Ocean Newsletter

【Ocean Newsletter】最新号

第491号(2021.1.20 発行)

カナダ先住民の疫病との戦い~北西海岸地域のハイダと極北地域のイヌイット~

[KEYWORDS]先住民/疫病対策/リスク管理
大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事◆岸上伸啓

カナダ先住民のハイダ人とイヌイット人は、これまでも外部社会から入ってきた疫病によって大きな人的・経済的・社会的・文化的被害を受け、時間をかけて彼らの社会を立て直したという歴史を持つ。
疫病と共生しながら生き残る方策模索の事例として、19世紀後半のハイダ社会と20世紀半ばのイヌイット社会における疫病の伝染とその社会文化的影響について比較紹介したい。

先住民の疫病との闘いの歴史

カナダ先住民のハイダ人とイヌイット人は、これまでも外部社会から入ってきた疫病によって大きな人的・経済的・社会的・文化的被害を受け、時間をかけて彼らの社会を立て直したという歴史を持つ。彼らの過去の共通点は、ヨーロッパ人との毛皮交易に深くかかわっていたことと、疫病が海路を通して外部社会からもたらされた点である。本稿では、疫病と共生しながら生き残る方策模索の事例として、19世紀後半のハイダ社会と20世紀半ばのイヌイット社会における疫病の伝染とその社会文化的影響について紹介し比較する。

ハイダ社会における天然痘の伝染

ハイダ人のスキドゲイト村の様子(2019年8月、著者撮影)

ことの発端は、1862年3月12日にサンフランシスコからビクトリア(ビクトリア植民地の砦の所在地)に到着した船舶ブラザー・ジョナサン号の乗船客の1人がカリフォルニアで大流行していた天然痘を持ち込んだことであった。同月にビクトリア近郊に滞在中の北西海岸先住民の間にも発症者が出始めたため、ビクトリアの警察官は、先住民のキャンプを焼き払い、病気にかかった先住民を含め全員に出身村へ帰ることを強制した。この処置が北西海岸地域全域に天然痘が広がる原因となった。1863年の時点で北西海岸全域の約30,000人の先住民のうち約60%が死亡し、各地で無人化や廃村化が起こった。ハイダ・グワイ(クィーン・シャーロット諸島)とプリンス・オブ・ウェールズ島のハイダ人の約70%が死亡し、総人口は約5,700人から約1,600人へと減少した。ハイダ・グワイにあった13村は20年後には7村になり、20世紀初頭には2村だけになった。スカン・グアイ島(旧称アンソニー島)のニンステンツ村も廃村となり、当時の10軒以上のレッド・シダーで作られた大型家屋と32本の巨大なトーテムポールが現在も朽ちた状態で残っている。
人口激減により村を維持できなくなったモレスビー島およびその周辺の島々のハイダ人は、グラハム島北部にあるオールド・マセットと同島南部にあるスキドゲイトに移住した。そこで他のハイダ人と合流し、新たなコミュニティを形成した。この2つの村にハイダ人が集結した主な理由は、ヨーロッパ人の侵入とカナダ政府の政策から団結して自分たちを守るためであった。
カナダ政府は1885年から1951年までポトラッチ儀礼の実施やトーテムポールの製作を禁止したり、1911年からはハイダ人の子どもを親元から切り離し、アルバータ州など遠隔地にある寄宿舎学校に強制的に送り、同化教育を実施したりした。その結果、ポトラッチなど儀礼に関連する知識や踊り、歌、口頭伝承、ならびに仮面など儀礼具やトーテムポールの製作技術の継承が難しくなるとともに、ハイダ語の話者も数少なくなった。
この状況が大きく変わるのは、カナダ政府が先住民を対象とした同化政策を取りやめた1950年代半ば以降である。天然痘の流行によって衰退したハイダ人の文化や社会の復興には、100年近くの年月を要した。

極北地域のイヌイット社会における結核の伝染

イヌイット人のアクリヴィク村の様子(2016年11月、筆者撮影)

結核は、カナダ極北地域で1940年代から1950年代にかけて蔓延し、カナダ政府が無視できない状況になった。1946年にカナダ政府は、セントローレンス河沿いにあるモントリオールから出港するナスコピ号に医師、看護師、看護助手、歯科医、エックス線技師を乗船させ派遣し、極北地域各地でイヌイットらにレントゲン検査を含む医療検診を開始した。1955年にカナダ政府の医師団はハドソン湾東岸のプヴィルニツックやイヌクジュアクでエックス線検査を実施した。当時、ケープ・スミス島近くで生活を営んでいたイヌイット約130人のうち約50人(約38%)が、プヴィルニツックでの検診で結核と判断され、カナダ南部の病院に搬送された。
カナダ政府が派遣した医療従事者とイヌイットとの間には大きな言葉の壁があった。イヌイットの結核患者は、船や飛行機でカナダ南部に到着した後、バスや電車で病院や療養施設に連れていかれた。目的地に着くと、風呂に入れられパジャマに着替えさせられた。生まれて初めて風呂に入ったイヌイットがほとんどで、困惑の連続であったという。また、シャワーや水洗トイレの使用も初めての体験であった。抗生物質による治療が可能になる以前の病院や療養施設では、イヌイットには特別な治療を施さなかった。イヌイットは、基本的に卵や牛乳などたんぱく質を多く含む食事を取り、野外で新鮮な空気に触れる時間以外は、ベッドの上で1日を過ごすことを強制された。極北地域の家族と交信手段が手紙以外にはなく、その手紙も5~7カ月ほどかかって、相手のもとに届いた。このため、入院中のイヌイットと極北地域の家族はおたがいに何が起こっているかをすぐに知ることができなかった。とくに、患者が死去した場合に正しい情報が極北地域の家族の元に届かないことも多かった。
極北地域に残されたイヌイットは、カナダ南部へと連れていかれた家族を待ちつつ、日常生活を続けた。彼らは、狩猟・漁労技術を継承し、イヌイット語を話し続けたため、社会や文化の深刻な衰退は起こらなかった。その一方で、医療・社会福祉においてイヌイットはカナダ政府に依存するようになり、カナダ国家の中に急速に統合されていった。
2010年代でも極北地域のイヌイットの住環境や栄養状態は良好とはいえず、結核の発症率はカナダの非先住民と比べると290倍以上である。イヌイットにとって結核は深刻な健康問題のひとつであり続けている。

疫病との闘いから共生へ

歴史的に見ると疫病の蔓延は、ハイダ人もイヌイット人の場合も人口や経済力、武力による抵抗力を低減させ、ヨーロッパ人の植民化を促進させた。そして彼らの国家への政治的統合や経済的依存が進んだ。一方、文化の継承については、両者の間に大きな違いが見られた。いずれにせよ、両先住民族とも深刻な疫病を乗り越えた。
ハイダ人もイヌイット人も今回のコロナ問題が広域化し、深刻化すると判断するやいなや、彼らのコミュニティに飛行機や船舶で入ってくる人を制限するとともに、医師や看護師、食料や生活必需品の運送業者ら以外の人々の立ち入りを禁止した。ハイダ人とイヌイット人は疫病問題を何度か乗り越えながら社会変化を体験してきたが、今回の状況が長期化すれば、彼らは再び生き方を大きく変えざるを得なくなるだろう。
疫病が歴史的に繰り返し流行し、ハイダ人やイヌイット人ら北アメリカ先住民の生存を脅かす限り、そして疫病が根絶されない限りは、疫病と闘うのではなく、いかにして共生しながら生き残るかを真剣に模索し続けなければならない。疫病に対するリスク管理は、食糧の安全保障とともにグローバル化時代の北アメリカ先住民が直面している喫緊の課題のひとつである。(了)

  1. ハイダ人=カナダ北西部のクィーン・シャーロット諸島と米国アラスカ州南東部に住み、主に漁労を生業とする先住民族
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