カマラ・ハリスの外交課題
森 聡
長らくアメリカ民主党内でくすぶっていた新しい指導者への待望論は、バイデンという蓋が取れたことで溢れ出し、内部で混乱すると思われていた民主党がハリス支持で結束した。2019年暮れに民主党予備選から早々と撤退したハリスには、副大統領就任後もポジティブなイメージが乏しかったが、いまや党内にある種の熱狂の渦を巻き起こし、ヒトと資金を引き寄せている。民主党が担げる大統領候補の中で一番バイデンの選挙基盤を引き継ぎやすく、その意味で他の候補より勝算が相対的に高いと目されるハリスに民主党幹部や有力支持者らが相次いで支持を表明し、民主党の指名を獲得した。
勢いを得たハリスがティム・ウォルズを副大統領に指名し、トランプと渡り合えるのではないかという期待が高まって、一部の接戦州では巻き返しも伝えられているが、本選挙で勝てるかどうかは引き続き予断を許さない。ハリスが本選挙まで現在の熱狂を沸点で維持できるかどうかはまだ分からない。世代交代に対する支持者の期待だけで最後まで走り抜けるのか、それとも具体的な変革・改革の政策に対する期待へと結びつけていくのかが注目される。こうしたハリス熱の高まりの中で、もしハリス政権が誕生したらバイデン路線をそのまま継承するのか、それとも一部の政策について新たな路線を打ち出すのかということに関心が集まっている。
民主党の中道派と左派の対外政策路線
では対外政策の分野でハリスはいかなる姿勢ないし政策路線をとるのだろうか。
これまで出ている論評は、ハリスがバイデン政権の政策路線を踏襲する見通しを示している1。おそらく現時点で常識的で妥当な見方であろう。ハリスは、副大統領として政権内で様々な政策に関するブリーフィングを受け、バイデン政権が進めてきた対外政策の背後にある政策合理性の論理や政治的な考慮などに日々晒されてきた。したがって、ハリスの対政策に関する考え方は、バイデン政権のそれに完全ではないとも、大いに影響を受けているとみられる。バイデン政権は発足当初、中間層のための外交を掲げていたように、アメリカ国内でのアカウンタビリティを重視する外交を心掛けてきた。民主党の大統領は、中道派と左派の政策面での要請に応える政権運営を図って求心力を発揮し、特に政治的分極化の時代にあって再選を目指す場合には、党内を分裂させないことがある意味では至上課題となる。
対外政策について民主党中道派は、寡頭制や権威主義的なクレプトクラシー(少数の権力者が国民の資産を横領して私腹を肥やすような政治体制、「収奪政治」「泥棒政治」とも言われる)を脅威とみなし、防衛コミットメントを民主主義国家に限定して、経済格差の縮小に資する様々な対外政策を追求すべきという立場を取る。中国やロシアのクレプトクラシーを問題視するほか、両国の行動の中でも、腐敗や寡頭政を諸外国に拡散させ、そこから利益を搾取するという経済的な事象を根本的な問題とみなす。安全保障面では、民主主義国家の連合形成による防衛と、米軍の前方展開によるバランシングを肯定するが、アメリカは圧倒的な軍事的優位を目指した軍備増強に邁進するべきではない、とする。
これに対して民主党左派には様々な見方があるが、全般的に言ってアメリカ国内における経済的正義(経済格差の解消)と社会的正義(人種差別の解消)の実現に専念すべきという見方が基本にあるので、対外政策への関心が本来的に薄い。こうしたこともあり、国際問題は、コストやリスクのかかる軍事力よりも外交で解決すべきという発想が強い。現状変革国家の現状打破的な志向を変えることは可能という想定、ないし中国やロシアといった他の大国は防衛的な意図を有しているとの想定を持つきらいがあり、中露との共存ないしその宥和を外交で実現していくことを排除しない。また、左派の一部には、海外におけるアメリカの武力行使は、アメリカ国内で軍国主義と帝国主義を生んでアメリカの民主主義を劣化させたほか、アメリカと他の諸国の安全を損なってきたので、同盟国へのコミットメントを縮小し、在外米軍を撤退させるべきという極端な見方をとる勢力もいる。
バイデンの対外政策は、中道派に軸足を置きながら、左派にも部分的に配慮する路線を展開してきたといえる。バイデン政権が「民主主義対権威主義」を掲げ、「民主主義サミット」の開催にこだわりつつも、非民主国家との外交を進めたり、中国との戦略的競争に邁進しながら、中国との対話を模索する姿勢をとったりしてきたところにこうした折衷的な、いかにも民主党的なアプローチが表れている。他方、貿易自由化に消極的な姿勢をとり、大規模補助金の投下などを通じてサプライチェーンのリショアリングを進めつつも、インド太平洋経済枠組み(IPEF)を打ち出すといったように、左派色の濃い姿勢を基調としながら、中道派の要請に沿った取り組みも並行して打ち出してきた。
はたしてハリスは対外政策でバイデンと同じアプローチをとるのか、それとも左派に軸足を置きながら、中道派に部分的に配慮する路線をとるのか、現時点で見通すのは難しい。バイデンは2020年に民主党の指名を獲得するに際して左派を政治的に頼り、それと引き換えに左派の国内アジェンダを推進してきたといわれるが、ハリスは急転直下の展開の中で指名を獲得したこともあり、バイデンほど左派に政治的に依存するのかどうか判然としない2。バイデン撤退後に、左派が独自候補を擁立せずにハリス支持に動いたのは、党内が分裂すればトランプ打倒という目標が危機に瀕するという切迫感からであるが、同時に左派はハリスに対して、速やかな支持に動いたのだから、政権が発足した暁には要望を聞き入れてもらいたいという思いもあるとポリティコは報じている3。
もしハリスが大統領に選出されるとすれば、トランプを打倒した大統領として2028年に再選を目指すことになるため、また貿易や経済、教育、産業振興、先端技術の流出規制、気候変動といった政策は、民主党の支持基盤の政治的・経済的な利害がからんでいることもあり、自らの大統領選出に結びついた既得権益を毀損するような政策変更は政治的に賢明ではない。要するに、ハリスはバイデンと同じ政党内での政治的構図に置かれることになる可能性がある。
政治任用についてハリスは、国内政策のアジェンダについては自ら信頼する旧知の人物を政権内に迎え入れて任せる可能性があるが、対外政策について独自の人脈を使って外交・安保チームを総入れ替えする可能性は必ずしも高くないとみられる4。むしろ現在の副大統領の外交・安保チームのメンバーらを重用しながら、バイデン政権の主要閣僚を続投させる可能性があり、そうなれば政策の連続性が顕著となろう。ただし、国防長官オースチンや国務長官ブリンケンは、これまで激務に身を投じてきたこともあり、いずれかのタイミングで現職を離れる可能性がある。副長官が昇任するのか、それとも他の重量級の人物を迎えるのかなど、両閣僚ポストに誰が任用されるか注目される。
閣僚未満のレベルでみると、ハリス副大統領の国家安全保障担当大統領補佐官フィリップ・ゴードンは、クリントン政権で国家安全保障会議事務局(NSC)スタッフ、オバマ政権第1期で欧州・ユーラシア担当の国務次官補を歴任した欧州安全保障の専門家で、2022年3月に前任者の退任に伴って次席補佐官から昇任した。外交問題評議会からロバート・ブラックウィルと共著でアメリカの対イスラエル政策に関する提言レポート5もまとめており、中東情勢にも明るい。
また、ハリスの国家安全保障担当次席補佐官のレベッカ・リスナーは、かつて米海軍大学で教鞭を執り、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じてアメリカのグランドストラテジーがいかに変化したのかを分析した研究書をオックスフォード大学出版会から2021年に刊行している研究者で、バイデン政権ではNSC戦略企画担当上級部長代理として国家安全保障戦略の立案を担当したほか、政府内の「ロシア戦略グループ」の責任者を務めたことで知られ、2022年春にハリスに現職へ抜擢された。もう一人の次席補佐官兼副大統領スピーチライターのディーン・リーバーマンは、ホワイトハウスの戦略的コミュニケーション担当部長を務めていたが、ハリスに抜擢されて現職に異動した。
この限られた顔ぶれだけみれば、欧州・ロシア・中東への関心を強めるかのようにも見えるが、もしハリスが大統領に就任すれば、中国を相手に展開する気候変動、関税政策、フェンタニル規制、台湾問題、人権問題などをめぐる外交で民主党の支持基盤に広くアピールする必要も生じるので、中国・アジアに精通した政治任用者を政権中枢に据え、現在の側近らをNSCや各省庁の幹部に起用する可能性がある。(なお、バイデンの国家安全保障担当大統領補佐官ジェイク・サリヴァンは、オバマ政権でバイデンが副大統領の時から国家安全保障担当補佐官であったし、国家安全保障担当次席補佐官だったイーライ・ラトナーは、バイデン政権でインド太平洋担当国防次官補に就任している。)なお、ゴードンもリスナーも民主党中道派の専門家であり、左派の対外政策路線とは相容れない。
仮にハリス政権が誕生した場合、バイデン政権の既定の対外政策路線が修正をみるとすれば、それは大きな政策転換として発露するのではなく、ある政策を構成する特定の要素が前面に出たり、後景に退いたりするといった変化として表れる可能性がある。例えば、対イスラエル政策でバイデンよりも厳しい姿勢でガザ地区のパレスチナ人への人道的配慮を行うように求めたり、対中政策でバイデンよりも厳しい姿勢で人権問題を前面に出したり、といった変化である。ただし、今後の国際情勢が大きく変化したり、新たな危機が勃発したりすれば、大きな政策転換も当然あり得る。
そもそもハリスが大統領に就任した場合に実際に展開するであろう対外政策は、これから世界各地で起こる出来事や、これからアメリカで生起する国内政治・経済情勢の影響を受けるので、今から個別具体的な将来予測を行うのは不可能であるし、あまり意味はない。中東やウクライナでは情勢が刻一刻と変化するため、来年以降の情勢について現時点で具体的な見通しを得るのは難しい。
以上を踏まえれば、現時点で問うべきなのは、もしハリス政権が誕生し、バイデン政権の既定路線を踏襲するとした場合に、様々な国際問題についてどのような課題に直面するのかということであろう。ここでは、2025年以降もアメリカが向き合わなければならない「中東紛争」、「NATOとロシア・ウクライナ戦争」、「中国とインド太平洋」という3つの主な対外政策課題について、これまでハリスに関連して指摘されていることを整理しつつ、ハリス政権が直面するであろう課題を洗い出してみたい。
1.中東紛争
ハリスは、ガザ地区におけるパレスチナ人の惨状に同情的で、人道的危機の救済にもっと力を入れるべきだという立場をとっているといわれる。ネタニヤフ首相との会談後に行った会見では、イスラエルには自衛の権利があり、ハマスは残虐なテロ組織だというバイデン政権の基本的な立場を表明した上で、「どう自衛するかは問題になりうる」として、ガザの惨状は看過されるべきではなく、「私は黙っているつもりはない」と述べた6。これは単なるレトリックによる温度差の表明にも映るが、そうしたところにハリスの本音が垣間見えるとも指摘されている。2023年12月にCOP28で訪問したドバイでは、ハマスの攻撃を非難しつつ、イスラエルはガザ地区の民間人保護のためにもっと努力すべきだと述べた。また、2024年3月にアラバマ州セルマで開かれた集会でスピーチを行った際にも、ハマスを非難し、ガザ地区の惨状を嘆くとともに、即時停戦の必要性を強調して、会場から大喝采を浴びたと伝えられている。このスピーチは、事前にホワイトハウスが了承していた文面では、「少なくとも6週間の即時停戦が必要だ」となっていたが、ハリスは「即時停戦が必要だ」と述べた後に、あえて長い間を空けてから「少なくとも6週間というのがいま俎上に上っている案だ」と述べたため、あたかも無期限の停戦を求めているかのような印象を故意に与えようとしたとして、イスラエル側に配慮したい大統領周辺の反発を買ったとも伝えられている7。また、ハリスは、西岸地区へのイスラエル人入植者による入植地拡大や暴力に対する懸念の表明も忘れていない8。
したがって、ハリスは対イスラエル政策でバイデン政権の既定路線から大きく乖離する可能性はないとみられるが、ガザ地区でのイスラエルの軍事作戦や人道的危機に際して、民間人保護のための人道支援をもっと手厚く積極的に講じるよう、イスラエルに対してバイデン以上に厳しく迫る可能性がある。なお、共和党ユダヤ連合(the Republican Jewish Coalition)は早くも、ハリスが「親ハマスのデモ隊に寄り添っている」などというオンライン広告を流し、ネタニヤフによる米連邦議会演説をハリスが欠席したことを批判している。トランプもノースカロライナの集会で、ハリスは「イスラエルから逃げている」として、「完全にユダヤ人に敵対している」などと主張したが、自分の副大統領候補であるJ.D.ヴァンスもネタニヤフ演説を欠席した事実には触れていない9。
イスラエル・パレスチナ紛争は、民主党に遠心力をかける国際問題なので、ハリスは大統領に就任すれば、党内政治に留意した対応を余儀なくされるだろう。また、ハリスの配偶者ダグ・エムホフは母方がユダヤ系で、カリフォルニアとワシントンを拠点に活動していた弁護士で、初のユダヤ系の副大統領配偶者である。ハリスは上院議員時代から米民主党ユダヤ評議会(the Jewish Democratic Council of America)との付き合いがあり、2017年には同評議会の招きにより、夫婦でイスラエルを訪問している。エムホフは大統領選挙中もイスラエルとユダヤ主義について語り続けると述べているが、他方でエムホフの娘(エラ・エムホフ)はパレスチナ支持の運動に力を入れていると伝えられており、イスラエル・パレスチナ問題はハリスにとって個人的なレベルでもバランスをとらなければならない問題でもある10。
ハリスにとっての難題は、中東情勢それ自体の複雑さであろう。ハリスはよほど大きな情勢変化がない限り(中東の場合はそうした可能性も排除できないが)、バイデンの既定路線、すなわちイスラエルへの支援を行いながらガザ地区への人道的配慮を働きかけ、人質の解放を前提とした停戦合意を短期的に模索し、中期的にはパレスチナの国家承認を前提としたサウジ・イスラエル関係正常化を含む中東秩序の構築を追求する、という取り組みから大きく逸脱することはないとみられる。
しかし、路線の踏襲といっても、事態は複雑化の一途を辿っており、一筋縄ではいかない。イスラエルは、ガザ地区での軍事作戦に加えて7月30日にはベイルートを空爆し、ヒズボラの司令官フアド・シュクルを殺害したほか、8月1日にはテヘランでハマスの最高指導者ハニヤを爆殺したと伝えられている(後者の事案についてイスラエル当局は関与を認めていない)。イランが時機をみて報復する旨を宣言しており、いまやイスラエルとハマスの間の停戦合意はおろか、紛争の拡大が危ぶまれる事態となっている。
閣内に強硬派を抱えるネタニヤフ政権が、ハマスやヒズボラなどのイランが支援する組織を壊滅させようとする中で、ハリスはイスラエルを支持しながら、イランとの本格的な武力衝突が起こらないようにしつつ紛争を収束させていかなければならないが、これが至難の業であるのは言を俟たない。バイデンよりも外交経験の浅いハリスが、ガザ地区に対する人道支援だけではなく、紛争を拡大させないようにしながら停戦を実現し、並行して新たな地域秩序を構築していくのに好ましい環境づくりを実現するのに必要な、賢明で戦略的な判断を重ねていけるのかが問われる。
2. NATOとロシア・ウクライナ戦争
ハリスは2022年以降、毎年2月に開催されるミュンヘン安全保障会議に参加して演説を行ってきており、そこでNATOやロシア政策に関するバイデン政権の基本方針を説明し、ウクライナとNATO加盟国に安心を供与してきたが、こうした基本姿勢はハリス政権でも維持されるとみられる。2024年2月16日に開催されたミュンヘン安全保障会議では、「欧州や世界各国では、アメリカが国際的なリーダーシップをとらないのではないかという懸念が持たれている」とした上で、「グローバルな外交上の関与を維持し、国際的なルールと規範を遵守して、アメリカの国内外で民主主義的な価値を守り、同盟国及びパートナー国と協力しながら共通の目標を追求することにコミットする」というバイデン政権の基本的な姿勢を説明した。そして、トランプ前政権を暗に示唆しながら、「世界からアメリカを隔絶し、諸国家間の共通の了解をないがしろにして、独裁者を受け入れてその抑圧的な術を自ら採用し、同盟国へのコミットメントを放棄して単独行動に走るといった世界観は危険だ」として、トランプの一国主義的な対外姿勢を非難した。「アメリカが同盟を結成し維持してきたことは、アメリカを世界で最も強力かつ豊かな国にしただけでなく、同盟は戦争を阻止し、自由を守り、欧州からインド太平洋にわたる地域の安定を維持してきた」と説き、「NATOへの神聖なコミットメントは鉄壁」であると断言して、NATOの重要性と同盟強化に向けたアメリカの取り組みを強調した11。バイデン政権が体現する、極めてオーソドックスな民主党中道派の対外政策路線の表明にハリスが違和感を覚えている様子はない。
ウクライナに関しても、バイデン政権は突出した軍事援助を供与するのみならず、いくつかの基本原則を示しており、ハリスはそれらを繰り返し訴えてきた。すなわち、人々には自らの政治体制を選択する権利があり、国家には自らが帰属する同盟を選択する権利があって、諸国家の政府が尊重しなければならない基本的な権利があり、法の支配は尊ばれなければならず、全ての国の主権と領土的一体性は尊重されるべきで、国境が武力によって変更されることがあってはならない、というものである。副大統領として本年6月15日にスイスで開催されたウクライナ平和会議に出席したハリスは、こうした基本原則や国連憲章、そしてウクライナの人々の意思に基づいて、「正当で恒久的な平和」を目指して努力すべきとしたうえで、アメリカがウクライナを支援するのは、慈善の精神からではなく、戦略的利益に適うからだと述べた12。
同盟の強化とウクライナ支援という対外政策路線からハリスが大きく逸れるようなことはおそらくないだろう。ただし、ロシアがウクライナを侵略して、国連憲章やバイデン政権が標榜する上記諸原則のすべてに違反しているため、バイデン政権は、ウクライナの自衛・反攻を支援するという方針を無期限に続行しなければならない状況が続いている。こうした方針が、インド太平洋や中東といった他の戦域に軍事的なリソース面でいかなる影響を及ぼすのかという戦略上の課題は、対中抑止力の強化を最優先すべきとする共和党陣営との間の論争点となっている。
とりわけバイデン政権が本年6月に防空システム(ペトリオットとNASAMS)をウクライナに割り当てて供給すると決定した方針は(ロシアがウクライナの都市部や社会基盤を執拗に攻撃したことを受けての異例の対応だったが)、16ヵ月間維持されることになっている。この決定によりアメリカ政府は、対空防衛システムを提供する予定だった他の国々に対して、引き渡し時期の遅延を説明する対応に追われた13。ホワイトハウスと国防省、国務省は、どの国が影響を受けたのかを明らかにするのを拒んで連邦議会の不興を買ったが、台湾への輸出に遅延は生じないということは明言したようである14。ウクライナの切迫した軍事情勢に対処するための各種兵器システムが無尽蔵に存在するわけではないので、ハリスがバイデンの既定路線を継承するとしても、戦域間の兵器・ミサイル・弾薬のトレードオフの状況が深刻な水準に達するのを回避するとしたら、同盟国との共同生産を加速するとともに、欧州諸国がウクライナ向け軍事援助を増加するようアメリカが働きかけを強めなければならなくなる。また、ユーラシアグループの世界問題研究所が実施した世論調査によれば、アメリカ人の約58%は、ロシア・ウクライナ戦争についてアメリカは交渉による解決を追求すべきと考えており15、無期限・無条件の支援という政策に対するアメリカ世論の支持も無尽蔵ではない。こうした状況が続けば、これまでのバイデン政権のウクライナ支援政策をいつまでも続行するのは困難となるかもしれず、ハリスはいわゆる出口戦略をめぐるシビアで難しい問題に直面することになる。
3.中国とインド太平洋
ハリスの対中姿勢は、「衝突を避けながら競争し、可能な分野で協調する」というバイデン政権のそれから大きく変わることはないとみられる。バイデン政権の対中政策は、ブリンケン国務長官が2022年5月の政策演説で、産業振興やサプライチェーン再編のために投資し(invest)、同盟国・パートナー国と連携し(align)、技術・経済・軍事などの分野で競争する(compete)という大枠の中で示された。ハリスは、国力を強化して中国と競争するというナラティブの中で、バイデンが進めてきた産業戦略を継承し、大型補助金の投下を通じた産業振興や教育事業等を続行するとみられる。
また、同盟国・パートナー国との連携ということでは、インド太平洋諸国を相手にも進めていくであろう。ハリスは副大統領として日本、韓国、シンガポール、ベトナム、タイ、フィリピン、インドネシアなどを歴訪しており、バイデンの代理として2023年9月の東アジア首脳会議にも出席した。ワシントンではインド首相モディとも会談を持っている。中国による南シナ海での強硬な行動が収まらなければ、フィリピンやベトナムとの防衛協力はさらに深まっていくであろう。
ただし、東南アジアでは、バイデン政権がガザ地区への苛烈な侵攻を進めるイスラエルを支持していることから、アメリカのイメージは悪化している。シンガポールのシンクタンクISEASユソフ・イシャク研究所が実施した調査で「もしASEAN諸国が米中いずれかとの連携を強いられるとしたら、いずれとの連携を選ぶべきか」という質問に対するASEAN10カ国有識者の回答の平均をみると、2023年から2024年にかけて、「中国」と回答した有識者は38.9%から50.5%に上昇し、「アメリカ」と回答した有識者は61.1%から49.5%に減少した(「アメリカとの連携が好ましい」という意見が増加したのはフィリピン、シンガポールとベトナムのみ)16。バイデンのイスラエル支持が対東南アジア関係に影を落としており、ハリスはこうした状況の是正を図れるかが試される。
技術分野でハリスは、先端技術の流出規制をバイデンと同様に漸次強化していくであろう。また貿易分野では、ハリスは当初トランプの追加関税に対して批判的だったが、政権入りした後は、同様に保護主義的な貿易政策に批判的だったイエレン財務長官と同様、バイデン政権の関税政策を受け入れているとみられる 。本年5月にUSTRが発表した電気自動車100%、半導体と太陽電池50%、EV用リチウムバッテリー25%といった関税が撤廃される可能性は、少なくとも現時点ではないように思われる。経済的威圧への対抗という課題も引き継がれるとみられる。
軍事分野では、いわゆる「統合抑止」の下で米軍の戦力態勢を拡充しつつ、無人システムの導入・配備なども積極的に進め、同盟国やパートナー国との安全保障協力のネットワーク化を二国間、少数国間、多国間で推進していくことになる。最近中国が中断した核をめぐる対話を呼びかけ、軍備管理を促してなお中国が核戦力の増強を進める場合には、米国の核戦力の質・量両面での強化を視野に入れざるを得なくなるだろうが、これは民主党内で意見が分かれる可能性が高い。国防予算の増額をめぐって民主党内では意見が割れており、「中国と効果的に競争するため」に行うべきと考えている民主党支持者は18%、「ロシアを抑止するため」と考えている民主党支持者は22%に留まり、「予見しえない事態に備えるため」(46%)や「自然災害に際して緊急支援を実施するため」(38%)と回答する者の方が多いため、中露との戦略的競争を目的とした軍備増強で党内の支持を固めるのは容易ではない17。軍事的緊張が高まったり、軍拡競争が激化する事態は、ハリスにとって政治的に好ましくないため、台湾や南シナ海などをめぐる中国との緊張をできるだけ高めないような外交を進めようとするとみられる。
とはいえ、中国の軍備増強がこのまま進んでいけば、中国による台湾侵攻リスクを危ぶむ声が高まっていく可能性がある。事実、中国が台湾に軍事侵攻した場合にアメリカは台湾防衛のために派兵すべきという意見は、これまでの世論調査では約40パーセント台であったが、ユーラシアグループが2023年10月に発表した世論調査結果では、これまでよりも高い数字が出た。「もし中台間で戦争が勃発したとして、アメリカは高いコストと人命の犠牲を払うことを覚悟して、台湾防衛を手助けするために派兵すべきか」という質問に対して、「武力介入を強く支持する」という回答は18%、「武力介入をある程度支持する」という回答が42%で、全体の約6割が武力介入に肯定的な回答を示した。なお、「武力介入にある程度反対する」は27%、「武力介入に強く反対する」は13%で、反対意見は約4割を占めた18。これまでの傾向からすれば、民主党内では賛成論と反対論がほぼ拮抗しているとみられる。もし台湾危機が発生すれば、その発生形態や文脈にもよるが、ハリスは軍事的のみならず、政治的にも非常に難しい舵取りが求められることが示唆されている。
政治分野では、ハリスが中国の人権問題について厳しい姿勢をとる可能性がある。もともとサンフランシスコ地方検事やカリフォルニア州司法長官を歴任したハリスは、上院議員時代には、2019年香港人権・民主主義法案や2020年ウイグル人権政策法案の共同提出者になっている19。特に新疆ウイグル自治区における強制不妊措置の問題については、少数民族の権利侵害の問題としてだけではなく、女性の権利に対する重大な侵害とみなし、当時のポンペオ国務長官に対して中国の責任を追及するよう求める声明を出している20。ハリスが対中外交の中心に人権問題を持ってくるかどうかは定かではないが、バイデン以上に人権問題に力点を置く可能性はある。もしそうなれば中国は、アメリカが他国の人権問題を非難するのは、国家主権を侵害する干渉であるとして、グローバルサウス諸国の一部等、他の非民主国家を巻き込みながらアメリカを糾弾し、これらの国々をアメリカから遠ざけようとするかもしれない。
民主党支持者の対中観は、バイデン政権発足以降悪化している。「中国はアメリカの敵である」との見方をとる民主党支持者は、2022年3月には12%だったが、2024年4月には28%に増え、「中国はアメリカの競争相手である」との見方をとる民主党支持者は、2022年3月の73%から2024年4月の64%へと減っている。つまり、中国は競争相手というよりも敵であるとみなす民主党支持者が増えている。また、「中国のパワーと影響力を抑え込むことを、アメリカの中長期的な政策の最優先課題とすべき」という意見は、2021年には民主党支持者の36%を占めていたが、2024年には42%へと増えている20。このようなアメリカ世論の対中認識の悪化が続くとすれば、ハリスが中国に対して厳しい姿勢で臨んだとしても党内で不興を買う可能性は低く、むしろ対中姿勢を硬化させなければ支持を得られないという環境が、今後際立っていく可能性があるといえよう。
おわりに
もしハリス政権が誕生すれば、バイデン政権の対外政策路線を継承し、主要な対外政策担当者が続投するかもしれず、バイデン外交がやや修正されて続行される可能性がある。ただし、国際情勢はアメリカの対外政策上の課題を難しくしており、ハリスは民主党内の政治に制約されながら様々な事態に対処していくことになる。上記はあくまでハリスがバイデンの対外政策路線を踏襲した場合に直面するであろう課題を現時点で整理したものに過ぎない。現時点で予見していない事件や危機が生起すれば、これまでの政策路線の前提が吹き飛び、ある危機が大統領やアメリカ政府の戦略的関心と労力を費消してしまうような事態も予想しておくべきであろう。
2022年2月のロシアによるウクライナ侵略や、2023年10月のハマスのイスラエル襲撃によって、アメリカの世界戦略は大いに翻弄されている。ウクライナでも中東でも紛争が収束する兆しはまだ見えない。中国に焦点を絞ろうとするバイデン政権の戦略は、「責任を伴う管理された競争」という路線を維持し、同盟も安全保障ネットワークも精力的に拡充しながら、中国との対話を進めてきた。しかし、その有効性、すなわち対中抑止の実質的な効果は分からないままである。アメリカなりの外交原則や価値を維持しながら中東や欧州での紛争に向き合うことが両方の紛争を長引かせる面があり、それがアジアでの平和の維持に影響をもたらしうる状況の中で、ハリスはどこまでプラグマティックな戦略的判断を下せるかが問われる。
世界で重大な危機が頻発する不確実性の高い中で、荒波を乗り切れるしなやかな対外政策上の慎慮と決断を下す能力をもったアメリカ大統領が求められる時代に、「アメリカ第一」を声高に叫ぶ共和党候補と、外交経験が多いとはいえない民主党候補が大統領選挙で相まみえる現在の状況は、決して2025年以降の楽観を許すものではない。
(了)
- 例えば次のようなものがある。FP Staff, “The Kamala Harris Doctrine,” Foreign Policy online, July 26, 2024. <https://foreignpolicy.com/2024/07/26/kamala-harris-policy-china-russia-trade-immigration-israel-gaza-india/#immigration> (accessed on August 28, 2024); Heather Hurlburt, “Kamala Harris would bring greater foreign policy experience than most new US presidents,” Chatham House, July 26, 2024. <https://www.chathamhouse.org/2024/07/kamala-harris-would-bring-greater-foreign-policy-experience-most-new-us-presidents> (accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- この点については、研究会での久保文明先生のご指摘に感謝申し上げたい。(本文に戻る)
- Sarah Ferris, Nicholas Wu, and Daniella Diaz, “Winning over ideology: Why progressives are lining up behind Harris so quicly,” Politico, July 23, 2024. <https://www.politico.com/news/2024/07/23/progressives-harris-trump-elections-00170737>(accessed on August 28, 2024) ハリス指名をめぐる党内政治については、渡辺将人氏の「アメリカ現状モニター」論考No159「民主党左派とカマラ・ハリス:『擬似サンダース政権』継続圧力と予備選の洗礼なき指名の功罪」もご参照願いたい。 (本文に戻る)
- Nahal Toosi, Phelim Kine and Joseph Gedeon, “Progressives jostle for nat sec jobs under Harris,” Politico, August 13, 2024. <https://www.politico.com/news/2024/08/13/progressives-harris-foreign-policy-jobs-00173697>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Robert D. Blackwill and Philip H. Gordon, “Repairing the U.S.-Israel Relationship”, Council on Foreign Relations, 2016. <https://www.cfr.org/report/repairing-us-israel-relationship>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Andrew Roth, “Kamala Harris says ‘I will not be silent’ on suffering in Gaza after Netanyahu talks,” The Guardian, July 26, 2024. <https://www.theguardian.com/world/article/2024/jul/26/kamala-harris-benjamin-netanyahu-us-visit-palestine-israel-gaza-war>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Edward-Isaac Dovere, “Harris steps out on Israel as she navigates Biden and Netanyahu,” CNN, July 25, 2024, <https://edition.cnn.com/2024/07/25/politics/kamala-harris-israel-policy/index.html> (accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- The White House, “Readout of Vice President Harris’s Meeting with Prime Minister Netanyahu of Israel,” July 25, 2024. <https://www.whitehouse.gov/briefing-room/statements-releases/2024/07/25/readout-of-vice-president-harriss-meeting-with-prime-minister-netanyahu-of-israel/>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Edward-Isaac Dovere, “Harris steps out on Israel as she navigates Biden and Netanyahu,” CNN, July 25, 2024. <https://edition.cnn.com/2024/07/25/politics/kamala-harris-israel-policy/index.html>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Ibid> (本文に戻る)
- The White House, “Remarks by Vice President Harris at the Munich Security Conference,” February 16, 2024.<https://www.whitehouse.gov/briefing-room/speeches-remarks/2024/02/16/remarks-by-vice-president-harris-at-the-munich-security-conference-munich-germany/>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- The White House, “Remarks by Vice President Harris at Summit on Peace in Ukraine Opening Plenary,” June 15, 2024. <https://www.whitehouse.gov/briefing-room/speeches-remarks/2024/06/15/remarks-by-vice-president-harris-at-summit-on-peace-in-ukraine-opening-plenary/>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Kylie Atwood, “Ukraine moved to top of list to receive US air defense capabilities,” CNN, June 20, 2024. <https://edition.cnn.com/2024/06/20/politics/ukraine-us-air-defense-capabilities/index.html>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Ibid.(本文に戻る)
- Mark Hannah, Lucas Robinson, Zuri Linetsky, “Order and Disorder: Views of US Foreign Policy in a Fragmented World,” Eurasia Group Institute for Global Affairs, October 2023, p. 11.<https://instituteforglobalaffairs.org/wp-content/uploads/2023/10/2023-Order-Disorder.pdf> (accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Seah, S. et al., The State of Southeast Asia: 2024 Survey Report, ISEAS - Yusof Ishak Institute, 2024, p.48. <https://www.iseas.edu.sg/wp-content/uploads/2024/03/The-State-of-SEA-2024.pdf> (accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Ibid. p.31>(本文に戻る)
- Hannah et el., “Order and Disorder,” p.15. ちなみに、民主党内では、気候変動に由来する大規模自然災害に対する危機感(62%)が、台湾をめぐる通常戦勃発に対する危機感(18%)をはるかに上回っている。(本文に戻る)
- S.1838 - Hong Kong Human Rights and Democracy Act of 2019, Cosponsor list, <https://www.congress.gov/bill/116th-congress/senate-bill/1838/cosponsors> (accessed on August 28, 2024); S.3744 - Uyghur Human Rights Policy Act of 2020, Cosponsor list. <https://www.congress.gov/bill/116th-congress/senate-bill/3744/cosponsors> (accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- ハリスは、キアステン・ジリブランド民主党上院議員(NY州)とともに声明を出し、ポンペオに書簡を送っている。Kirsten Gillibrand Press Release, “Gillibrand, Harris Urge Secretary Of State Pompeo To Take Immediate Action To Cease Genocidal Campaign Against Minority Women In China,” June 30, 2020. <https://www.gillibrand.senate.gov/news/press/release/gillibrand-harris-urge-secretary-of-state-pompeo-to-take-immediate-action-to-cease-genocidal-campaign-against-minority-women-in-china/>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)
- Christine Huang, Laura Silver, and Laura Clancy, “Americans Remain Critical of China,” Pew Research Center, May 1, 2024. <https://www.pewresearch.org/global/2024/05/01/chinas-relationship-with-the-u-s/>(accessed on August 28, 2024)(本文に戻る)