留別村の鱈漁業

択捉島(えとろふとう)の鱈(タラ)漁業は、もともと副次的なものであったが、明治25年に本間勇左衛門が来島し、川崎船一隻で45石(2,160貫)の水揚げをしてから、有望であると知られるようになった。その後、漁具や漁法が改善され、漁船が持符船から川崎船に変わって乗組員が3人から5人へと増え、漁場も拡大された。大正末期から昭和年代にかけての漁船の動力化に伴い、より安定した漁業となった(Ref.1)。

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留別港で鱈の大漁の風景(留別村留別地区留別)
写真提供:千島歯舞諸島居住者連盟

鱈漁業の着業統数等調(単位 量貫・金額円)(Ref.1)
経営者数 着業統数 漁獲量 金額 摘要
昭和14年
留別村 24 28 1,856,400 121,600 -
紗那村 10 15 219,780 79,920 -
蕊取村 9 9 66,416 23,246 -
43 52 2,142,596 224,766 -
昭和16年
留別村 14 14 312,160 104,020 -
紗那村 - - - - -
蕊取村 - - - - -
14 14 312,160 104,020 -


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Ref.1:沖縄・北方対策庁『北方地域総合実態調査書(択捉島の部)』(1971年)pp.141-142