国後島の畜産業

牧畜の専業者は、白糖泊(しらぬかとまり)および泊(とまり)方面に1、2あったが、水産の副業として牛馬を飼養するケースが多かった。管理方法もまれに冬季の2〜4月かけて舎飼、または一定箇所において投草していたものもあるが、年中放牧の状態が一般的。放牧地においても特段の施設はなく、自然のままであった。牛馬の繁殖・改良等においても、飼養の主な目的が島内の交通機関としての需要を満たすためだったことから、大雑把であった(Ref.1)。

寛政元年の蝦夷の乱征討にあたり、松前藩が馬20頭を運んで馬の飼育を奨励したことから、国後島では馬を副業として飼育する漁家が多かった。これは辺地警備の交通機関としての馬の利用を考えていたからである。明治以降は北海道庁が増殖を奨励し、漁家は交通運搬によく利用するようになり、昭和6年には泊村で1,675頭、留夜別村(るよべつむら)で832頭、計2,507頭が飼育されていた(Ref.2)。

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島の造材運搬・馬とダルマ器具(留夜別村白糠泊地区白糠泊)
写真提供:千島歯舞諸島居住者連盟


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Ref.1:北海道総務部領土復帰北方漁業対策本部『戦前における歯舞・色丹・国後・択捉諸島の概況』(1958年)pp.27-28
Ref.2伊藤久雄「昭和初年における国後・択捉島及び色丹島の水産業」『北海道地理』41号(1968年)pp.1-8