Ocean Newsletter

オーシャンニュースレター

第398号(2017.03.05発行)

大震災から持続可能なまちづくりを目指して

[KEYWORDS]学ぶ防災/持続可能なまちづくり/地域文化の創出
宮古市議会議員◆橋本久夫

東日本大震災や台風10号からの復興に向かって、震災の歴史を「正しく伝える」努力を継続しながら、今後のまちづくりの中で地域文化の創出に取り組むことが重要である。
地域の歴史・文化は風土に根ざし、人々の暮らしと関わることで形づくられてきた。
社会の変化、災害からの復興の中で歴史の重層性を踏まえて、さらなる文化振興につなげていきたい。

はじめに

2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生し、私たちの想像をはるかに超えた東日本大震災を引き起こした。海岸部では、高さ10数メートルにも達する津波が押し寄せ、街を呑みこみ多くの命が失われた。港や埋立地は地震による液状化現象で大きく破壊され、防護のために築いていた堅牢な防潮堤や護岸の多くは破壊された。
津波は人々の生命や財産、生活文化だけでなく、地域で大切に保全してきた海辺の自然環境にも大きな影響をもたらした。
被災地はあれからまもなく6年目の春を迎えようとしている。今、被災地は人々の生活再建を中心に復旧復興に向けてさまざまな整備が進められている。そうした一方で昨年8月末に岩手県沿岸部を襲った台風10号は、河川流域を中心に海津波にも匹敵するような山津波が発生。甚大なる被害を被ったことで二重の再建、復旧を強いられることになった。それでも人々は明日への希望を見失わずに、時間をかけても必死に再建に向かっている。被災地の復興はまだまだ終わっていないことをどうかご理解願いたい。

台風10号の洪水で流された宮古市茂市地区の日陰橋

後世へ引き継ぐ我々のささやかな願い

三陸沿岸の復興は、多様な地域ごとの住民の要望を基本に、豊饒の海を持続させ、基幹産業である漁業や、あるいは観光産業などを振興の柱に進められるべきであろう。被災地の多くは海の恵みに支えられて文化を築きあげてきた。津波から命を守り、海と共に生きてゆくためには何が必要なのか。そのことも多面的に共に考えていかなければならないと思う。
大震災によっての地盤沈下の影響もあり、コンクリートの防潮堤整備によってかつての美しい砂浜がやせ細り、その姿が徐々に失われつつある。砂浜は、山から川、そして川から海へと供給される土砂により、数百年、数千年という長い年月をかけて形作られてきた。かつて宮古湾にも白砂青松の砂浜やあるいは干潟が広がっていた。私たちの子ども時代には、まだこのような砂浜が当たり前のように存在していた。今やそうした場所はほとんどなくなってしまった。
海岸には延々とコンクリートブロックが立ち並ぶ異様な風景が日常化してしまった現在、美しい海岸や砂浜を取り戻すための養浜事業も海と共に生きていくために多面的に考えるべき一つではないだろうか。
「森は海の恋人」に象徴される自然の摂理のもとに生きる三陸の"世界遺産的価値"を高め、世界がいっそう注目する方向こそ、次世代に送り届けるべき道であると考える。

この被災をどう記録に残し、伝えていくべきか

今回の大震災はさまざまな教訓を私たちにもたらしたと同時に、多くのことを気づかせてくれた。確かに今回の震災は二度と見たくない悲劇ではあった。しかしながら、その惨状はいつかは時間と共に風化し、忘れ去られていく。震災の歴史は、誰かが「正しく伝える」努力をしなければ本来、残らないものである。
宮古市ではそのための「学ぶ防災」のツアーを実施している。新たな震災遺構として津波被害にあった田老地区のホテルを残し、その災害の歴史を伝えている。ガイドさんたちは「何故、人は逃げないのか」と、災害に対する教訓をこの「学ぶ防災」で伝えている。箱モノやシステムを作るよりも、防波堤を高くすることよりも、一人ひとりの危機意識を目覚めさせ、心の防波堤を高くすることを教えてくれているのである。
「学ぶ防災」が誕生して5年になるが、これらのツーリズムは被災地への交流人口の拡大につながるもので、被災地にやってくる人が跡絶えないようにする、人がやってくることで被災地の元気にもつながっていく。そのことによって経済活動も活発化していくという期待も込められている。訪れた人たちにとっても被災地が復興する姿を学んでゆくことが、復興への足がかりになる機会につながってほしいと願うものである。
記憶の風化防止の一つに津波記念碑がある。昭和三陸津波においては、新聞社が募った義捐金の交付において、その一部を津波記念碑の建立にあてた。東日本大震災後の津波記念碑は、被災地を支援する各種慈善団体などによって建立された、津波到達地点を示す標石が見られる。新たに建てられた津波記念碑には、未来へ向けて子どもたちへの津波体験につなげようとするものも多い。新たな形の伝承でもある。

全国初の震災遺構・旧田老観光ホテル。学ぶ防災の重要な施設となっている。宮古金浜地区に建立された津波記念碑。住民たちによって建立され、教訓を伝え残している。

地域文化の創出を目指して

大震災からの復興に向かって、地域文化の創出というものも今後のまちづくりの中で重要となってくる。まちづくりの原点となるのは、まさにそのまちの文化という宝である。しかし、時代の変遷と共に多くの文化が失われつつある。さらにこの津波災害によって街並や形あるものは失われてしまい、人々の記憶の中にしか存在しないものもある。今後のまちづくりにおいては、宝として地域社会に培われてきたもの、蓄積されてきたものをもう一度探求し、きちんと確認、共有することから始めなければならないと考える。地域の歩んできた文化や歴史など、形として見えていなかったものを顕在化していくことが大事であろう。
その宝である文化の一つに「海のまち」の文化がある。鮭にまつわる歴史、先人たちが取り組んできた漁労文化、伝統風習、方言、南部藩の船の歴史と沖縄・多良間島との交流が生まれた漂流史などなど。さらに1745年に宮古人らのロシア漂流によって露日単語集が編集され、後にその子孫によって露日辞書『レクシコン』(1783年編集、ロシア科学アカデミーに納本)に繋がったことはあまり知られていない。漂流した乗組員たちの言葉が受け継がれ、当時のロシアで日本語を理解する辞書となった。それは岩手沿岸方言を反映していた。当時の日本語の方言を知る上でも貴重な文化資料である。そして明治維新の明暗を分けた近代初の洋式海戦である宮古海戦など後世に残すべき題材は少なくない。
地域の歴史・文化は風土に根ざし、人々の暮らしと関わることで形づくられてきた。社会の変化、災害からの復興の中で歴史の重層性を踏まえて、さらなる文化振興につなげていきたいものである。(了)

第398号(2017.03.05発行)のその他の記事

ページトップ