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オーシャンニュースレター

第442号(2019.01.05発行)

万葉集と海

[KEYWORDS]石見の海/有磯海/歴史的景観
高岡市万葉歴史館々長◆坂本信幸

万葉集には、海に関わる歌が多く詠まれている。
ただ単に海に関する語が多く歌われているだけではなく、万葉歌では海景がその抒情表現に大きく関わっている。
万葉集に歌われた地名は平安朝以降尊重され「歌枕」として伝えられ、海の景観の多くには重層的に文化が伝え残されている。
万葉の海景を大切にすることは、日本の文化を守ることでもある。

万葉集の海洋に関わる歌

万葉集には、海に関わる歌が多く詠まれていることをご存じだろうか。
万葉集の総歌数は、約4,500余首。その中、例えば
あり通(がよ)ふ 難波(なには)の宮は 近み 海人娘子(あまをとめ)らが 乗れる舟見ゆ(巻6・一〇六三)
のような単独語としての「海」の語は27例
大舟を 荒海(あるみ)に出(い)だし います君 障(つつむ)ことなく はや帰りませ(巻15・三五八二)
のような複合語としての「海」の語は、「大海」「海原」などの他に、固有地名「伊勢の海」「石見の海」「越の海」「難波の海」等々118例を数える。
そればかりではない。海の関連語である「浦」の単独語例は
時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな(巻6・九五八)
など18例、複合語としての「浦」は、
田子(たご)の浦ゆ うち出(い)でて見れば ま白にそ 富士の高嶺(たかね)に 雪は降りける(巻3・三一八)
などの固有地名も含めて128例を数える。その他にも、右に示すように海洋に関する語は枚挙にいとまが無いほど多い。
これに海の産物である「貝」は単独語・複合語合わせて19例、加えて「鰒」7例。「藻」は単独語・複合語合わせて71例、「藻」の類である「海松(みる)」が11例、「なのりそ」が16例、etc. 「魚」3例、「鰹」1例、「鯛」1例、「鮪」2例、「鯨」12例(すべて「鯨魚取り」という枕詞の例)、「鱸」3例、「鯯(つなし)」1例を加えると、さらに数は増える。

海洋と万葉の表現

ただ単に海に関する語が多く歌われているだけではない。万葉の海はその抒情表現に大きく関わっている。
万葉集中の恋歌の最高峰である柿本人麻呂の「石見相聞歌」では、下に示すように冒頭から荒涼たる石見の海景を叙述した上で、他人はよい浦もよい潟もないと見るだろうが、しかしながらそこには青々と美しく生える玉藻があると述べて、その玉藻のイメージを自分の妻に重ねることにより、玉藻のようになびき寄って共寝をした妻が人麻呂個人にとってかけがえのない女性であることを表現している。石見の海景が人麻呂の愛する妻に収斂されている。
挽歌においても、海景は大きな役割を果たしている。746(天平18)年に越中の国守として赴任していた大伴家持は、赴任して間もない秋9月に都から弟の逝去の知らせを受ける。
かからむと かねて知りせば 越(こし)の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを(巻17・三九五九)
この歌は、その折に家持が詠んだ挽歌であるが、ここに歌われた越中の海の荒磯、渋谿(しぶたに)の磯(富山県高岡市)は、海のない大和国で生まれ育った家持にとって強く心惹かれる景観であった。その清らかな海の景を、弟が死去する前に見せてあげたかったと嘆いたのである。海景が挽歌叙情の中心にある歌といえる。

石見の海(筆者撮影)

海洋と名勝

有磯海(筆者撮影)

その渋谿の景は、家持の歌によって後の世にも知られ、やがて平安期以降の歌人たちの万葉集享受の過程において固有地名としての歌枕「有磯海(ありそうみ)」を生んでゆくことになる。「歌枕」とは、和歌にしばしば詠み込まれる名所・旧跡をさす和歌用語であり、その地名は『能因歌枕』『五代集歌枕』『八雲御抄』などの歌学書に記されているが、ことには日本最古の歌集である万葉集に歌われた地名は尊重された。
2014(平成26)年3月、その「有磯海」が松尾芭蕉ゆかりの「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の文化財(名勝)に指定された。芭蕉の『おくのほそ道』の旅は、能因法師や西行といった旅の歌人の足跡を慕い、歌枕をたずねることにあった。その旅の途次越中国を訪れ、「わせの香(か)や 分(わ)け入(い)る右は 有磯海」の句を残したことが、有磯海の名勝指定につながったのだが、その淵源は万葉歌にあるのである。
万葉集に関わる海の景観によって国指定名勝となった場所は、他にも、1922(大正11)年3月に国指定名勝となった静岡県「三保松原」、1925(大正14)年10月に国指定名勝となった広島県「鞆公園」、2008(平成20)年11月に国指定名勝となった熊本県「不知火および水島」、2010(平成22)年8月に国指定名勝となった和歌山県「和歌の浦」、2014(平成26)年10月に国指定名勝となった長崎県「三井楽(みみらくのしま)」などがある。
それぞれ歌枕の地であり、万葉歌人に歌われ、平安朝の歌人に歌われ、近世俳人に詠み継がれ等々、歌枕の地には重層的に文化が伝え残されている。歌枕の地を大切にすることは、日本の文化を守ることでもある。
2009(平成21)年10月1日、広島県福山市の鞆の浦の埋め立て架橋計画をめぐる景観保全訴訟の判決が下され、地裁は原告の訴えを認め、鞆の浦の景観は文化的、歴史的価値を有する「国民の財産ともいうべき公益」であると免許差し止めを命じた。私はこれを機に瀬戸内海の文化について考えて見ようと、2010(平成22)年5月に「瀬戸内海文化を考える会」を設立、9月に第1回シンポジウム「万葉時代の瀬戸内海〜鞆の浦を考える〜」を鞆の浦公民館で開催した。爾来毎年開催し、2018年には第9回を迎えた。
この間、2012(平成24)年6月、広島県の湯崎英彦知事は架橋計画を中止する意向を固め、鞆の浦の歴史的景観は保全される見込みとなったのは喜ばしい。
海山の景観は古今に大きな変化はない。私たちは家持や芭蕉が眺めたとほぼ同じ有磯海の景観を今も目にすることができ、大伴旅人が歌った鞆の浦の美景を眺めることができるのである。(了)

  1. 琵琶湖を「海」という例や、琵琶湖や河川の「浦」や「磯」等々の例を除いた数である。

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