1893年11月2日

沖縄県知事より内務・外務両大臣へ再度上申


1893年(明治26年)11月2日、漁業上の取り締まりを理由に、沖縄県の所轄であることを示す標杭の建設について、沖縄県知事(奈良原繁)より内務大臣井上馨・外務大臣陸奥宗光に対して三度目の上申が行われた。(Ref.1)

これに対し内務省は、県治局長(江木千之)名で沖縄県知事に対し、港湾形状、物産・土地開拓見込み、および旧記・言い伝えによる我が国に属した証左など宮古・八重山との従来の関係について照会した(内務省秘別第三四号:1894年4月14日付)。(Ref.2)

この照会に対して沖縄県知事(奈良原繁)は1894年5月12日付で、出雲丸による調査(1885年)以来調査を行っていないため正確なことは報告できないとして1885年の資料を再送するとともに、追伸で、該島に関する旧記、我が国に属したという伝記等はない、八重山から漁夫が時々出漁していたという関係のみがあると回答。 (Ref.3)


tit
Ref.1 :久場島魚釣島へ本県所轄標杭建設之義二付上申(甲第百十一号)
(外務省外交史料館所蔵外交記録『帝国版図関係雑件』1-4-1-7)

Ref.2 :甲六十九号・内務省秘別第三十四号
(外務省外交史料館所蔵外交記録『帝国版図関係雑件』1-4-1-7)

Ref.3 :秘第十二号ノ内復第百五十三号
(外務省外交史料館所蔵外交記録『帝国版図関係雑件』1-4-1-7)

参考資料
南方同胞援護会機関誌『季刊沖縄』63(1972年12月31日)
特集 尖閣列島第2集 p.120~p.124