1884年~

古賀辰四郎氏による尖閣諸島の開拓(1884年~)


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古賀氏が開拓していた当時の魚釣島の様子(提供:那覇市歴史博物館)(撮影者・日時不明)

尖閣諸島の開拓概要
1879年(明治12年)、那覇に寄留商人として進出した古賀辰四郎氏は、1882年に石垣島に支店を開設、1884年には人を尖閣諸島に派遣したことを、同氏が藍綬褒章を授与される際に提出した履歴資料(藍綬褒章下賜の件(1910年):Ref.1)で申告している。

以後、1895年には古賀氏自ら船を艤装して久場島に上陸し、1896年に同島の開拓の許可を得た後、1897年に漁夫等35名を派遣して以降、夜光貝の採取、海鳥の捕獲(羽毛の採取・剥製づくり)、鳥糞採取(肥料)、鰹漁・鰹節製造など種々の事業を展開した。事業は魚釣島・久場島・北小島・南小島において展開され、移民総数が最盛期で、248名・99戸に及んだことが記されている。(Ref.1)

古賀氏の事業内容
1897年の本格的な開拓開始以降、当初はアホウドリの羽毛採取を事業の中心に据えていた。このことは、古賀辰四郎氏が久場島の拝借を願い出た官有地拝借御願(1895年6月10日)においても、アホウドリ(バカ鳥)について中心的に記述していることや、藍綬褒章下賜の件に収録されている11ヶ年の産物採集価格(1897年~1907年)にも、1897年は鳥毛17,000斤(生産額:6,800円)、1898年は大幅に増え、鳥毛65,000斤(生産額:30,550円)、1899年には鳥毛85,000斤(生産額:42,500円)のピークに達している。しかし翌1900年には鳥毛25,000斤に減少し、1897年からの3年間の生産急増によって、資源量が減少してしまったことが窺える。また、この間は夜光貝等の海産物の生産額も伸びている。

アホウドリの大幅な減少に伴う鳥毛事業の継続に危機感を持った古賀辰四郎氏は、東京帝国大学教授・理学博士の箕作佳吉氏に事情を相談し、同氏は宮嶋幹之助氏に調査を要請、これに沖縄県師範学校教諭の黒岩恒氏が加わり、大阪商船株式会社の所有汽船である永康丸にて1900年5月に尖閣諸島各島の調査を行っている(八重山島司の野村道安氏も参加)。これらの調査結果は地学雑誌にそれぞれ発表され(Ref.2、Ref.3)、古賀氏に対して宮嶋氏・黒岩氏らは、鳥類・魚類の乱獲防止、移住者のための家屋建設、水源のない久場島での雨水貯水槽の設置、船着き場の整備、道路整備および排泄物の排除方法確立や衛生設備の設置を進言している。

なお、このときに黒岩氏が地学雑誌で発表した調査記の中で、尖閣諸島の各島々に名前はついているものの、一括した名称がないため、便宜上をもって「尖閣列島」と命名している。以後、この名称が普及した。

羽毛採取の減少が顕著になって以降、1904年からは鳥の剥製づくりを推進し、1905年からはカツオ節製造を行っている。特にカツオ節製造は、1905年には13,000斤(生産額:7,800円)であったものが、1906年には68,000斤(生産額:44,200円)に急増しており、剥製づくりとカツオ節製造が主力事業であったことが分かる。

古賀辰四郎氏は、尖閣諸島の開拓や海産物事業の功績が認められ、1909年に藍綬褒章を受けるが、この頃が開拓のピークであったと考えられ、魚釣島および久場島に形成された「古賀村」の様子が分かる写真も残されている。

1908年には、恒藤規隆氏が北小島・南小島・久場島において鳥糞由来の燐酸を多く含む土壌を調査し、肥料(グアノ)としての利用可能性調査を行っている。これについては有望な事業になりうると推定されたものの、以後、継続的な事業とはならなかった。1918年に古賀辰四郎氏が死去し、息子の古賀善次氏に事業が継承されるが、徐々にこれらの事業は衰退し、終戦(1945年)前には尖閣諸島は再び無人島となった。戦後、古賀村の設備後を利用し、与那国島の人々がカツオ節の半製品製造を時期的に行っていた痕跡があることなどが報告されている。また、1960年代には台湾漁船の不法操業が問題となった。(Ref.4)


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Ref.1 :日本帝国褒章ノ記・古賀辰四郎ヘ藍綬褒章下賜ノ件写
(国立公文書館所蔵公文雑纂明治42年・内閣四 国立公文書館所蔵

Ref.2 :黒岩恒「尖閣列島探検記事」、『地学雑誌』第12集140巻(1900年)

Ref.3 :宮嶋幹之助「沖縄県下無人島探検談」、『地学雑誌』第12集142巻(1900年)

Ref.4 :尖閣諸島文献資料編纂会「尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告 -沖縄県における戦前~日本復帰(1972年)の動き-」、『尖閣研究』(日本財団助成事業)(2010年)


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