アメリカを揺さぶるオピオイド危機④
「絶望」にはワクチンも治療薬もない
山岸 敬和
7月28日現在、アメリカの新型コロナウイルス感染症による死亡者は60万人を超えている。デルタ株の感染が急拡大しており、特に南部州では医療の逼迫度が高まっている。出だしは良かったワクチン接種も、最近は低迷気味である。人口の約50%が必要回数の接種を終えているが、集団免疫は70%とも、最近は80%とも言われ、バイデン政権はワクチン接種が進まない農村地域における普及活動のために、1億ドルの予算を注ぎ込むことを最近決めた1。ワクチンの接種率が低い州には南部州が多い。
しかし、ワクチン接種が進むにつれ、全体の死者数は確実に減少してきている。デルタ株の感染拡大がどのような影響を及ぼすのか、まだ不確実な要素はあるものの、COVID-19が通常のインフルエンザに近いものになっていく道筋は見えてきていると言って良い。
「コロナ前夜」のオピオイド問題
しかし出口が見えない問題がある。オピオイド問題である。これまでのコラムでも書いてきたように、オピオイド問題は1990年代の後半から深刻化した。過去20年間で50万人以上の死者を出している。
最初は、処方鎮痛剤のオピオイドによる中毒が広まった(図1)。指示された以上の量を服用すると中毒症状を起こし、最悪は死に至る。モルヒネなどアヘンから成分を抽出したものに加え、成分の一部を合成するオキシコンチンなどの半合成オピオイドが中毒死者数を引き上げた。
2010年になると、半合成オピオイドの一種であるが非合法の、ヘロインが広まった2。そして2013年には、合成(人工)オピオイドが一気に拡大した。中でもフェンタニルが有名である。この合成オピオイドはモルヒネと比べると50〜100倍もの中毒性を持ち、さらにコカインよりも安価で入手しやすい3。
2018年に死者数が高止まりしたように見えたが、合成オピオイドの急拡大で再び増加傾向となった。この頃までには当初「オピオイドの震源地」と呼ばれたアパラチア山脈付近から全国にオピオイド問題は拡大した(図2)。
これが「コロナ前夜」の状況であった。
コロナ禍とオピオイド問題
そしてコロナ禍で状況はさらに悪化した。2020年の薬物中毒死者数は93,000人以上になった。前年と比べて約30%の増加で、過去最悪の数字である4。コロナ禍とオピオイド問題の深刻化の関連性については以前のコラムでも書いたが、ここでは人々が受ける精神的負担の程度について述べたい。
2021年1月に不安障害や気分障害の症状があると答えた人は成人の41.1%に及んだ。これは2019年の数字からは30ポイント上回っている。
特に若年成人は56%と高く、大学がオンライン化したことや収入が減少したことが要因として挙げられる。授業がオンライン化したこともあり、子供がいる女性の比率も49%と高い(子供がいる男性は40%)。また黒人(48%)やラティーノ(46%)も平均よりも高い数字となっている5。
コロナ禍におけるストレスは、特にリハビリの過程にある多くの患者を薬物の再使用に向かわせてしまう。リハビリ患者は、ストレスに過敏で、達成感を感じにくい。コロナ禍で人との繋がりを保つことが難しくなり、それに加え、医療サービス提供側が財政的に逼迫し、薬物中毒リハビリプログラムへの予算が削減されたことで、多くの患者を窮地に追い込んだ6。
バイデン政権の困難
トランプ前政権もオピオイド対策を行っていた。2016年の選挙戦中からオピオイド問題を解決すると公言し、2017年には「公衆衛生上の非常事態宣言」を出した。2018年には予算を大幅に増額し、中国首脳にアメリカ向けの違法輸出を取り締まるように直接圧力をかけた。しかしそれ以降は、トランプに問題解決のためのリーダーシップを発揮する政治的意思はなかった、と批判されている。トランプの消極性は、大統領府に設置されている国家薬物取締政策局(Office of National Drug Control Policy)の予算を大幅に減額したことに象徴される7。
バイデンは選挙戦の時からオピオイド対策を優先政策として位置付けていた。「効果的な治療と薬物乱用からの回復のためのアクセスを保障すること8」、これによってオピオイド危機を乗り越えると公約していた。政権発足後には国家薬物取締政策局に大幅なテコ入れをし、2021年3月に成立したアメリカ救済計画では40億ドルの予算を再乱用防止プログラムの拡大に充てた9。
しかしバイデン政権の困難はここからである。トランプ前大統領が「掛け声」だけで終わったと批判することは簡単であるが、自分で問題解決のためにリーダーシップを発揮することは困難を極める。
COVID-19ワクチンの普及により、少しずつオピオイド患者へのサポート体制が回復してきているが、それでも集団免疫を獲得し、全ての制限が解かれるまでにはまだしばらく時間がかかる。さらに冒頭にも書いたように、オピオイド中毒死はコロナ前にすでに「爆発状態」であった。バイデンはCOVID-19によるダメージに対応しながら、さらに、そもそも中毒死が増加した複雑な要因と向かい合わなければならない。
オピオイド中毒死は「絶望死」と呼ばれる。将来に期待が持てなくなった人々が、社会との関わりを断ち、孤立し、その中で救いを求めて薬物に手を出す。
COVID-19に対してトランプ政権は失策を繰り返し感染拡大防止に失敗したが、唯一ワクチン開発は成功だった。ワクチンが普及し、今や多くの人がマスクなしの生活を手にしている。
しかしオピオイド問題にはワクチンはない。根本的な治療薬もない。一度ダメージを受けた脳は、その状態を通常に近づけるためにかなりの時間を要する。この問題への対応で重要なのは、莫大な財政資源のみならず、かなり多くの「人」のサポート体制を社会の中に生み出すことである。
分極化が進むアメリカで、「絶望」という複雑な問題を前にバイデン政権は難しい舵取りを迫られる。貧困問題、人種問題、医療保険問題、バイデン政権が最優先順位としているこれらの問題は全てオピオイド問題と繋がっている。しかしこれは同時に「ワクチン的発想」では容易にオピオイド問題が解決するものではないことを示している。
コロナ禍はワクチンによって収束に向かっていくだろう。しかし、コロナ禍でさらに深刻化したオピオイド問題は大きな課題として残される。オピオイド問題は、社会の分断化、個人の孤立化が進むアメリカの影の凝縮された部分であると言える。今後のオピオイド問題への対処の仕方にアメリカが進む方向が見えてくるだろう。
図1:オピオイド中毒死の三つの波(10万人あたりの死者数)(本文に戻る)
出典: Centers for Disease Control and Prevention, “Understanding the Epidemic,” <https://www.cdc.gov/opioids/basics/epidemic.html> accessed on June 27, 2021.
図2:オピオイド関連の死者数(2018年)(本文に戻る)
出典:National Institute on Drug Abuse, “Opioid Summary by State,” <https://www.drugabuse.gov/drug-topics/opioids/opioid-summaries-by-state> accessed on July 30, 2021.
(了)
- U.S. Department of Health & Human Services, “Biden-Harris Administration Provides $100 Million to Rural Health Clinics for COVID-19 Vaccine Outreach in Their Communities to Increase Vaccinations,” July 22, 2021,
<https://www.hhs.gov/about/news/2021/07/22/biden-harris-admin-provides-100-million-to-rural-health-clinics-for-covid-19-vaccination.html> accessed on July 30, 2021.(本文に戻る) - 2020年11月、オレゴン州で個人利用を目的に少量のコカインヘロインを所持することが非犯罪化された。「オレゴン州、ハードドラッグ所持を非犯罪化―アメリカで初」『BBC』、2020年11月5日。<https://www.bbc.com/japanese/54820147>(2021年7月30日参照)。(本文に戻る)
- Marisa Crane ed., “Fentanyl vs. Heroin: An Opioid Comparison,” American Addiction Centers, July 19, 2021, <https://americanaddictioncenters.org/fentanyl-treatment/similarities>accessed on July 30, 2021.(本文に戻る)
- Lenny Bernstein and Joel Achenbach, “Drug overdose deaths soared to a record 93,000 last year,” The Washington Post, July 14, 2021,
<https://www.washingtonpost.com/health/2021/07/14/drug-overdoses-pandemic-2020/>, accessed on July 30, 2021. (本文に戻る) - Nirmita Panchal et al., “The Implications of COVID-19 for Mental Health and Substance Use,” Kaiser Family Foundation, February 10, 2021,
<https://www.kff.org/coronavirus-covid-19/issue-brief/the-implications-of-covid-19-for-mental-health-and-substance-use/>, accessed on July 30, 2021.(本文に戻る) - Usha Lee McFarling, “As the pandemic ushered in isolation and financial hardship, overdose deaths reached new heights,” STAT, February 16, 2021,
<https://www.statnews.com/2021/02/16/as-pandemic-ushered-in-isolation-financial-hardship-overdose-deaths-reached-new-heights/>, accessed on July 30, 2021.(本文に戻る) - “Opioid Crisis: Critics Say Trump Fumbled Response To Another Deadly Epidemic,” NPR, October 29, 2020, <https://www.npr.org/2020/10/29/927859091/opioid-crisis-critics-say-trump-fumbled-response-to-another-deadly-epidemic> accessed on July 20, 2021.(本文に戻る)
- Biden Harris Democrats, “The Biden Plan to End the Opioid Crisis,” <https://joebiden.com/opioidcrisis/> accessed on July 30, 2021.(本文に戻る)
- Executive Office of the President Office of National Drug Control Policy, “The Biden-Harris Administration’s Statement of Drug Policy Priorities for Year One,” <https://www.whitehouse.gov/wp-content/uploads/2021/03/BidenHarris-Statement-of-Drug-Policy-Priorities-April-1.pdf> accessed on July 31, 2021.(本文に戻る)