インド太平洋地域のディスインフォメーション研究シリーズ掲載のお知らせ
この度、IINA(国際情報ネットワーク分析)では、笹川平和財団プロジェクト「インド太平洋地域の偽情報研究会」(2021年度~)において同地域のディスインフォメーション情勢について進めてきた調査研究と議論の成果を「インド太平洋地域のディスインフォメーション研究シリーズ」として連載いたします。IINA読者のご理解のお役にたてば幸甚です。
1.はじめに
東南アジアの要衝に位置するシンガポールは、国力が周辺国に比べ極めて小規模であるため、国家の安全や存続を当然視すること避け、常に国民にその脆弱性を訴え続けてきている。インドネシアやマレーシアといった地域大国に囲まれ、大国間紛争に常に巻き込まれてきた歴史的経緯を踏まえると、その認識は、経済的発展を徹底的に追求する姿勢や、域内における圧倒的な軍事費を以て最先端の軍事技術・装備の獲得を目指すその姿勢に強く表れている[1]。しかし、このような厳しい国際環境を生き延びる上で最重要条件は、国内政治の安定にある。これは、メディアの社会・政治言説等を厳しくチェックしている日々の情報管理についても同様のことが言える。
それでは、シンガポールは国内安定を脅かしかねない「偽情報・誤情報」を、いかに管理してきているのだろうか。本稿では「偽情報・誤情報」におけるシンガポールの対応と目的を概観し、その管理体制について分析を行う[2]。具体的には、シンガポール政府は偽情報及び情報操作防止法(POFMA: Protection from Online Falsehoods and Manipulation Act)と外国介入対策法(FICA: Foreign Interference Countermeasures Act)に焦点を当てて、シンガポールの社会的・政治的な背景および国際関係の観点からその設立過程や目的を浮彫にする。その後、シンガポールが確立しつつある対「偽情報・誤情報」体制と日本や欧米等の民主主義国家との親和性について論じることとする。
2.「偽情報・誤情報」におけるシンガポールの対応と目的
2016年、アメリカの大統領選においてトランプ政権が誕生するきっかけともなった情報操作による選挙干渉が行われて以降、国際社会において偽情報・誤情報への関心が高まり、シンガポールの情報管理体制も再考されるようになった[3]。それは、FacebookやTwitter、そしてInstagramといったソーシャルネットワーク(SNS)をとおして国民が触れる情報の絶対的量が増していくにつれ、偽情報・誤情報の割合も高くなり、国内不安を煽るような情報を政府がいかに管理していくかを問うものであった。また、そのような情報の完全な排除というものはインターネットそのものへ大きな規制をかけることにつながりかねないため、法律によって偽情報・誤情報を予防・抑止していく最適解を見つけることが大きな目標となった。
これら情報管理政策は、シンガポール社会における不安定要因が深く関連している。シンガポールは中華系(約75%)、マレー系(15%)、インド系(約10%)を含む多民族国家である一方、仏教(約30%)、キリスト教(約20%)、イスラム教(約15%)、道教(約10%)、ヒンドゥ教(約5%)の多宗教国家でもある。様々な面で多様性が存在するということは、常に「マイノリティー」が存在しており、社会不満をいかに分散させていくかが為政者にとって重要な課題となっている[4]。そのため、偽情報・誤情報は民族対立・宗教対立を煽り、大きな社会不安を生み出すきっかけとなる[5]。
さらに、シンガポールは「実力主義」の国家として、実力(「学力」等)があれば国家の要職に就くことができる平等な社会という印象を持つが、近年は経済格差が新たな社会問題を発生させてきている。1965年以降の国家建設に携わった世代をシンガポールでは「パイオニア・ジェネレーション」と呼んでおり、その時代はエリートが少人数であったため、多くの国民が同じスタート地点から実力ベースで国家の要職に就いていった。しかし経済発展によって貧富の格差が生まれると、よい教育環境を享受できる人々は経済力が高い家庭に偏ることになった。これではもはや同じスタート地点に立ち実力主義で公平な社会進出ができる時代ではなくなっている、と警鐘を鳴らす専門家、学者、政治家も増えてきた[6]。このような社会的分断の芽に対して、偽情報・誤情報は社会不安を煽る一因となる。
このような多様性は政治・思想においても高まりつつあり、一党支配してきていた「人民行動党」(PAP)の政治基盤にも影響を及ぼしている。PAPはリー・クアンユー初代首相が設立・牽引してきた政党であり、同党が現在のシンガポールを確立してきたと言っても過言ではない。建国以来、PAPは権力を集中させ政治的安定を確保するとともに、経済発展に力を注いできた。結果として、国家議席の約80-90%を占めていたが、上記の社会問題の対応等を巡って近年は選挙において野党が善戦するようになっており、得票率が下降気味となっている[7]。
1) POFMAの成立(2019年)
このような時代の趨勢を背景に、シンガポール政府は2017年、POFMAの是非に関する議論を活発化させた。特に、前述したSNSの普及によって出現したStates Times Reviewといった独立メディアが事実関係の確認をせずにニュースを流布し、世論に影響力を持ちだしたことがきっかけにもなった[8]。POFMAは2019年10月に施行されることになったが、その内容は下記の4点に要約することができる[9]。
- (1) 偽情報・誤情報を流布したSNSプラットフォームやメディア媒体への「訂正」要求を行うことが基本としているが、悪用された際にはプラットフォームの使用停止や無効命令も行うことができる。
- (2) 「公共」(Public Interest)に関わる情報に適応される。
- (3) 「虚偽」(false)や「誤解を招く」(misleading)情報において適応され、そこではその情報の流布が故意か過失かは問われない。
- (4) POFMAの判断基準は、迅速な対応を可能とさせるために閣僚(法相)に委ねられる。
この中で最も議論を巻き起こしたのは(4)の判断基準である。どのような情報が偽情報・誤情報であるかという点を閣僚に委ねるということは、任意の判断となってしまうため、政治利用される可能性が高くなる。この点は、特にシンガポールの学者の間で議論された。新事実の発見、あるいは「事実」の解釈について歴史的な流れから理解しようとする研究者たちの言論の空間を制限してしまうという懸念が強く存在していたためであった。例えば、「シンガポールは実力主義(学力主義)を徹底しており、試験制度は国民全員に平等な機会を与えている」といった社会通念があったとする[10]。しかし、前述したとおり経済格差によってそのような機会を生かす環境が整えられていなければ、試験制度のシステム自体に変化がなくとも「実力主義の社会」という前提は崩れることになる。政府がこの点に気づかない(または認めない)場合、実力主義を支える試験制度を否定するような言説は誤情報や偽情報と認識されてしまう[11]。これに対し政府は、「常識の範囲内」で適応することを強調し、学術的な議論に関してはなんら制限を設けることはないと主張したが、このリスクは存在している。
ただ、2022年9月現在までのPOFMAの適用を見る限り、政府は極めて慎重な姿勢を取っていることが分かる。2019年11月から2022年9月までに39回POFMAが適用されているが、ここでは明確な虚偽情報(例えば、2021年11月、「コロナにおけるオミクロン株は、HIVと混合されると空気感染可能なHIVが生成されてしまう」といった野党ゴー・メン・セン議員のfacebook上による発言など)が対象となり、20回はコロナ関連となっている[12]。コロナ禍における偽情報・誤情報の流布が多くあるため、コロナ情報を中心に適用されているといえる。
以上のようにPOFMAは国内向けに整備された法であり、海外からの「影響工作」(influence operations)対策とは考えられていない。しかし、国内の情報管理を強化することによって、海外からの影響工作に対する脆弱性を弱めることにもつながることから、POFMAは影響工作に効力がないというわけではない。
2) FICAの成立(2020年)
シンガポールにおける影響工作に関する懸念は2010年代後半より高まっており、新聞の社説や学者の講演等の主要テーマとして扱われるようになってきた。特に元シンガポール外務次官のビラハリ・カウシカンが同テーマを中心に、中国の影響工作に対する懸念を公然と表明したことからも、政府が取りかかる懸案事項の一つとして考えられてきている[13]。その中で成立したのがFICAで、その目的は海外からの干渉及びスパイ活動防止である。
POFMAが国内不安要素に対する法整備であるならば、FICAは国際的な不安要素に対応する法律と捉えることができる。FICAはシンガポールが抱える外交上の不安定要因、特に「脆弱性」の自己認識と「中立性」の原則が深く関係してきている[14]。「脆弱性」とは、シンガポールは人口、国土面積、天然資源が極めて小規模であることだが、それと同時に、商業海路の要であるマラッカ・シンガポール海峡に位置しており近隣大国からの干渉の可能性が高いため、外交原則として「中立性」を維持することを信条としている。
大国がシンガポールに戦略的価値を見出していることは、既述した地政学的に重要な位置に存在していることに加え、小国ゆえに大きな脅威にならない点、現在では金融都市としてグローバル経済に貢献している点が挙げられる。シンガポールの国内情勢の不安定化は、地域政治や国際経済の不安定化も招いてしまい、域内外の大国の介入を呼び込む可能性もあるため、大国もそのような状況は望んでいない。つまり、シンガポールの政治不安を煽るような影響工作は大国にとっても得策ではないのである。そのため、どちらかといえばシンガポールに対する影響工作は、多言語国家ということを利用し、例えば中国語をとおして一定のイデオロギーを主張することによって中立性を切り崩し、自国との友好関係に傾斜させていくことに重きを置いていると考えられている。
FICAの成立は、特に二つの影響力工作に関連する事例がきっかけとなったと考えられている。一つは、2017年8月にシンガポール政府より「外国勢力のエージェント」として国外退去された黄靖(Huang Jing)の事例である。黄は、シンガポール国立大学リークアンユー公共政策大学院の教授として招かれたが、シンガポールの政策決定者に対して影響行使を行ったとして追放された。その「外国勢力」がどの国家を示しているかについては公式にされていないが、中国が影響を行使したと言われている[15]。もう一つは、同じくシンガポール国立大学リークアンユー公共政策大学院の博士課程に在籍していた楊俊偉(Dickson Yeo)が中国人民解放軍のスパイとして、アメリカで活動を行い、2019年に逮捕された事例である。2015年より学会を通じて知り合った人民解放軍のエージェントにリクルートされ、アメリカ軍の情報を得るためLinked-Inをとおして退役軍人を雇い、情報を得ていたとされる[16]。シンガポールに直接の被害はなかったものの、これはシンガポール人が他国のエージェントとして活動してしまう先例を作ってしまうこととなった。
このようなことを背景に、FICAは2021年10月に議会によって可決された[17]。FICAの要点は、下記の三点に集約することができる。
- (1) シンガポール国内政治において敵意のある外交主体による政治的重要人物(PSPs: Politically Significant Persons)に対する影響工作(隠密工作、情報操作等)への対抗を目的としている。
- (2) 「政治目的」が確認され、「公益」に関わる緊急事態と考えられた場合に適用される。
- (3) 判断基準は、内務省等の権限を持つ主体(the Authority)に委ねられる。
FICAはシンガポール人に対しては適応されることがないため、POFMAほどの議論が国内では起こっていない。しかし、判断基準がPOFMAと同じく曖昧であり、任意に適用される危険性がある。特に大学や研究所に所属している外国人教員が、シンガポール政治に関する発言を行う際、その発言が発端となり社会的あるいは法的な問題になる可能性を恐れ、極力発言を避けてしまうといった「自己検閲」を行ってしまうなど、自由な議論を制限してしまうことが懸念されている。また、シンガポール人の研究者も、国際共同研究を行う際に海外協力者が共同研究の参加を拒む可能性についても懸念していた[18]。政府の回答としては、FICAはあくまで「悪意を持つ外国主体」を対象としているため、研究員や学者が懸念する必要はないとは述べているものの、新たな法律ゆえに先例はなく、懸念は引き続き存在している。
3.おわりに:シンガポールの今後の情報管理体制に関する考察
シンガポール政府は近年、自国の社会不安や政治不安を煽るような情報を抑止、予防するため新たな法律、すなわちPOFMAやFICAを成立させてきた。国内の情報管理体制に関しては、外国人のシンガポールの政治活動を行うことに対して就労パスの停止など、以前から様々な方策を講じてきた。新たな法律は管理の手段を多角化させるためにある。
しかし、これらの法律が他国に対するモデルになり得るかという点においては、大きな疑問が残る。一つ目の理由は、法律の判断基準に曖昧性が存在していると同時に、政府に対するチェック機能が欠けているためである。法相や内務相といった閣僚の判断に任せることは法適用の判断が属人的になってしまう。二つ目は、有事にこれらの法律が政府側に有利に利用されるリスクがあるためである。理論上、「公共性」「公益性」の解釈を拡大すれば、適用範囲を広げ言論統制を進めることができる。このような行為に対するチェック機能は、裁判所に委ねられることになるが、司法プロセスの公平性が担保できるかが重要となる[19]。つまり、POFMAやFICAはシンガポールの社会・政治制度を基礎に確立されているため、いわゆる欧米型の民主主義国家へそのまま適用することは困難であると考えられる。
今後シンガポールは、米中関係の悪化といった国際政治状況の激しい変化に伴い、情報工作や影響工作も増加するとも考えられ、国家の統制も強化されより厳しいものに変わっていく可能性がある。それに対し、現在は「Academia SG」[20]等のウェブサイトが立ち上がり、小規模ながら国家権力の巨大化を市民社会側からチェックするための運動が見られるようになってきた。このような市民側からの活動は、欧米的民主主義と価値が重なり親和性が高まるが、政府が社会不安につながると判断した場合、簡単に看過するとは考えにくい。ただ、今後もこのような社会的変化が続くと考えられているため、シンガポールの情報管理の発展については今後も注視していく必要があるだろう。
(2023/03/02)
脚注
- 1 Ang Guan Teo, Kei Koga, “Conceptualizing equidistant diplomacy in international relations: the case of Singapore,” International Relations of the Asia-Pacific, Volume 22, Issue 3, September 2022, pp. 375–409.
- 2 ここでは「偽情報」を、誤った情報を意図的に拡散させ情報操作を行うことを指し、「誤情報」を、情報の正確性を問わずに無意識に拡散させてしまう情報騒乱のことを指す。
- 3 情報騒乱に関しては、例えば、長迫智子「今日の世界における『ディスインフォメーション』の動向――“Fake News”から“Disinformation”へ」『国際情報ネットワーク分析IINA』2021年2月15日; 鍛治本正人「偽情報対策としてのファクトチェックの有効性と限界(前編)―アジア地域における選挙をめぐる取り組み―」『国際情報ネットワーク分析IINA』2022年7月5日; 成原彗「インド太平洋地域におけるディスインフォメーションの流通とその対策―米国政府とプラットフォーム事業者による対策に着目して―」『国際情報ネットワーク分析IINA』2022年12月5日。
- 4 シンガポール政府はこれらの問題に対応するために、1989年に「HDB住居における人種間同居政策」(Ethnic Integration Policy for HDB Flats)、1990年に「宗教的調和維持法」(Maintenance of Religious Harmony Act)、そして1997年に「宗教的調和の日」(Racial Harmony Day)といった制度を打ち出してきている。また、法律で定められた「侮辱罪」も宗教に適用されており、社会不安を予防し多様性の維持に努めている。同時に、社会分断を招きかねない要因においては、政府の介入を認める、と捉えることができる。また、2021年に一時、「批判的人種理論」(critical racial theory)が話題となり、学者とメディアの間での論争が行われ、政府は差別のシステム化は一切ないとした立場を一貫して取っていたが、直接的に議論には加わらなかった。例えば、Chong Ja Ian, “Recognising the roots of racism in Singapore,” Academia SG, June 18, 2021.
- 5 建国時前の1964年の中華系・マレー系による人種間の対立はその根本的な問題を表している。
- 6 例えば、Teo You Yenn, This is What Inequality Looks Like, Singapore: Ethos Books, 2018.
- 7 2001年より、議席占有率は90%強より徐々に下降気味にあり、2020年次には90%を切り、89%となっている。Dylan Loh, “Singaore election results give PAP supermajority as rivals rise,” Nikkei Asia, July 11, 2020.
- 8 「States Times Review」は、反体制派のAlex Tan氏によるオンライン情報誌である。偽情報を拡散したとして、2020年にPOFMAによる修正を求められたが、要求に従わなかったため、Facebookのページが閉鎖された。Tham Yuen-C, “Facebook ordered to disable access to States Times Review Facebook page for Singapore users,” The Straits Times, February 17, 2020.
- 9 POFMA Office, “Protection from Online Falsehoods and Manipulation Act,” 2019.
- 10 例えば、Tiana Desker, ”Meritocracy:Time for An Update?” Civil Service College, February 14, 2016; Vincent Chua, Randall Morck, and Bernard Yeung, “The Singaporean Meritocracy: Theory, Practice, and Policy Implications,” in Tarun Khanna and Michael Szonyi, eds., Making Meritocracy: Lessons from China and India, from Antiquity to the Present, New York: Oxford University Press, 2022, pp. 231-261.
- 11 なお、政府はこの教育に関する問題点は認めている。Ong Ye Kung, “Dealing with two paradoxes of Singapore’s education system,” today, July 14, 2018.
- 12 “POFMA Office, “POFMA Action taken Up To 30 Sep 2022,” n.d.
- 13 例えば、Bilahari Kausikan, China is messing with your mind, Singapore: Epigram Books, 2019.
- 14 Kei Koga, “Singapore’s distinctive ‘quasi-bases’,” in Shinji Kawana and Minori Takashashi, eds., Exploring Base Politics: How Host Countries Shape the Network of U.S. Overseas Bases, London and New York: Routledge, 2020, pp. 133-151.
- 15 例えば、Royston Sim, “LKY School professor Huang Jing banned, has PR cancelled, for being agent of influence for foreign country,” The Straits Times, August 4, 2017; Leslie Shaffer, “Pro-Beijing professor expelled from Singapore for ‘agent’ of foreign power,” CNBC, August 7, 2017.
- 16 例えば、Kevin Ponniah, “How a Chinese agent used LinkedIn to hunt for targets,” BBC News, July 26, 2020; Aqil Haziq Mahmud, “Dickson Yeo released on suspension direction after foreign agent threat ‘effectively neutralised’: ISD,” CNA, December 14, 2021.
- 17 Rei Kurohi, “5 things to know about Fica, the law to counter foreign interference,” The Straits Times, October 5, 2021.
- 18 例えば、Cherian George, Chong Ja Ian, Linda Lim and Teo You Yenn, ”FICA’s threat to Singapore academia,” Academia SG, October 1, 2021.
- 19 在シンガポール日本国大使館「シンガポールの司法制度の概要:特に刑事訴訟法を中心として」平成25年5月。
- 20 Academia SG.