インド太平洋地域のディスインフォメーション研究シリーズ掲載のお知らせ
この度、IINA(国際情報ネットワーク分析)では、笹川平和財団プロジェクト「インド太平洋地域の偽情報研究会」(2021年度~)において同地域のディスインフォメーション情勢について進めてきた調査研究と議論の成果を「インド太平洋地域のディスインフォメーション研究シリーズ」として連載いたします。IINA読者のご理解のお役にたてば幸甚です。
1.はじめに
ディスインフォメーションは、当初、主として欧米において問題視され、対策が講じられてきた。またディスインフォメーションに対する世論や政府関係者の関心を喚起させたのも、2016年のアメリカ大統領選挙、同じく2016年に実施されたEU離脱の是非を問うイギリスの国民投票など、主として欧米における事案であった。
その後、ディスインフォメーションはグローバルな課題へと発展するようになり、インド太平洋地域諸国においてもディスインフォメーションが問題視され、政府や民間団体による対策が講じられるようになっている。ファクトチェックに関しても、2020年末に行った調査によるとファクトチェック団体や各種のファクトチェック・プロジェクトはアジア全域で100以上あり、その後もその数はさらに増えているという[1]。しかし、インド太平洋の国々におけるディスインフォメーションの実情と対策の多くは、必ずしも欧米におけるものとは同一ではない。また民主主義諸国の間でも、対策のフレームワークの足並みが揃っているわけではなく、日本では外国勢力による情報操作型のサイバー攻撃としてのディスインフォメーション、安全保障問題としてのディスインフォメーションという認識が広まっているとは言い難い[2]。
笹川平和財団のプロジェクト「インド太平洋地域の偽情報研究会」(2021年度~)では、インド太平洋地域諸国におけるディスインフォメーション対策について、調査研究と議論を進めてきた。本稿では、その成果を活用しながら、インド太平洋地域のディスインフォメーションの動向と特色について概観し、今後の日本においてどのような対策を行うべきかについて若干の考察を加えることとする。
2.インド太平洋地域におけるディスインフォメーション対策
各国におけるディスインフォメーション対策の詳細については、「インド太平洋地域の偽情報研究会」の成果をもとに国際情報ネットワーク分析IINAで公開されている「インド太平洋地域のディスインフォメーション研究シリーズ」の各記述に譲るが、研究会における議論をもとにすると、インド太平洋地域におけるディスインフォメーション対策の動向と特色は、次のように俯瞰・類型化することができると思われる。
第1に、欧米を中心とした民主主義諸国におけるディスインフォメーション対策が民主主義を守ることを目的としているのに対して、インド太平洋地域諸国のそれは、必ずしも民主主義が主眼には置かれていないことである。
インド太平洋地域諸国では、民主主義が定着しているとは言い難い場合が多く、形式的には選挙に基づく民主主義が採用されていても選挙における投票の秘密が守られていなかったり自由な投票が保障されていなかったりして、実態としては権威主義的政治が行われている国が少なくない。このため、インド太平洋地域諸国におけるディスインフォメーション対策は、権威主義体制や社会主義体制の擁護、国内体制の強固化という側面を有している。典型的な例はシンガポールであり、偽情報及び情報操作防止法(POFMA: Protection from Online Falsehoods and Manipulation Act)の制定によって国内における情報管理体制を強化した。なお海外からの世論介入については、外国介入対策法(FICA: Foreign Interference Countermeasures Act)を制定している[3]。
このため、ディスインフォメーション対策という名の下に政府による言論統制が行われる傾向にある。もともとインド太平洋地域諸国のほとんどの法制度において、通信の秘密に対する法的保護や政府による検閲の禁止に関する規定を欠く[4]。政府による検閲や、特定の情報発信源やSNS等へのアクセス遮断と組み合わされたディスインフォメーション対策は、国内法としては合法的な行為である。政府によるインターネットの遮断は、ディスインフォメーションと同様に民主主義に対する脅威として捉えられ、「デジタル権威主義」と呼ばれることもあるが[5]、インターネットの遮断自体はインターネットの草創期からみられる権威主義国家や独裁国家の施策である[6]。しかしその後、権威主義的国家によるインターネット遮断の例がふえていると指摘されており[7]、インドのように必ずしも権威主義国家とはいえない国もシャットダウンを実施している[8]。
このような国の多くはインターネット自体の公的管理や国家管理を志向する傾向があるので、さまざまなステークホルダーと協力してマルチステークホルダーにより対策を進めたり、政府と民間のステークホルダーが共同規制したりするという機運には乏しい。
また政府自身による世論誘導、世論統制を目的としたディスインフォメーションが行われる場合があるとみられる。さすがに政府自身がディスインフォメーションを公的に認めるケースはないのではないかと思われるので具体的な検証は困難であるが、政府による国内外向けプロバガンダとしてのディスインフォメーションは多くの研究者により指摘されている[9]。1990年代以降は民主主義が定着したとみられる韓国でも、政府機関によってフェイクニュースを用いたネット世論操作が行われているという指摘がある[10]。
第2に、ある種の資源ナショナリズムの再来ともいうべきデータローカル化の動きとの連動がみられることである。世界的に先進国における少子高齢化が進む中で、多くの人口を抱えるインド太平洋の国々は、SNSその他のインターネットビジネスのユーザーとしての国民がある種の「資源」になっている。このため、この「資源」を活用すべく、インド太平洋の国々の多くがデータローカル化を義務付ける法律を制定し、個人情報・個人データの越境に対して規制を強化しており、近年は個人情報・個人データだけではなく、IoT機器類から収集されるデータや各種のセンサーから収集される気候データ、工作物の機械的・電磁気的・熱的・音響的・化学的性質その他のデータその他にも規制範囲を拡大しつつある[11]。その際、欧米のSNS事業者に対して、データの越境を認める条件としてデータの国内サーバへの保存と政府によるアクセス(ガバメント・アクセス)[12]を求めるだけではなく、検閲への協力[13]、有害情報の意図的な放置や特定情報の流通の増幅への協力[14]を求めている場合もあることが観察されている。
第3に、発展途上国においては選挙自体の治安維持のためにディスインフォメーション対策が行われる場合があることである。途上国では、選挙に階層対立や社会的集団間の対立が投影され選挙の結果次第で利害関係に大きな影響が生じると共に、選挙は一般庶民にとって権力者に対して民意を自由に表出する数少ない機会であるため、選挙が文字通りの選挙戦となり、投票所を襲撃したり候補者を殺害したりするという場面もみられる[15]。このため各国は選挙の治安対策に腐心しているが、このような国々ではディスインフォメーション対策には選挙の治安対策という面もある[16]。インド太平洋地域諸国では選挙の際に死者が出ることは珍しい現象ではなく、仏教国として知られるタイですら、選挙における争闘を防止することも目的として、投票日の前日と当日には酒類の販売や飲食店等における提供を禁じている[17]。
ディスインフォメーション対策が選挙における争闘防止という側面も有した例として挙げられるのは、2019年インドネシア大統領選挙の際のSNS規制やサイトブロック、インターネット遮断である。インドネシア政府は、「オンライン上のデマやネガティブなコンテンツの回避・排除を目的として」サイトブロックやSNSへのアクセスのブロック、インターネット遮断等を行っていることを認めている[18]。2019年大統領選挙の場合、選挙の後に暴動が発生したため、2019年5月にインドネシア政府はInstagram、WhatsAppの利用を一部制限するブロッキングを実施した。その際、政治的・法的・セキュリティ問題調整担当相のウィラント大臣(元インドネシア国軍参謀総長・陸軍大将)は、「当面の間、さらなる挑発やフェイクニュースの拡散を避けるため、SNSへのアクセスを制限し、一部の機能を停止する」と記者会見で述べている[19]。
アクセスのブロック、インターネット遮断等は好ましいことではないが、国情によっては、自由で公正かつ安全な選挙を行うためのやむを得ないディスインフォメーション対策となる場合があることも理解すべきであろう。
インド太平洋地域のディスインフォメーション研究シリーズ論考一覧
- 長迫智子「オーストラリアはディスインフォメーション(偽情報)にどう対処しているのか?」2022年5月19日。
- 鍛治本正人「偽情報対策としてのファクトチェックの有効性と限界(前編)―アジア地域における選挙をめぐる取り組み―」2022年7月5日。
- 鍛治本正人「偽情報対策としてのファクトチェックの有効性と限界(後編)―事例からみる選挙および政治的混乱に際しての傾向と課題―」2022年7月11日。
- 成原慧「インド太平洋地域におけるディスインフォメーションの流通とその対策―米国政府とプラットフォーム事業者による対策に着目して―」2022年12月5日。
- 古賀慶「シンガポールにおける「偽情報・誤情報」対策: POFMAとFICA」2023年3月2日。
- 水谷瑛嗣郎「韓国のフェイクニュース対策(上):日本とは様相が異なる韓国の現状」2023年5月29日。
- 水谷瑛嗣郎「韓国のフェイクニュース対策(中):韓国における言論法制度と対策の現状」2023年5月31日。
- 水谷瑛嗣郎「韓国のフェイクニュース対策(下):対策が及ばないプラットフォーム依存とアテンション・エコノミー」2023年6月1日。
(2023/09/26)
脚注
- 1 鍛治本正人「偽情報対策としてのファクトチェックの有効性と限界(後編) ―事例からみる選挙および政治的混乱に際しての傾向と課題―」国際情報ネットワーク分析IINA、2022年7月11日。
- 2 長迫智子「今日の世界における「ディスインフォメーション」の動向――“Fake News”から”Disinformation”へ」国際情報ネットワーク分析IINA、2021年2月15日。
- 3 古賀慶「シンガポールにおける「偽情報・誤情報」対策: POFMAとFICA」国際情報ネットワーク分析IINA、2023年3月2日。
- 4 各国の通信の秘密に関するものとして「インターネットと通信の秘密」研究会「インターネット時代の「通信の秘密」再考:Rethinking‘Secrecy of Communications’ 」(2013年)参照。 またアジア各国の状況については、Deep Pal, “China’s Influence in South Asia: Vulnerabilities and Resilience in Four Countries”, 2021.
- 5 “The Return of Digital Authoritarianism: Internet shutdowns in 2021,” #KeeoItOn, Access Now, April 28, 2022.
- 6 山本達也『アラブ諸国の情報統制』慶應義塾大学出版会、2008年などを参照。
- 7 Philip N. Howard, Sheetal D. Agarwal, and Muzammil M. Hussain, “The Dictators’ Digital Dilemma: When Do States Disconnect Their Digital Networks?,” Issues in Technology Innovation, No.13, The Center for Technology Innovation at Brookings, October, 2011.
- 8 #KeepItOn, op.cit., p.4.
- 9 Thung-Hong Lin, Min-Chiao Chang, Chun-Chih Chang, and Ya-Hsuan Chou, “Government-sponsored disinformation and the severity of respiratory infection epidemics including COVID-19: A global analysis, 2001–2020,” Soc Sci Med, vol.296, March, 2022, pp.2-4.
- 10 水谷瑛嗣郎「韓国のフェイクニュース対策(上):日本とは様相が異なる韓国の現状」国際情報ネットワーク分析IINA、2023年5月29日。
- 11 経済産業省「データの越境移転に関する研究会報告書」2022年。
- 12 国際経済連携推進センター編『ガバメントアクセスと通商ルール: 民間データへのアクセスの在り方』産業能率大学出版部、2022年などを参照。
- 13 Vasilis Ververis, Sophia Marguel, and Benjamin Fabian, “Cross-Country Comparison of Internet Censorship: A Literature Review”, POLICY & INTERNET, Vol. 12, Issue4, December11, 2019, pp. 453-470.
- 14 「(フェイスブック 内部告発の衝撃)有害投稿、インドで横行 イスラム教徒を標的、削除されず」『朝日新聞』2022年2月20日など。
- 15 Jeff Fischer, “Electoral Conflict and Viplence: A Strategy for Study and Prevention”, IFES White Papers, The International Foundation for Electoral Systems, February 4, 2002.
- 16 たとえばパキスタンでは、2018年7月に総選挙と州議会選挙が行われた際、候補者を狙った爆発が相次ぎ、合計して100人以上が死亡している。Saeed Shah and Bill Spindle, “Pakistan Election Day Bombing Kills at Least 30,” The Wall Street Journal, July 25, 2018; Adam Withnall, “Pakistan election attack: Isis claims huge suicide bombing at Quetta polling station,” INDEPENDENT, July 25, 2018.
- 17 Anthony Volk, “Voice and the Thai Referendum”, Harvard International Review, September 22, 2016. なお投票日の前や当日に有権者に対して飲食を提供すること自体は各国で見られる現象であり、現在でも禁じられていない国もある。日本の公職選挙法では、「休憩所その他これに類似する設備は、選挙運動のため設けることができない。」としているが(第133条)、有権者への饗応は長年の問題であった。季武嘉也『選挙違反の歴史』吉川弘文館、2007年、83頁などを参照。
- 18 Agus Tri Haryanto, “Operator Seluler Dukung Penuh Nyepi Tanpa Internetan di Bali,” KOMINFO, March 6, 2019.
- 19 記者会見の模様は、CNNインドネシアのTwitter等で公開されている。