バイデン政権の対イランJCPOA間接交渉が示す柔軟な現実主義
渡部 恒雄
政権発足後から現在までのバイデン外交の際立った原則を一つ指摘するとすれば、現実のパワーバランスや政治の制約に併せて柔軟に対応する姿勢ではないだろうか。例えば、対中対抗政策というのが、戦略的に最重要な課題ではあるにしても、他の課題が従属的になるということではなく、世界全体の中で、米国の国益を最適化していくようなバランスを図っている態度がうかがわれる。本稿では、中東政策、中でもイランとのJCPOA間接交渉を例に、バイデン外交の柔軟で現実的なアプローチを考察する。
バイデン政権の中東政策はトランプ前政権とどう違うか
バイデン政権における中東外交のトランプ前政権との大きな違いは、国際協調とくに欧州との関係改善を打ち出し、欧州が期待するイランとの包括核合意であるJCPOA(Joint Comprehensive Plan of Action)復帰のための再交渉を公約し、積極的に動いていることだ。ただしバイデン外交は、必ずしもトランプ外交をオバマ路線に戻すわけではなく、トランプとオバマの両政権の失敗を教訓に独自の方向で動いている。例えば、トランプ政権が進めたアフガニスタンからの米軍の撤退路線は継続させ、イラクでも米軍の戦闘任務の停止を発表している。ただし、国内のシーア派勢力へのイランの影響が強いイラクにおいては、米軍は撤退せずにイラク軍の教育、訓練にあたるために駐留するという、現実を見据えた選択をしている1。
トランプ前政権は、中東における米国の同盟国であるイスラエルとサウジアラビアの指導者に対して、イスラエルのヨルダン川西岸への入植を国際法違反としないという姿勢転換など、無条件でその立場を支持し、オバマ前政権が合意したイランとのJCPOAから離脱してイランへの経済制裁を強化した。一方で中東への軍事関与の削減を優先する方針から、イランの影響下にある武装組織が米国や同盟国を攻撃した際にも、極力、軍事介入を避ける態度をとった2。
2月4日に行った外交演説でバイデン大統領は、イエメン内戦に介入を続けるサウジアラビア主導の軍事作戦への支援を停止すると表明した3。2月16日、国務省はイランが支援するイエメン内戦の反体制武装勢力「フーシ」のテロ組織指定を解除した。結果的に、この決定はイエメンの「フーシ」を勢いづかせ、内戦状況を悪化させる結果となったが、イランへのメッセージにはなった4。一方で、2月25日、バイデン政権はイランが支援するシリア内武装組織の「カタイブ・ヒズボラ」と「カタイブ・サイード・アル・シュハダ」に空爆を行い、政権初の軍事攻撃となった。米政府は、追加的な攻撃を防ぐための「防御的な精密攻撃」と発表したが、この軍事攻撃は、10日前にこれらの組織がイラク領内の米軍基地への攻撃を行ったことへの報復とみられる5。これらの動きをみても、バイデン政権は必ずしもイランに宥和的なわけではなく、現実的に政策を進めていることがわかる。
米国とイランの間接交渉の経緯
1月4日、イランは中部フォルドゥの核施設でウランの濃縮度を20%に引き上げる作業を始めたと発表した。これは2015年のJCPOA成立前の水準に濃縮レベルを戻すというシグナルと考えられている6。これに対して、バイデン政権は、むしろ交渉の機会と考えて積極的なメッセージを発信した。2月18日には、「イランが核合意を順守すれば米側も同様の措置を取る」と表明し、ブリンケン国務長官は英仏独3カ国外相と協議してイランとの対話の意向を示した。また、対イラン国連制裁の「復活」を一方的に主張したトランプ前政権の方針を撤回し、国連代表部のイラン外交官の移動制限も緩和した7。
4月6日からは、JCPOAの再合意に向けてウィーンで間接協議が開始された。これは2018年の米国の一方的な離脱以降初めての協議となり、当事国であるイランと英独仏中ロの次官級代表が対面で会談し、米国もイランを除く5カ国と会合を開き、議長役のEUが米とイランに双方の主張を伝える間接協議の形式をとった。
バイデン政権はイランの核開発を制限することを優先し、弾道ミサイル開発や周辺国の武装勢力支援の停止は第2段階として求めていく方針をとってきた。これは、かなり思い切った姿勢で批判も大きいが8、イランが核保有することの深刻さを考えれば現実的な対処方針であり、イスラエルの影響をトランプ前政権ほど受けないバイデン政権の強みでもある。
イランは、経済に深刻な打撃を及ぼしている米国主導の制裁の一刻も早い解除を期待しており、経済制裁解除を先に求めるイラン側と、核燃料濃縮の制限を先に求める米国との間で、交渉が継続されそれなりの進展も見せていた。5月20日、交渉に当たっているイランのアラグチ外務次官が委員会後の記者会見で「幾つかの重要な課題は依然として協議されているが、この2週間で多くの進展があり、合意の枠組みは達成できた」と述べたとイランのメディアが報道した9。
6月18日のイラン大統領選挙では保守強硬派のエブラヒム・ライシ師が当選し、21日の記者会見ではバイデン大統領と会談する可能性は否定したが、米国の核合意への復帰を求めた。イラン内の経済制裁による苦境は深刻で、ライシ新政権にも影響があるため、8月上旬までのロウハニ政権の残りの任期中に、米国との一定の合意をすることへの期待がバイデン政権側にはあった。
しかし6月にウィーンでの最後の間接協議が終わってからイラン側の動きは止まった。イランの最高指導者ハメネイ師は、対米交渉をライシ新政権に任せる決定をしたのだろう。8月3日には、ハメネイ師によるライシ次期大統領の就任認証式典が開かれたが、ライシ師は「制裁の解除に全力を挙げる」と述べる一方で、交渉に妥協するような姿勢は見せなかった10。ライシ師は議会で宣誓して8月5日に就任するが、今後の交渉は難航が予想され、予断は許さない。ただし、バイデン政権にとっては、イランとの交渉の難航は国内的にはそれほどダメージにはならないはずだ。むしろ交渉が成立したほうが、共和党からの反発が激しくなる。上院の超党派合意で、何とか成立させたインフラ投資法案を下院で成立させて、法律として成立させるためにも、共和党側が嫌がるロウハニ政権との合意を急ぐ必要はなかった。
イラン側からすれば、長く続く欧米の制裁による経済情勢の苦境に加え、最近では水と電力不足への不満から市民のデモが起きており、ライシ新政権だけでなく、新政権を強く支持する最高指導者ハメネイ師への反発が強くなりつつあり、これは懸念事項である。したがって、バイデン政権成立による経済制裁を解除できる機会をみすみす逃すことはかなりのリスクである。そもそも、イスラエルや共和党がJCPOAと現在のバイデン政権の交渉条件を批判しているように、ウラン濃縮が制限されることは、既存のイランの防衛能力にそれほど深刻な影響をもたらさないと思われるからだ。むしろ客観的には、ウラン濃縮を進めて、核兵器製造に近づけば近づくほど、イラン防衛にはリスクが増えるというのが、以下に示す冷静な専門家の見方だ。
バイデン政権のイランとの交渉姿勢にみられる現実的な合理性
中東の軍事分析の大家である戦略国際問題研究所(CSIS)のアンソニー・コーデスマンによる7月20日付のリポート “Iran and US Strategy : Looking Beyond the JCPOA”(イランと米国戦略:JCPOAの先を見通して)は、イランは現状の通常兵力でも、敵対するアラブ国家に対峙できるだけの能力があることを指摘した上で、イランが核武装に踏み込んだ場合は、米国やイスラエルなどからより強硬な報復を受ける可能性があり、さらにはUAEやサウジアラビアなどの湾岸諸国が、パキスタンから核兵器を購入して核武装するリスクがあるため、必ずしもイランの安全保障に有利とはならないと喝破する。同時に、米国や中東の同盟国にとっては、イランのミサイル開発や周辺の親イラン武装勢力への支援を制約することよりも、イランの核開発を防ぐことのほうがはるかに優先順位が高いということを、緻密なデータを駆使して説明している11。
バイデン政権のジェイク・サリバン国家安全保障担当補佐官は、政権入り前の2020年6月22日にCSISの中東プログラムでのウェビナー “U.S. Grand Strategy in the Middle East”で、コーデスマンの「湾岸諸国の指導者は、デウスエクスマキナ(作為的に行われる大団円)12を信じていない」を引用し、ブッシュ・チェイニー時代のネオコンが企図した中東での米国のイニシアティブが機能せず、トランプ・ボルトン・ポンペオのイランへの「最大限の圧力」も成果を生まなかったと指摘した。さらに、サリバンは、イランを改革派と強硬派に分けるべきではなく、イランの中には多様な意見があり、国内の最高指導者、革命防衛隊などの相互作用により政策が決まると見ている。イラン核合意が米国の中東外交の「人質」となるべきではない、とも発言している。このように、サリバンは中東政策を現実的に行う必要について言及しており、バイデン政権のNSCの姿勢はコーデスマンの分析とも整合性がある13。
また、NSC中東・北アフリカ調整官のブレット・マクガークは、オバマ政権で国務次官補代理(イラン・イラク担当)、トランプ政権では大統領特使(対イスラム国有志連合担当)を歴任したが、トランプ大統領の突然のシリアからの米軍撤退方針に反発して辞任した職業外交官である。彼も現実主義を共有している。トランプ政権の特使辞任後、マクガークはフォーリン・アフェアーズ誌2019年5・6月への寄稿で、米国はシリアにおける利益を守るために何ができるか現実の中で考えるべきだ、と提唱している。具体的には、アサド大統領が退陣することも、イランがシリアからいなくなることもあり得ないし、トルコは厄介なプレイヤーのままで、シリアにおける主要なパワーブローカーがロシアである、という厳然たる現実を指摘する。ただし米ロ両国は、シリアの領土保全を望み、イスラム国やアルカイダの聖域を誕生させてはならないと考え、イスラエルと緊密な関係を有している点では一致しており、米国はそのような条件で目標を下方修正するしかない、という現実に沿った策を提案している14。
本稿でみたように、中東政策全般およびイランとのJCPOA再合意において、バイデン政権は現状を把握しながら、無理をせずに現実的に進めようとしている。おそらく、政策の優先順位も、インフラ法案などの内政が第一で、次に中国との対抗・競争政策で、イランとの交渉は重要ではあるが相手の出方を見極め、同盟国やパートナー国との調整を怠らず、トランプ前政権あるいはオバマ前々政権のような成果ありきの拙速は取らない、ということではないだろうか。
(了)
1 Annie Karni and Eric Schmitt, “Biden Takes Two Paths to Wind Down Iraq and Afghan Wars,” The New York Times, July 26, 2021, <https://www.nytimes.com/2021/07/26/us/politics/biden-iraq-afghanistan.html>> accessed on August 4, 2021.(本文に戻る)
2 Frida Ghitis, “How Biden Is Setting Himself Apart From Trump—and Obama—in the Middle East,” Politico, March 2, 2021, <https://www.politico.com/news/magazine/2021/03/02/how-biden-is-setting-himself-apart-from-trumpand-obamain-the-middle-east-472413> accessed on August 4, 2021.(本文に戻る)
3 Jonathan Landay and Jarrett Renshaw, “Biden ends U.S. support for Saudi Arabia in Yemen, says war 'has to end',” Reuters, February 5, 2021, <https://www.reuters.com/article/usa-biden-yemen-int-idUSKBN2A4268> accessed on August 4, 2021.(本文に戻る)
4 「イエメン内戦、親イラン勢力が攻勢 米和平努力も戦闘激化」『時事ドットコム』2021年2月18日、<https://www.jiji.com/jc/article?k=2021021700731&g=int>(2021年8月4日参照)。(本文に戻る)
5 中村亮「米軍、シリアの親イラン勢力に空爆 バイデン政権下初」『日本経済新聞』2021年2月26日、<https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN2614P0W1A220C2000000/>(2021年8月4日参照)。(本文に戻る)
6 岐部秀光「イラン、20%ウラン濃縮に着手-国営メディア報道 イラン核合意修復に打撃」『日本経済新聞』2021年1月4日、<https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR049180U1A100C2000000/>(2021年8月4日参照)。(本文に戻る)
7 「イランと対話目指す 中東政策の転換―バイデン米政権」『時事ドットコム』2021年2月20日、 <https://www.jiji.com/jc/article?k=2021021900908&g=int>(2021年8月4日参照)。(本文に戻る)
8 「社説:イラン核合意交渉『第2段階』は破綻」『ウォールストリートジャーナル日本語版』2021年6月22日、<https://jp.wsj.com/articles/phase-two-iran-talks-go-kaput-11624329406>(2021年8月4日参照)。(本文に戻る)
9 鈴木隆之、マティン・バリネジャド「核合意『包括的共同行動計画』再建に向けた第4回合同委員会が終了」『JETROビジネス短信』 2021年5月21日、<https://www.jetro.go.jp/biznews/2021/05/a49dfcf3dafd59f2.html>(2021年8月4日参照)。(本文に戻る)
10 岐部秀光「イラン・ライシ師、大統領認証式で『米制裁解除に全力』」『日本経済新聞』2021年8月3日、<https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB037AN0T00C21A8000000/> (2021年8月4日参照)。(本文に戻る)
11 Anthony H. Cordesman, “Iran and U.S. Strategy: Looking beyond the JCPOA,” CSIS, July 20, 2021, <https://www.csis.org/analysis/iran-and-us-strategy-looking-beyond-jcpoa> accessed on August 4, 2021.(本文に戻る)
12 エウリピデスの案出した古代ギリシャの演劇技法。終末に仕掛けによって神が舞台に降り、劇中の対立等を収拾させる役割。転じて、作為的に行われる大団円。『精選版 日本国語大辞典』(小学館、2006年)(本文に戻る)
13 “Jake Sullivan: U.S. Grand Strategy in the Middle East,” CSIS, June 22, 2020, <https://www.csis.org/events/jake-sullivan-us-grand-strategy-middle-east> accessed on August 4, 2021.(本文に戻る)
14 Brett McGurk, “Hard Truths in Syria: America Can’t Do More With Less, and It Shouldn’t Try,” Foreign Affairs, May/June 2019, <https://www.foreignaffairs.com/articles/syria/2019-04-16/hard-truths-syria> accessed on August 4, 2021. 邦訳は、ブレット・マクガーク「トランプの撤退宣言とシリアの現実-介入目的を下方修正するしかない」『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2019年6月号、 <https://www.foreignaffairsj.co.jp/articles/201906_mcgurk/>(2021年8月4日参照)(本文に戻る)