型の実験が立案された。
この鉄撒布実験では、数千リットルの塩酸酸性の海水に硫酸鉄を溶解し、化学トレーサー(六フッ化イオウ)を含む海水と共に、航走する調査船の船尾からポンプとチューブを用いて対象となる海域に放出する。その後、化学トレーサー濃度を指標にして鉄撒布水塊の行方を追跡しながら、水塊の内外におけるプランクトン群集の増殖応答や化学成分の変化の違いを調べる。
HNLC海域では、1993年以降、図に示す12回の鉄撒布実験が実施された。このうち北太平洋亜寒帯域西部で実施されたSEEDS※とSEEDS-IIは、日本の研究者が中心となって実施したものである。その他に、大西洋の亜熱帯貧栄養海域において鉄とリンを同時に撒布する実験(FeEP,2004年)も行われた。

鉄撒布実験で分かったこと

多くの実験において、珪藻類を主体とする植物プランクトンの大規模な増殖と、表層水中の栄養塩やCO2濃度の顕著な減少、さらに有機物沈降量の増加が観測された。すなわち、HNLC海域では鉄の供給量が少ないために一次生産と海洋深層への炭素輸送が低く抑えられていることが、数週間スケールの生態系応答として確認された。しかし、植物プランクトンが生産した有機物のうち表層付近で分解するものの割合が大きかったことから、海洋のCO2吸収への寄与は当初の予想を下回ることも明らかになった。一方、同一海域で同じ季節に鉄を撒布しても、年によって応答の規模や生物群集の組成が異なるケースや、表面混合層が深いと植物プランクトン生物量はほとんど増加しないという結果も得られており、実験回数の増加に伴って、海洋生態系の持つ複雑な側面が浮かび上がってきたといえる。
2004年までに実施された鉄撒布実験の成果については、国際科学会議(ICSU)が主催する地球圏-生物圏国際協同研究計画(IGBP)のコアプロジェクトの一つである海洋・大気間の物質相互作用研究計画(SOLAS)が中心となって取りまとめ、国際誌Scienceの総説として2008年に公表された。また現在、海洋研究科学委員会(SCOR)のワーキンググループによって、鉄撒布実験データベースの構築と、それらの結果を反映した物理-生物モデルの構築が進められている。但し、短期的な鉄撒布実験の結果を南極海全体のような大きな時空間スケールにそのまま適用するのは問題があることから、それを補う研究として、黄砂の降下や島嶼・海台からの自然の鉄供給現象に対する海洋生態系の長期的な応答の観測も最近注目を集めている。

■海洋表層における硝酸塩濃度(μM)の分布と鉄撒布実験の実施海域

海洋表層における硝酸塩濃度(μM)の分布と鉄撒布実験の実施海域
太平洋の東部赤道域(IronEx-I, 1993年; IronEx-II, 1995年)、南極海のオーストラリア区(SOIREE, 1999年; SAGE, 2004年)、大西洋区(EisenEx, 2000年; EIFEX, 2004年; LOHAFEX, 2009年)、太平洋区(SOFEX-North, 2002年; SOFEX-South, 2002年)、北太平洋亜寒帯域の西部(SEEDS, 2001年; SEEDS-II, 2004年)、東部(SERIES, 2002年)、北大西洋亜熱帯の貧栄養海域(FeEP, 2004年)で計13回の実験が行われた。

商業的な海洋肥沃化行為の禁止

上記の科学研究とは別に、米国の複数のベンチャー企業によって、鉄撒布による海洋へのCO2吸収固定方策に関する特許の取得や、固定された炭素のカーボンクレジットとしての取扱いの検討が進められつつある。多くの海洋科学者は、鉄散布によるCO2吸収固定量の見積もりの難しさや、大規模な鉄撒布を実施した場合の生態系影響の不確実性について大きな懸念を示しているが、ベンチャー企業側では商業目的の鉄撒布実験計画の動きも見られるようになってきた。
このような状況の下、ロンドン議定書締約国会合において、鉄撒布のみならず海洋肥沃化全体を管理することの必要性が認識され、商業的な海洋肥沃化行為の禁止と、海洋肥沃化に関する科学研究の適切な管理が検討されることになった。当面の結論として、合法的な科学研究目的の海洋肥沃化については、現在作成中の評価フレームワークに沿って実施の可否をケースバイケースで判断すること、それ以外の肥沃化行為(養殖や人工魚礁は除く)はロンドン条約およびロンドン条約 96年議定書の目的に反するものであり、現在の知見下では許容されないことが、2008年に決議として採択された。これに伴って海洋投棄の対象物を規定する96年議定書附属書?の改正についても議論されている。
また、2008年の生物多様性条約締約国会議においても、沿岸域での小規模な科学調査研究を除く全ての海洋肥沃化行為について、リスク評価や制御機構に関する十分な科学的知見が得られるまでは禁止すべきとの決定がなされている。
いずれにしても、海洋における生態系スケールの現象を理解する上で、鉄撒布実験が重要な科学的知見を提供してきたことを考慮すると、科学目的の実験研究の性急な規制は好ましくないことから、国際社会における今後の動向を注視していく必要がある。それと同時に、海洋肥沃化のような地球工学的アプローチが地球システムに与えるインパクトに関しても、今まで以上に科学者側からの情報発信が求められる時代になってきたことを強く認識しなければならない。(了)

ページトップ