アメリカを揺さぶるオピオイド危機⑬
臨床医から見た個人と社会の問題
山岸 敬和
臨床経験からみたオピオイド危機
まずサテルは、現在の危機の性質そのものを見誤ってはならないと強調した。「これは実際には依存症(addiction)の問題というよりも、むしろ過剰摂取(overdose)の危機なのです」。オピオイド危機はしばしば「依存症の拡大」として語られるが、実際には過剰摂取こそが問題の核心であるという。とりわけその転機となったのが、ヘロインと比べ50倍以上もの強力な作用をもたらすフェンタニルの流入である。
さらに重要なのは、患者層そのものが大きく変化したわけではないという点である。「薬物を乱用する人が変わったわけではなく、同じ人たちがヘロインからフェンタニルへと移行したという側面が大きいということは重要です」とサテルは言う。すなわち、従来から存在していた依存症患者が、より強力で危険な薬物へと移行した結果として、死亡率が劇的に上昇したのである。
ここでサテルは、オピオイドという薬物の性質についても重要な点を指摘する。オピオイドは一般に強い依存性を持つ薬物として理解されているが、依存の形成という観点から見れば、コカインなどの刺激薬と比べて特別に強いというわけではない。また現在では、メサドンなどの代替療法が確立しており、適切な医療につながれば依存状態を一定程度コントロールすることも可能であるとする。
したがって、今日の危機を特徴づけているのは、「依存症の拡大」そのものではない。むしろ、フェンタニルの極めて強い作用と致死性によって、同じ依存人口の中で死亡リスクが飛躍的に高まった点にある。問題は、より多くの人が依存症になったことではなく、同じ人々がより簡単に死に至る状況に置かれていることなのである。
個人はなぜオピオイドを必要とするのか
そういう意味では、過剰摂取死を減らすために、フェンタニルのようないわば劇薬の供給を抑えるための方策を取ることは重要となる。しかし、これについては本シリーズ⑥・⑦で前駆体規制や国境管理の難しさを指摘した。となると、薬物に向かう人の数を減らすことが同時に重要となる。サテルは「供給と需要のコントロールはどちらか一方では成立せず、両者は切り離せない関係にあります」と述べた。目の前に薬物が置かれたとしても、人々がそれを服用しようとしない限り危機は成立しない。
そうなると人々の中に「需要」を生み出す要因に目を向ける必要がある。その要因について、サテルは次のように述べる。「人々が薬物を使用するのは、何らかの精神的な苦痛を和らげようとしているからです」。
ここで問題となっているのは身体的な痛みではなく、精神的な苦痛である。不安、孤独、トラウマ、あるいは言葉にしにくい内面的な空虚感。人々は、こうした状態から一時的に逃れるために薬物を用いる。
依存症とは単なる「やめられない状態」ではない。むしろ「やめたい」と「やめたくない」という、相反する感情が同時に存在する状態であるが、後者の気持ちが勝ってしまうのだ。その背景には、深い自己認識の問題があるとサテルは指摘する。「個人レベルでは、自己嫌悪こそが、薬物の過剰使用における最も大きな要因の一つです」。
自己嫌悪や自己否定は、依存症の重要な要因であり、薬物はそれを一時的に和らげる手段として機能する。このように考えると、依存症は単なる逸脱や意志の弱さとして理解することはできない。むしろそれは、人間が内面的な苦痛にどのように対処するかという問題として捉え直される必要がある。
「絶望死」を生む社会構造
しかし、個人の心理だけでは、なぜオピオイド問題が特定の地域で集中的に拡大したのかを説明できない。この点についてサテルは、社会のあり方そのものに目を向ける。
サテルは「本当に問うべきは、いかにして社会をより良くするかということです」、そして「これまで、満たされた環境にある人が薬物を乱用するのを見たことはありません。使用することはあっても、自己破壊に至ることはありません」と言う。薬物使用を個人の心理状態に帰するのではなく、その自己嫌悪や自己否定がどのような社会的文脈の中で生じているのかに目を向け、それを改善していかなければならないとする。
ここで想起されるのが、経済学者アン・ケースとアンガス・ディートンらが提示した「絶望死(deaths of despair)」という概念である2。彼らは、薬物過剰摂取、アルコール依存、自殺といった死の増加を、単なる健康問題ではなく、社会の中で蓄積された「絶望」の結果として捉えた。
経済的機会の欠如、教育の脆弱性、そして教会、労働組合、家族といった社会的ネットワークの弱体化などの要因が重なることで、人々は孤立し、将来の見通しを失っていく。「打ちのめされた場所に生きる、打ちひしがれた人々」という言葉をサテルは使う。この表現は、ディートンが描いた社会像と重なり合う。薬物依存は個人の逸脱行為ではなく、社会の中で蓄積された絶望への応答として理解されるべきなのである。
このような環境の中で、薬物乱用は個人の問題にとどまらず、地域的に集中した危機として現れる。オピオイド危機は、その社会の中で蓄積された絶望が可視化された現象なのである。
根本的な問題解決のために
現在のオピオイド危機に対して、まず短期的方策として重要なのは、過剰摂取死をぎりぎりのところで救う薬であるナロキソンのさらなる普及である。「ナロキソンは状況を劇的に改善させました」とサテルは述べる。
しかし、それはあくまで「死を防ぐ」対策であり、「なぜ人々が薬物に依存するのか」という根本的な問題を解決するものではない。そこでサテルが強調するのが、より長期的な視点である。「究極の予防とは、より健全で、心理的にも健やかな子どもを育てることに他ならないのです」とサテルは述べる。
彼女は、依存症は突然生じるものではなく、幼少期からの環境や経験の積み重ねの中で形成されると見る。経済的安定、教育機会、家庭や地域における支え、こうした条件の中で育つ子どもは困難に直面してもそれに対処する力を身につけやすい。逆に、それらが欠如した状況では、自己肯定感や将来への期待が損なわれ、薬物が「対処」の手段として選ばれやすくなる。
したがって、オピオイド危機の根本的な解決とは、薬物を規制するだけでも、ケア体制を整えるだけでもない。むしろ、次の世代がどのような環境で育つのかという問題に直結しているというのがサテルの見立てである。
この先の茨の道
オピオイド危機は、薬物の問題であると同時に、個人の内面の問題であり、そして社会の問題でもある。その意味では、この危機への対応は、制度、医療、社会という視点を往復しながら、複眼的に捉え、様々な方策を同時並行的に行う必要がある。
サテルは、個人が依存から回復することがいかに難しいのかを話す。薬物依存を断ち切るためには、心の支えになってくれる社会を必要とする。しかし、薬物依存から脱するためには、薬物使用という経験を共にしていた人間関係から離れなければならない。依存からの回復は、一種の社会的な喪失を伴う過程でもあるという。
そのため彼女は、患者に対して、過去に教会などの共同体に関わっていた経験がある場合には、そこに戻ることを勧めることもあるという。薬物に代わる「居場所」や「つながり」を持たなければ、回復は持続しないからである。
依存症とは単なる個人の問題ではなく、どのような関係性の中で生きているのかという問題であるという彼女の指摘は重要だが、根本的な問題解決には、新たな人間関係を構築するに至るまで寄り添える余裕が社会全体にあることが条件になる。
しかし、現在のアメリカでは、政治的な対立の中で、怒りや恐怖が煽られ、分断が進み、多様性への理解力が損なわれつつある。そのような中で政府は、一時的に特定の薬物の流入を抑えることはできたとしても、「人間を中心に据えた」解決策を生み出す想像力は出てこないだろう。
オピオイド危機は、薬物をいかに管理するかではない。むしろ、人々が自尊心を回復し、薬物に頼らずに生きていける社会をいかに築くかという問いである。その意味でこの危機は、アメリカのみならず、私たち自身に突きつけられている課題なのである。
(了)
- 2026年3月13日、サリー・サテルへの聞き取り調査をオンラインにて行った。サテルは臨床医を務めながら、同時にアメリカン・エンタープライズ・インスティチュート(AEI)にてシニア・フェローとして研究活動を行っている。経歴の詳細は以下を参照。American Enterprise Institute, “Sally Satel,” <https://www.aei.org/profile/sally-satel/>, accessed on March 15, 2026. (本文に戻る)
- アン・ケース、アンガス・ディートン(松本裕訳)『絶望死のアメリカ―資本主義がめざすべきもの』(みすず書房、2021年)(原著はAnne Case and Angus Deaton, Deaths of Despair and the Future of Capitalism, (Princeton: Princeton University Press, 2020))。(本文に戻る)