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オーシャンニュースレター

第519号(2022.03.20発行)

古代・中世の漁撈と沿岸環境

[KEYWORDS]漁撈活動の変遷/遺跡/沿岸環境変化
国学院大学神道文化学部神道文化学科教授◆笹生 衛

房総漁撈の変遷には気候変化による海浜の環境変化が密接に関係していた。
気候変化に伴い海浜に砂堤が形成されると、漁撈活動の拠点となる新たな集落が成立し、そのタイミングで、他地域、房総の場合は東海・近畿地方から漁撈民と先進的な漁撈技術が導入され、新たな魚介類の流通ルートが形成されてきた。
人間の漁撈活動は、海や海浜の自然環境との微妙なバランスの中で展開してきた。

古墳時代の漁撈

東京湾沿岸で、縄文時代とは異なった新たな漁撈の存在が明確になるのは、紀元後2世紀から3世紀、弥生時代末期から古墳時代初期である。その前段階として低地で弥生時代の集落が成立した。東京湾の東岸の主要な河川、小櫃川と小糸川の中・下流域では、弥生時代の中期(紀元前3世紀以降)、川沿いの低地で集落や方形周溝墓の墓域が成立、水田稲作の導入とともに人間の低地での積極的な活動が明確となる。この傾向は弥生時代後期(紀元後1・2世紀)に続き、河川の下流域で大規模な集落が発達した。これらの大集落は、古墳時代へ連続しない。三世紀を迎える頃に消滅に向かう。古墳時代の初期頃に河口付近の集落景観は大きく変化していた。この背景には、河川周辺の環境変化が考えられる。小櫃川・小糸川の中流域では、弥生時代後期頃に洪水が発生し、集落や水田、小河川が埋没している状況が認められる。
これに伴い、古墳時代の前期(3・4世紀)になると、海浜部で集落が規模を拡大させたり、新たに成立したりしていた。小糸川の河口付近の砂堤上、上野遺跡では、古墳時代前期に新たな集落が成立。ここでは古墳時代前期だけで72軒の竪穴建物が発見された。ここからは大きさ・重さが異なる複数の網の錘(土錘)が出土しており、新たな網漁が展開していたことが判明する。その背景には、出土土器の様相により、東海地方からの人の移動が関係していたと考えられる。

ヤマト王権と漁撈

6・7世紀、房総半島の先端では、東京湾奥とは異なる漁撈が展開した。房総半島の先端、南房総市の沢辺遺跡では、6世紀後半頃、岩礁の海岸に面して集落が成立、平安時代の9世紀まで存続した。この集落の北側、丘陵から水が流れ出る地点に、水を使う作業場と考えられる水場の遺構があり、ここからはまとまったカツオの骨が出土、近くからは骨製の擬餌鉤も出土した。カツオの擬餌鉤漁が行われていたようだ。
沢辺遺跡からは、もう一つ興味深い漁具が出土した。鹿角製のアワビオコシである。現在の海女のイソガネ同様、岩礁に取り付いたアワビを剥がすための道具である。この遺跡周辺の海域では、古墳時代後期、潜水によるアワビ漁が行われていた可能性が高い。
和歌山県の西庄遺跡では、5世紀代の大規模な製塩の遺構が確認され、擬餌鉤や網の錘が出土した。西庄遺跡の製塩は、ヤマト王権との結びつきが指摘されている。同じ西庄遺跡で行われた擬餌鉤漁など専門性の高い漁撈についても同様の背景を推定できる。共通した擬餌鉤が確認できる東京湾沿岸から南房総の漁撈は、西庄遺跡と同様の背景のなか、6世紀後半には新たに技術革新を行い、8世紀、奈良時代につながる素地を築いたのである。
これに先行する5世紀、海を生業の舞台とする海人集団が南房総に現れていた。その根拠となる遺跡が、千葉県館山市の大寺山洞穴である。ここでは、5世紀前半から7世紀前半にかけて埋葬が行われている。遺体を納める棺には、実用の丸木舟を転用した「舟棺」を使う。5世紀前半、南房総へとヤマト王権と直接つながる海人集団が新たに入り、6・7世紀にかけて定着していった。彼らは、東京湾岸で大型の曳き網漁を導入したり、南房総でカツオの擬餌鉤漁を始めたりする上で、大きな役割を果たしていた可能性は高い。

中世前期の漁撈と鎌倉

鎌倉時代になると、東京湾沿岸での漁撈活動が再び明確になる。その一例が千葉県館山市の長須賀条里制遺跡で発見された13世紀の屋敷跡である。この屋敷跡は、汐入川の河口付近、砂堤の後背低地内にあり、複数の掘立柱建物と井戸からなる。井戸内から出土した擬餌鉤の存在から、13・14世紀には、房総半島南部や三浦半島の沿岸では、ブリなど大型回遊魚を対象とした曳き釣り漁が行われていたと考えられる。
鎌倉幕府が開かれると、13世紀から14世紀、鎌倉は武士・庶民が集住する都市として発達した。その海岸部、由比ヶ浜周辺には、墓地が作られる一方で職人の工房や倉庫群が立ち並び、商工業地域としての役割をはたしていた。この由比ヶ浜中世集団墓地遺跡には、食物残滓として魚骨や貝殻が残されていた。鎌倉で多量に消費される海産物は三浦半島や房総半島から供給された。これらの地域では、擬餌鉤の大型化など漁撈技術の改良が行われていた。江戸に徳川幕府が開かれ、江戸が都市として発達すると、房総から海産物を供給する流通形態が成立する。その原形は、すでに13世紀、鎌倉への海産物の流通という形で準備されていたのである。

房総漁撈と気候変動

「降雨量変動の復元データ」では、9世紀後半から10世紀は、乾燥傾向が顕著な反面、極端な湿潤傾向となる年があり、気候変化の激しい時期に当たっている。『日本紀略』の10世紀の記録には平安京における旱魃と洪水の記事が多い。また平安京の発掘調査から、10世紀、鴨川の河床面は低下し、鴨川沿いに高さ2メートルほどの段丘崖が形成されたことが明らかにされている。
一方で、海浜部での砂の堆積は、新たな景観を作っていた。小糸川河口の砂の堆積は南西に伸び、富津洲を発達させた。この富津洲の根元の海浜に、14世紀までに「古戸の津」(港)が成立する。ここには「問」(水上輸送・倉庫・取引仲介業者)があり、房総から米や生活資材を金沢(横浜市)や鎌倉に輸送する上で重要な役割をはたした。小糸川河口付近の狐塚遺跡では、15世紀から17世紀に再び砂が堆積し砂堤が発達した。「降雨量変動の復元データ」で15・16世紀にみられる乾燥・湿潤の大きな変動と、17世紀の極端な湿潤期に対応すると考えられる。
房総半島の太平洋岸、九十九里浜では、縄文時代以来、繰り返し砂堤が形成されてきた。15・16世紀頃に狐塚遺跡と同様の現象が起き、海岸に近い砂堤が発達した可能性が考えられる。そこに江戸時代に展開したのが、イワシ地曳網漁の拠点となる納屋集落である。九十九里の地引網漁は、16世紀中頃の弘治年間、熊野浦出身の漁民が伝えたとされ、江戸時代には肥料となる干鰯の供給源として関西漁民により大規模に展開した。
房総漁撈の変遷には気候変化による海浜の環境変化が密接に関係していた。つまり、気候変化に伴い海浜に砂堤が形成されると、漁撈活動の拠点となる新たな集落が成立し、そのタイミングで、他地域、房総の場合は東海・近畿地方から漁撈民と先進的な漁撈技術が導入され、新たな魚介類の流通ルートが形成されてきた。人間の漁撈活動は、海や海浜の自然環境との微妙なバランスの中で展開している。地球規模の温暖化に人類が直面している現在、漁撈と気候変化との歴史的な関係性を、改めて確認しておく意義は大きいだろう。(了)

■主要遺跡位置図
「地理院タイル」(標高タイル)を加工して作成。東京湾内の海岸線は、陸軍迅速図を参考に修正を加えている。

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