10月7日ハマスのイスラエルへのテロから一年:
中東と国際秩序は危険水域に入った
渡部 恒雄
米国がイスラエルの軍事作戦を止められない危険な世界
2024年10月7日、ハマスによるイスラエルへのテロ攻撃から一年を迎えた。この間、イスラエルの軍事作戦は、パレスチナ自治区のガザから、武装組織ヒズボラが占拠するレバノンへの空爆、そして陸上侵攻に拡大し、イスラエルとイランの直接の戦闘に発展する可能性も懸念されている1。バイデン政権は、イスラエルのネタニヤフ政権に対して、人道への配慮や早期の停戦を繰り返し要請しているが、イスラエルの軍事作戦の範囲とガザやレバノンでの死傷者の数は拡大するばかりだ。
米国のイスラエルへの影響力低下は、中東情勢にも、国際秩序にも深刻な事態を与えている。9月27日、イスラエルの空爆によるヒズボラの指導者ナスララ師の暗殺によって、ヒズボラによるイランの防御壁の役割が空洞化することになり、イスラエルのイラン攻撃のハードルが下がり、全面戦争のリスクが上がる。ネタニヤフ首相の行動を抑止できる唯一の存在の米国指導者のバイデン大統領は、大統領選挙出馬を断念してレームダック化が進み、ネタニヤフ首相はバイデン氏の要請を無視し、自分にとって都合のいいトランプ氏勝利を期待している。
リチャード・ハース外交問題評議会名誉会長は、米国の求心力の低下により、中東地域こそが、世界が危険なレベルの崩壊に陥る最初のケーススタディーだと指摘している2。
筆者は、2024年1月12日付のアメリカ現状モニターで、民主党は党内に左派と中道派を抱えているために、ガザでの紛争に対して断固たる政策が取れず、結果的に左派からも中道からも不満をもたれるという構造問題を指摘した。現状でも、バイデン政権は、左派が求めるガザでの停戦による人道危機の終結と、中道派と共和党が求めるイスラエルへの安全保障支援の二兎を追いかけざるを得ず、その結果、国内外のすべてのアクターから不満を持たれ、さらに求心力を弱めている。
11月5日の大統領選挙を控え、ハリス候補とトランプ候補の選挙戦が予測のつかない接戦にある中、バイデン政権の手足は縛られ、中東ではかつてない戦火の拡大のリスクが広がっている。これはバイデン政権への国内の不満をさらに大きくし、選挙結果を左右するオクトーバーサプライズにもなりかねない。本稿では、米国がイスラエルを制御できない危険なレベルに達した現状とその構造を分析する。
ラファ侵攻を止められず軍事支援を継続したバイデン政権
3月22日、イスラエル軍のガザ南部の人口密集地ラファへの侵攻の可能性が高まる中、バイデン政権は、人道被害の拡大を懸念して、イスラエルへの説得を行った。ブリンケン国務長官はネタニヤフ首相らと会談して、米国はハマスの打倒やイスラエルの長期的な安全保障の確保を共有しているが、「ラファでの大規模な地上作戦はそのための方策ではない」と発言してけん制した3。
その後も、バイデン政権はネタニヤフ氏に侵攻を思いとどまるよう何度も説得したが、年間150億ドル規模の軍事支援停止を条件にすることはなかった。しかし4月1日、ガザ地区で人道支援活動を行っていた慈善団体「ワールド・セントラル・キッチン(WCK)」の職員7人(オーストラリア、カナダ、ポーランド、イギリス、アメリカ出身の職員と、パレスチナ人)が殺害されたことでバイデン政権は厳しい措置を取らざるを得なくなった。
4月2日、ネタニヤフ氏は空爆が「重大なミス」だったと謝罪し、独立した調査を行うと約束したが、4日、ネタニヤフ氏との電話会談でバイデン氏は「市民や人道支援従事者を守れ。でなければ米国の政策は変わる」と警告した4。5月8日、バイデン氏はCNNのインタビューで「もしイスラエルがラファに侵攻すれば、ラファへの対応で過去に使用されてきた武器の供給はしない」、「私たちは武器や砲弾を提供するつもりはない」などと発言した5。
5月8日、オースティン国防長官は上院公聴会で、イスラエルがラファへの本格侵攻を計画していることを踏まえ、イスラエルに対する一部の弾薬の供給を停止したと明言した6。同日、イスラエル軍はラファ東部で「精密な」対テロ作戦を実施し、ハマス戦闘員らを殺害したと発表した7。
5月24日、オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)は、ラファでのイスラエル軍の作戦について、ガザ地区の住民に取り返しのつかない損害を与えるおそれがあるとして、ただちに停止するよう求める暫定措置を命じた8。26日、イスラエル軍のラファでの作戦で、パレスチナの避難民たちのテントが並ぶキャンプが空爆されて火災が発生し、ガザ保健当局によれば少なくとも45人のパレスチナ人避難者が死亡し、数百人が重度のやけどや骨折、爆弾の破片による傷などで手当てを受けた9。
5月27日、国際的な非難が高まる中、ネタニヤフ氏は「悲劇的な誤り」だったと述べたが、一方で「全目標の達成前に戦争を終わらせるつもりはない」とも表明10。5月28日、ホワイトハウスのジョン・カービー戦略広報担当調整官は、この空爆で主に女性や子ども、高齢者が犠牲になったことを示す画像について、「悲痛で」「おぞましい」とコメントして「この紛争で罪のない命が失われてはならない」と付け加えた。一方で、この事案についてはイスラエルが調査中だとし、「話すべき政策の変更はない」と発言して「大規模な地上作戦が確実に実施されるとはまだ思っていない。」「現時点でそうした動きは確認していない」と回答した。
記者団から現在の作戦が本格侵攻に当たらない理由を聞かれたカービー氏は、「私たちは(イスラエル軍が)ラファに突入するのを見たわけではない」、「大規模な部隊で、多数の兵士らが隊列や編隊を組んで、地上の複数の標的に対してある種の調整された行動をとっているのは確認していない」と発言した11。
一方その間、米国政府はイスラエルへの兵器、弾薬の供給を意図的に遅らせてきた。6月23日、ネタニヤフ氏は、イスラエル政府の閣議の中で、約4カ月前からイスラエルに到着する武器が劇的に減少したため、数週間にわたり、米国に対し輸送を早めるよう何度も繰り返し要請したものの、基本的な状況に変化はなかったと発言した12。6月26日、訪米中のイスラエルのガラント国防大臣はバイデン政権当局者との一連の会談で、米国のイスラエルに対する兵器供給を巡り大きな進展が得られたと述べた13。
結局、この経緯を見る限り、バイデン政権はイスラエルへの兵器・弾薬の供給を正式に止めたことはなく、その間、イスラエルの軍事行動を制約することはできず、むしろ追認することになった経緯が理解できる。これらは、当然ながらバイデン政権のイスラエル支持に反発するアラブ系有権者、リベラル派、若年層のバイデン政権離れを引き起こすことになった。
バイデン政権を無視するネタニヤフ首相の思惑と事情
ネタニヤフ政権が、ここまでバイデン政権の意向を無視しているのはなぜなのか?そこには、イスラエル国内の政治的事情と、米国政治の分断を利用してイスラエルの安全を向上させ、それにより政治的な生き残りを図ろうとする意図がある。
ネタニヤフ政権は、極右および超正統派との連立を組んでいる。その背景には、腐敗の疑いで訴追されたこと、そして中道・リベラル勢力からの反発がある。政治的な生き残りのためには、極右や超正統派勢力と組まざるを得ない状況がある。そして現在の内閣は、イタマル・ベン-グヴィル国家安全保障大臣と、ベザレル・スモトリッチ財務大臣という極右の人物を、政権運営の中心におき、極右政党の「ユダヤの力」と超正統派の政党「統一トーラー・ユダヤ連合」や「シャス」からの入閣(建設・住宅相と保健・内相)で、政治的な生き残りを図っている。この勢力は、イスラエル国内の反エリートのポピュリズムに支えられ、イスラエルの伝統的な民主主義のエートスや組織に反旗を翻している14。
ネタニヤフ氏は、レームダック化したバイデン大統領からの圧力よりも、国内の有権者や連立相手の意向を重視せざるを得ない状況にある。またネタニヤフ氏にとっては、11月の大統領選挙でトランプ氏が勝利する可能性が十分にあることが、さらにバイデン政権の意向を無視するリスクを取る根拠になっている。
共和党議会の招聘により、(バイデン撤退表明直後の)7月24日に議会演説をしたネタニヤフ首相は、25日、大統領候補となるハリス氏と面会した。ハリス氏はガザの状況を巡り「深刻な懸念を明確にした」とし「この9カ月は破滅的だ。苦しみに無感覚になるのは許されない」と伝えた。
続く7月26日、ネタニヤフ氏はフロリダのトランプ氏を訪れた。トランプ氏は会談後の記者団の前でハリス氏の発言を「無礼だと思う」と批判し「イスラエルに対して失礼だ。ユダヤ人がどうしたら彼女に投票できるのかわからない」と発言した15。
翌日、トランプ氏はフロリダ州での演説で「ハリス氏はユダヤ人が嫌いだ。イスラエルが好きではない。ずっとそうで、変わるつもりはない」と発言している。トランプ氏は、ネタニヤフ氏との会談でハマスと戦うイスラエルとの「連帯」を伝えた。また会談後の声明で、大統領に当選すれば「中東に平和をもたらし、全米の大学に広がる反ユダヤ主義と闘うためにあらゆる努力をすると約束した」と述べている16。
実は、トランプ政権時代は良好だったトランプ氏とネタニヤフ氏の関係は、2020年11月の大統領選の際に、ネタニヤフ氏が選挙戦で勝ったバイデン大統領に祝意を伝えたことにトランプ氏が激怒し、2023年10月にハマスのテロが発生した際には、ネタニヤフ首相が不意を突かれたと批判してハマスを「非常に賢い」と称賛するほど悪化していた17。トランプ氏はまた、2020年にトランプ政権がイランの革命防衛隊・コッズ部隊のソレイマニ指令官を暗殺しようとした際に、ネタニヤフ氏が協力しなかったことにも不満を持っていたようだ18。
26日のこのネタニヤフ・トランプ会談は、ネタニヤフ氏から提案したといわれており、一連の発言と行動は、米国内の分断を利用して、イスラエルの安全保障と自身の政治的な生き残りを図ろうとする彼の意図がよく理解できる。
イスラエル支援が中東と東南アジア諸国の米国離れを引き起こす
バイデン政権がイスラエル支持の姿勢を取らざるを得ない状況は、国内のバイデン政権離れのみならず、世界の「米国離れ」にも繋がっている。
5月20日、国際刑事裁判所(ICC)がハマスの指導者3人だけでなく、イスラエルのネタニヤフ首相とガラント国防相に対して、戦争犯罪の容疑で逮捕状を請求した。同日、バイデン大統領は「言語同断だ」という声明を出した19。これは中東諸国、欧州の同盟国、米国内の左派と若年層からの不興を買うものだったが、バイデン大統領が、伝統的な同盟国とはいえ、イスラエル重視姿勢を取り続けているのは、なぜなのか。
一つには、上院外交委員会を長く勤め、イスラエルとの関係を重視してきた外交経験によるバイデン大統領の信念があるだろう。同時に、長い政治経験から、イスラエルと米国内のユダヤ系の団体が、米国議会に強い影響力を持っていることを骨身にしみて知っているという点もあるだろう。
例えば、6月25日の民主党の下院議員予備選では、イスラエルを批判しているニューヨーク州の左派の現職ボウマン下院議員に対抗して、中道派のラティマー氏が対立候補として立候補し、「米国・イスラエル公共問題委員会(AIPAC)」の関連政治団体が約1,500万ドルを投じて、ボウマン氏への批判広告などを展開した結果、ラティマー氏が勝利している20。
民主党は伝統的にイスラエル支持議員が多いため、バイデン氏はイスラエルとパレスチナの間でバランスを取らざるを得ないのである。一方でバイデン政権の姿勢が、党内のパレスチナに同情する左派・リベラル、中東および米国内のすべての関係者に不満を持たせ、政権と米国の求心力を損なう悪循環にもなっている。特にアラブストリートと呼ばれるアラブ諸国の庶民や、イスラム系住民が多いインドネシアやマレーシアでは、イスラエル支持を維持する米国への不満がたまっており、米国の求心力を損なっている。
例えば、これまで中東の中でも親米国として知られたヨルダンで、アメリカを好意的に見る人が2022年には51%だったが、2023年冬から2024年初めでは28%に減っている21。
また、これまで、米中の対立に中立的な姿勢をとってきた東南アジア諸国、とくにインドネシアやマレーシアでは、ガザでのイスラエルの軍事作戦を支持するアメリカに対する不満のために、中国に期待する声が増えている22。
アラブストリートの不満が反米テロなどに繋がり、東南アジアが反米になる負の影響は、日本の外交や安全保障にも、直接影響する事態といえる。そして、このような状況は、米国の内政と密接にかかわっており、11月の大統領選挙でトランプ氏が勝利するか、ハリス氏が勝利するかにも大きな影響を受けることになる。
トランプ政権誕生では、世界のイスラム教徒の反米機運がさらに高まることが予想され、ハリス政権誕生では、バイデン政権の延長上である民主党内の左派と中道派の分裂による米国の求心力の低下の継続が予想される。いずれにせよ、中東と世界の秩序は、米国内の分断と求心力の低下により危険水域に入っていると言わざるを得ない。
(了)
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