海洋に関する情報発信

【Ocean Newsletter】バックナンバー

第414号(2017.11.05 発行)

稲むらの火は世界津波の日へ繋がった

[KEYWORDS]津波/防災教育/濱口梧陵
稲むらの火の館館長◆崎山光一

11月5日の「津波防災の日」は、1854(安政元)年に発生した安政地震により大津波が和歌山県広村(現・和歌山県広川町)を襲った際に、濱口梧陵が稲むらに火をつけて、逃げ遅れていた住民たちを高台に避難させて命を救ったという『稲むらの火』の逸話にちなむ。
わが国の提案により、国連総会満場一致で11月5日は「世界津波の日」制定となった。
今後も稲むらの火の館では、津波犠牲者「ゼロ」を目ざして、『稲むらの火』の逸話を世界に向けて発信続けたい。

津波災害の報道をみて

2011(平成23)年3月11日、東北地方を巨大津波が襲ってきました。わが国で発生した大災害ということでショックを受けた方も多かったのではないでしょうか。私自身、テレビの前でずっと正座をしてこの津波の様子を見ていたことを思い出します。
災害は毎年起こっていますが、津波は何年か、あるいは何十年かに一度しか起らない。東日本大震災クラスは千年に一度と言われたものです。津波災害はどう継承すればよいのか悩むところです。『稲むらの火』は物語として津波防災を伝承しているのです。

稲むらの火と稲むらの火の館

稲むらの火の館全景。濱口家旧邸が広川町に寄付されて誕生した。

紀州の豪家濱口家は、本宅は広村(現、和歌山県有田郡広川町)にあったのですが、1600年代半ばから房総の銚子で醤油醸造業を営んでいました。『稲むらの火』の主人公、濱口梧陵(ごりょう)はヤマサ醤油(株)の7代目当主です。当時、当主は故郷広村と銚子の間を往来していました。濱口梧陵が広村に帰郷していた1854(安政元)年、安政地震・津波が起ったのです。その時、地震の後には津波が来るという言い伝えに従って、村人に高台である八幡神社への避難を呼びかけました。過去の災害を伝承したということです。
1896(明治29)年の明治三陸津波の被害報告を手にした小泉八雲がこの情報と幕末安政津波の紀州広村で起こったことをあわせて書き上げた物語が『A Living God(生ける神)』でした。その物語を読んだ小学校の先生が翻訳し、小学生にも分かるように書き改めたのが『稲むらの火』です。1937(昭和12)年から1947(昭和22)年まで小学国語読本に採用されました。
2007(平成19)年、「濱口梧陵記念館」と「津波防災教育センター」を併設した「稲むらの火の館」※1が開館しました。『稲むらの火』の物語を通じて、津波防災を啓発しようとするものですが、その中心には主人公濱口梧陵が存在しています。稲むらの火の館館内の展示物や映像、装置によって津波という災害を理解し、防災を身につけていただこうとするものです。2011(平成23)年の東日本大震災を目の当たりにした人々が、津波に無関心で居られなくなり大勢の見学者が見えました。同じ年から現在の教科書にも掲載され※2、小学生も教科の中で津波防災を学ぶことになりました。

津波からの復旧・復興

濱口梧陵築造の「広村堤防」(国指定史跡)

『稲むらの火』は、地震の後津波が来る、津波の時には高台へ避難をするということを物語化したものです。─ 避難誘導を促すために、庄屋の家のそばの「稲むら」に火をつけた。火事には村中総出で消火にあたる田舎の風習を逆手にとり、避難誘導をしようと考えた。それが素早く実行されたため、1,323人のうち97%が助かった。─ 実は濱口梧陵の真の活躍はここからが始まりです。
避難民の食糧の確保、仮設住宅の建設、ライフラインの復旧等緊急の課題解決を指揮・指導しただけではなく、費用のほとんどを梧陵自身が負担をしました。しかしそれでもまだ津波を心配する、生活に不安を覚えた村人の離村がはじまりました。このことは、広村では過去何度も繰り返されてきました。室町時代、畠山氏の城下町として栄え1,700戸の家並みであった広村は、豊臣氏の紀州征伐や度重なる津波によって、安政時代には340戸にまで減少していたのです。こうした状況を伝え聞いていた梧陵は、この村人の離村にはたいへんな危機感を覚えました。このまま放置しておけば、広村がなくなってしまう、という危機意識です。そこで考えだしたのが、堤防築造です。広村には、畠山氏が1400年頃に築造した「畠山堤防」、海岸から少し沖に紀州徳川家初代藩主徳川頼宣公(徳川家康第10男)の「和田の石堤」という防災のための堤防がありましたが、安政津波はこれらの堤防を越えてしまいました。
このことから梧陵は、次の津波に備える防災対策として畠山堤防の内側に大堤防築造を計画しました。しかし、工事費用は紀州藩に期待できなかったため、工事費は自己負担することを決断しました。同族のもう一軒の濱口家の応援もありました。この計画は紀州藩の認可を受ける必要があり、「築堤の工を起すは、住民百世の安堵を図る所以なり」と申請をしました。認可されるや、被災者を作業に雇い、日当は日銭で支払われたため、救済に大いに役立ちました。

濱口梧陵の行動が「世界津波の日」に繋がった

東日本大震災の後、津波からの復興や国民の津波防災への意識向上のために、『津波対策推進法』が制定され(2011年6月)、11月5日が「津波防災の日」と決められました。全国で、津波避難訓練や講演会等啓発活動が活発に実施されるようになりました。
2015年3月、仙台市において国連の第3回世界防災会議が開催され、日本政府からわが国の「津波防災の日」の11月5日を「世界津波の日」とするように提案されました。それから政府や国会議員有志が精力的に、各国に対して制定を働きかけました。こうした日本国の行動により、同年の第70回国連総会へは同調された142カ国により共同提案され、最終的には国連加盟国すべてが賛成するということで制定が決まりました。満場一致という結果は、全世界の国々も防災の必要性、重要性を感じた結果であろうと思います。
こうして、『稲むらの火』の11月5日が「世界津波の日」へと繋がったということになります。ただ、こうして「世界津波の日」の制定だけで満足するわけにはいきません。この趣旨を世界へアピールし、津波防災を推進するのはスタートラインに立ったばかりということです。昨年の11月5日には、第1回目の「世界津波の日」ということで、世界中で対策事業が行われました。日本とチリ等中南米各国共同訓練、インドネシアでは『稲むらの火』の物語を基本にこどもへの防災教育が行われ、また太平洋島嶼国の女性リーダーが研修に当館へ来館されました。

津波犠牲者「ゼロ」を目ざして

濱口梧陵を主人公とする『稲むらの火』は、「沿岸部は地震の後には津波が来る。津波という時には、すぐ逃げる、高台へ避難をする。高台のない国は、海岸から少しでも遠くへ避難する」ということを世界中で共有する物語です。わが国から、稲むら火の館から、「津波犠牲者「ゼロ」を目ざして」を発信続けます。(了)

  1. ※1稲むらの火の館 http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/
  2. ※22011年度より光村図書出版の小学5年生用教科書『国語 五 銀河』に、「百年後のふるさとを守る」のタイトルで河田惠昭氏(関西大特任教授、防災学者)執筆の濱口儀兵衛(梧陵)の伝記が掲載された。
ページトップ