1885年12月5日

沖縄県より再度の上申、国標建設の見送り


1885年(明治18年)10月22日~11月1日の間に行われた出雲丸の調査の結果を受け、11月5日付けで、沖縄県令(西村捨三)は内務卿(山形有朋)に対し再度国標建設に関する指揮を要請している。(Ref.1)

沖縄県令は、11月24日付けで改めて内務卿に指示を仰いだ(Ref.2)。内務卿は、11月30日付けで外務卿に対して沖縄県への指令案の協議(確認)を申し入れ、国標建設を見送ることを内務・外務両卿の連名で出す案を示した。(Ref.2)

外務卿は12月4日付けで内務卿に同意の回答をだし(Ref.3) 、12月5日に両卿連名で沖縄県令に対して「書面伺ノ趣目下建設ヲ要セサル儀ト可心得事」と指令(Ref.1)。尖閣諸島への国標建設は一旦見送りとなった。


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Ref.1 :魚釣島外二島実地取調ノ義ニ付上申(第三百八十四号)
(外務省外交史料館所蔵外交記録『帝国版図関係雑件』1-4-1-7)

Ref.2 :無人島へ国標建設二関シ沖縄県令へノ指令案協議ノ件(秘第二一八号ノ二)
(外務省外交史料館所蔵外交記録『帝国版図関係雑件』1-4-1-7)

Ref.3 :無人島へ国標建設ノ儀二就キ沖縄県令ヨリ伺出二対スル指令二関シ回答ノ件(親展第四二号)
(外務省外交史料館所蔵外交記録『帝国版図関係雑件』1-4-1-7)

参考資料
南方同胞援護会機関誌『季刊沖縄』63(1972年12月31日)
特集 尖閣列島第2集 p.116~p.121


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→ 国標建設について内務卿から外務卿への意見照会