17世紀前半

幕府の許可のもと鬱陵島での漁撈が始まり、航路上にある竹島も利用

米子の廻船業者大屋甚吉が、越後から帰帆の途次鬱陵島(当時の日本名「竹島」)に漂着。その後、徳川幕府から渡海許可を与えられた大谷、村川両家は、葵御紋の船旗を立て、交替で毎年同島へ渡航し、アシカ漁業、アワビの採取等を行った。アワビは将軍家および幕閣に献上され、両家は交代で参府し将軍に拝謁した。(Ref.1)

当時松島と呼ばれていた現在の竹島は、米子から隠岐経由で"竹島"(鬱陵島)へ行く途中にあったため、停泊地や漁場として利用された。

tit
Ref.1:『竹島渡海由来記抜書』――鳥取県立博物館所蔵「岡嶋家資料」
島根県Web竹島問題研究所HPに掲載)br>http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/kenkyuukai_houkokusho/takeshima04_01/takeshima04c.data/4-4-6-01.pdf

参考資料
大谷家由緒實記 上
郷土資料 村川家附竹島渡海


←1. 領有権-法と歴史に戻る