医療保険をめぐる政治の「地滑り」
―ハリス、ワルツ、ヴァンスの影響
山岸 敬和
「ウルトラ・リベラル」なハリスの医療保険制度改革案
ハリスがこのような呼ばれ方をされるのは根拠がないわけではない。GovTrackによると、第116議会(2019年1月3日〜2021年1月3日)で、上院議員だったハリスはバーニー・サンダースに次いで2番目にリベラルな投票行動をしたとされている3。
ハリスのリベラル色の強さを象徴するものとしてしばしば挙げられるのが、医療保険制度改革についての姿勢である。
上院議員時代にハリスは、「メディケア・フォー・オール」を導入することを主張していた。連邦政府が保険者となる高齢者向け医療保険にメディケアというプログラムがあるが、それを高齢者以外の人々にも適用しようとするものである4。イギリスやカナダで運用されている、いわゆる「シングルぺイヤー方式」である。2010年3月に法案が成立し2014年に本格稼働したオバマケアではアメリカの医療問題の根本的な解決にはならず、メディケア・フォー・オールで一気に皆保険を実現し医療費を抑制すべきだと、ハリスは主張した5。しかし純粋なシングルペイヤー方式を突き詰めると、現在多くの人が加入する民間保険プランが廃止されることになる。ハリスは2020年の民主党候補者討論会で改革案についての議論の中で、「民間の保険プランを選択肢として入れないことに賛成するか」という質問に対して「イエス」と答えている6。
シングルぺイヤー方式の新たな医療保険制度を導入すると、利益を奪われる民間保険業界に反対されるのは間違いない。それに加え、増税を伴わざるを得ない巨額の財源が必要となる。さらには、新たな制度の下で診療報酬が抑えられることを恐れる医師や病院等が反対運動を起こすことは間違いない。当時は、このような案を主張する候補者は、たとえ民主党内で候補者指名を受けられたとしても、本選挙では勝利できない可能性が高いと考えられた。
2020年選挙では、結局、より穏健な改革案を提案したバイデンが当選を果たした。ハリスは副大統領となったことから、オバマケアを緩やかに改良していくという政策をバイデン政権の一員として推し進め、今回の大統領選挙戦でも基本的にこの路線で戦うことになる。バイデン政権で開始され2025年末で失効する財政補助の増額政策を継続させること、そして未だメディケイドの適用範囲を拡大していない州への対処を重要争点として訴えると考えられる7。
トランプの変化
ただ、「メディケア・フォー・オールを支持したハリス」というイメージは未だに残っている。それが民主党内の左派勢力がハリス支持を早期に表明した一因になっていると考えられるが、その一方でトランプは確実にここを追求してくる。2020年選挙の時にも、トランプはメディケア・フォー・オールについて「社会主義的」だと非難していた8。
しかしトランプは、医療保険改革をめぐる政治の風向きが変わってきていることを感じている。トランプ前政権では、トランプはマイク・ペンス副大統領に政策の方向性を決定する責任を負わせた9。ペンスが主導する形で「オバマケアを破棄せよ」というスローガンの下に、トランプ政権として反オバマケアを貫いてきた。しかし、コロナ禍を挟み、オバマケアに対する世論の支持は高まった。2024年4月時点では、オバマケアに対して好意的だと答える人は62%に及んだ。2016年11月段階の41%、2020年10月段階の55%と比べると上昇傾向にあることが分かる10。アメリカ社会にオバマケアは着実に根を張ってきたのだ。
今回トランプが副大統領候補として選んだJ・D・ヴァンスに対して、ペンスにしたような政策の権限を委譲するかは分からないが、ヴァンスはこれまで、オバマケアを単に廃止することについては反対してきている。経済的弱者や既往症がある人々から医療保険へのアクセスを奪うから、という理由であった11。ヴァンスは不法移民がオバマケアやその他の公的プログラムの受益者になることには反対するが、基本的にはオバマケアの存在意義を必要悪だとして認めてもいる12。このヴァンスのスタンスはトランプの最近の主張に近い。3月27日には、トランプは独自SNS「Truth Social」で「私が選挙戦で戦っているのはACA(オバマケア)を廃止するためではない・・・13」と書いている。
医療保険制度改革をめぐる政治の「地滑り」
今回の大統領選挙を通して、医療保険制度改革をめぐる政治が、民主党においても共和党においても、左方向へ明確な地滑りを起こす、または起こしていたことが明らかになる、と筆者は考える。すなわち、民主党はオバマケアの次に来る大きな改革に議論の重点が移動する。ハリスが副大統領候補としてティム・ワルツを選んだこともこれを裏付けるものになるだろう。ワルツは民主党左派の支持を集めており、医療保険制度改革においてもさらなる改革に積極的な姿勢をミネソタ州知事として示してきた14。他方、共和党はオバマケアの基本的な構造は維持しながらアメリカファーストのイデオロギーに合わない部分には反対していく。
これまでは、民主党が医療保険を与える側、共和党がそれを妨げる側というのが戦いの構図だったが、今後それは少し変わると考えられる。共和党が、現在多くのアメリカ国民がオバマケアや雇用主提供保険によって加入している民間保険プランを守る側、民主党がそれを取り上げようとする側、という新たな構図が登場する。トランプは、ハリスとワルツを「ウルトラ・リベラル」と呼びながら、人々に「ハリス=ワルツは今は穏健に見えるかもしれないが、政権を取ったら恐ろしいことが起こる」、というメッセージを伝えようとしている。
今回の選挙では、これまでと比べ医療保険制度改革は優先順位が高くはならないと考えられてきた。しかし、ハリスが大統領候補になったことで様相が変わった。トランプは今後の戦いを「民主党の急進左派との戦いだ」と喧伝するだろう。そしてその中で、医療保険制度改革は熱い議論が展開されるテーマになるだろう。それがどのような文脈で語られ、それがどちら側を利することになるのかについてのみならず、2024年選挙が中長期的に米国の医療保険政策に持つ意義についても注目していきたい。
(了)
- Helen Coster, Alexandra Ulmer, and David Morgan, “As racist and sexist attacks fly, Republicans grapple with how to take on Harris,” Reuter, July 28, <https://www.reuters.com/world/us/racist-sexist-attacks-fly-republicans-grapple-with-how-take-harris-2024-07-27/> accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- Steve Contorno, Kristen Holmes and Kit Maher, “Trump slams Harris as an ‘ultra-liberal’ as he returns to the campaign trail under a reshaped political landscape,” CNN, July 24, 2024, <https://edition.cnn.com/2024/07/24/politics/donald-trump-rally-north-carolina/index.html> accessed on August 5, 2024; Franco Ordoñez and Steve Inskeep, “What’s changed for Trump's campaign since Harris emerged as a presidential candidate?” NPR, July 29, 2024,<https://www.npr.org/2024/07/29/nx-s1-5052890/whats-changed-for-trumps-campaign-since-harris-emerged-as-a-presidential-candidate>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- “2020 Report Cards: All Senators/Ideology Score,” GovTrack, January 30, 2021, <https://www.govtrack.us/congress/members/report-cards/2020/senate/ideology>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- メディケアは特定の基準を満たす障がい者も含む。(本文に戻る)
- アメリカ医療をめぐる政策・政治の歴史的変化やオバマケアの仕組みについては以下を参照。山岸敬和『アメリカの医療制度史―20世紀の経験とオバマケア―』(名古屋大学出版会、2014年)。(本文に戻る)
- Gregory Krieg and Tami Luhby, “Kamala Harris’ past health care positions could come under the spotlight in debate,” CNN, October 7, 2020, <https://edition.cnn.com/2020/10/07/politics/kamala-harris-health-care/index.html>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- Sahil Kapur and Berkeley Lovelace Jr., “What a Kamala Harris presidency would mean for health care in America,” NBC News, July 23, 2024, <https://www.nbcnews.com/politics/2020-election/kamala-harris-presidency-mean-us-health-care-abortion-rcna163124>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- “The Health 202: Trump calls Medicare-for-all 'socialism.' Doctors once said the same about Medicare,” The Washington Post, November 12, 2019, <https://www.washingtonpost.com/news/powerpost/paloma/the-health-202/2019/11/12/the-health-202-trump-calls-medicare-for-all-socialism-doctors-once-said-the-same-about-medicare/5dc9e04388e0fa10ffd20d4e/>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- Rachel Cohrs Zhang and Sarah Owermohle, “What to know about Trump VP pick: J.D. Vance’s health care views and investments,” STAT, July 15, 2024, <https://www.statnews.com/2024/07/15/jd-vance-trump-vp-healthcare-abortion-investments/>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- “KFF Health Tracking Poll: The Public’s Views on the ACA,” The Kaiser Family Foundation, May 15, 2024, <https://www.kff.org/interactive/kff-health-tracking-poll-the-publics-views-on-the-aca/#?response=Favorable--Unfavorable>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- “JD Vance’s views on health care: What to know,” The Hill, July 16, 2024, <https://thehill.com/policy/healthcare/4775098-vance-healthcare-positions/>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- Zhang and Owermohle, “What to know about Trump VP pick.”(本文に戻る)
- Donald Trump (@realDonaldTrump), Truth Social, March 27, 2024, <https://truthsocial.com/@realDonaldTrump/posts/112163485572377413>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)
- Joshua P. Cohen, “VP Pick Walz’s Healthcare Policies Align With Harris,” Forbes, August 6, 2024, <https://www.forbes.com/sites/joshuacohen/2024/08/06/vp-pick-walzs-healthcare-policies-align-with-harris/>, accessed on August 5, 2024.(本文に戻る)