1.「処理水」の放出開始へ
福島第一原発事故から12年が過ぎ、政府は8月24日にも「処理水」の海洋放出を開始することを決定した。処理水とは、核燃料を冷却するために注入され、汚染された水を専用装置で浄化したものである。処理⽔はタンクに入れ、原発構内に保管されているが、2024年春には、原発の空き地がタンクで埋め尽くされるため、放出に踏み切る[1]。
処理水には、放射性物質の一つであるトリチウムが含まれているが、専用装置でも取り除けない。摂取量によっては、血球成分の減少などの影響を人体に与えることが知られており[2]、世界各国の原子力施設では、人体や環境に影響がない程度まで希釈したうえで、処理水を海洋など自然界に放出している。この通例に沿い、福島第一原発の処理水も、濃度を国の基準の約40分の1(1,500ベクレル/リットル[3])未満に薄め、数十年かけて処分する方針である。
日本政府の決定は必ずしも国内外の理解を得られているわけではない。風評被害に苦しんできた福島県漁連を中心に国内の漁業者は一貫して処理水の海洋放出に反対しているほか[4]、中国が、韓国や太平洋島嶼国に「海洋の放射能汚染を許すな」と共闘を呼びかけている。処理水放出は30年以上の時間を要するため、日本政府は一過性の対策ではなく、国家としての信頼を喪失しないための戦略を準備しておく必要がある。
本稿では、福島第一原発事故後の処理水問題の経緯を概観し、海洋放出を長期間、適切に実施するための方策を検討する。
2.処理水の現状と海洋放出に対する国内外の動き
(1) 処理水放出計画の概要
福島第一原発では、事故により溶け落ちた核燃料(デブリ)を冷却するため、大量の水を循環させる必要がある。その結果、放射性物質を含んだ汚染水が1日あたり90トンほど生じており、多核種除去設備(ALPS)と呼ばれる専用装置で放射性物質を国の基準値以下まで取り除き、敷地内のタンクに保管している。2023年7月31日現在、1,073基の保管用タンクがあり、貯蔵量は130万トンを超え、貯蔵率は98%を超えている。原発内に空き地はもうないため、国は海底トンネルを敷設し、原発敷地から1キロメートル沖合に希釈した処理水を放出することを決定している(図1参照)。
この計画に対し、国際原⼦⼒機関(IAEA)のラファエル・グロッシ事務局長は7月4日、IAEAに独自に設置している「ALPS処理水に関するタスクフォース」の包括報告書を岸田文雄総理に提出し、「海洋放出は国際的な安全基準に合致している」との評価結果を伝えた[5]。原子力規制委員会も同月7日、海底トンネルを使った沖合への放出計画に「合格証」を与え、処理水放出を政府の決断で実施できる体制が整った[6]。
(2) 当事者能力を失った東京電力と近隣諸国の反発
表1に、処理水放出に至る主な経緯を紹介しているが、中でも影響が大きかったのは、2011年の事故直後、東京電力が緊急避難措置として低濃度汚染水を海洋に放出した事実である。関係者に対する十分な事前周知がなかったため、国内外から多くの批判を招くことになった[7]。その結果、東京電力が当事者能力を喪失し、国が対応を迫られることになった。
表 1:汚染水の処分に関する経過
年月日 | 措置 | 目的・結果 |
---|---|---|
2011年4月4日〜10日 | 東京電力が低濃度汚染地下水を海洋に放出 | 高濃度汚染水が海洋に漏れないように貯水先を確保するため、やむなく低濃度汚染水を海洋放出することになったが、事前の周知が不十分だったため、地域住民だけでなく、近隣諸国からも批判 |
2013年3月~ | 汚染水を浄化する多核種除去設備(Advanced Liquid Processing System、ALPS:アルプス)が稼働。 | トリチウムを除くすべての放射性物質を除去する能力があるとされたが、除去しきれない事例も発生 |
2013年5月13日 | 地下水バイパス整備のため、くみ上げた地下水を海洋放出する東京電力の提案に、福島県県漁連が反対表明 | 「東京電力だけだと漁業組合の信用がない。国の方針で説明してほしい」との声を受け、以降は地域に対する説明を経済産業省と共同実施 |
2013年9月8日 | 東京五輪招致を目指した国際オリンピック委員会総会において、安倍晋三総理(当時)が汚染水について、「状況はコントロールされている」とスピーチ | 国際社会の海洋汚染に関する懸念の払しょくが目的 |
2016年11月 | 経済産業省が「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会」を設置 | 第三者的視点で、汚染水処理の解決策を議論 |
2018年9月 | 「トリチウム以外の放射性物質をすべて除去できる」と説明していたしていたALPSについて、東京電力がほかにも除去できない物質があり、基準値を上回っていたと公表 | 当初自社のホームページでのみ公表していたため、東京電力の情報公開の姿勢に批判 |
2019年8月 | 東京電力が「2022年夏ごろに福島第一原発内の空き地が貯水タンクで満杯になる」との見通しを表明 | ALPSで処理された水の最終処分が喫緊の課題に |
2020年2月 | 2020年2月、小委員会が報告書を公表 | 海洋放出を最有力とする結論 |
2021年4月 | 中国が処理水の海洋放出に絡み、日本批判を激化 | 海洋放出が日本の国際的な評価を左右する問題へ |
2023年7月 | IAEAがALPS処理水に関する包括報告書を岸田文雄総理に提出 | 「ALPS処理水の海洋放出は国際的な安全基準に合致」と結論 |
主典:東京電力ホームページなどを参照に筆者作成
特に、中国は処理水問題への批判を強め、2021年4月以降は日本批判を激化させている。同月、趙立堅外交部報道局副局長(報道官、当時)が記者会見で「海洋は日本のごみ箱でなく、下水道でもない」と発言した。同氏はさらに、葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」をモチーフに、富士山を原発に書き換え、防護服を着た人物が船からバケツで液体を海に流す姿などを描いた風刺画を自身のツイッターに掲載した[8]。さらに、米国との覇権争いの主戦場となりつつある太平洋島嶼国にも、処理水放出問題での共闘を呼びかけた[9]。
3.日本の対応
(1) 科学による「安全立証」と限界
こうした動きに対し、日本はまず、第三者による科学的な検証により、処理水放出の安全を立証しようと試みた。トリチウムは、放射性同位体が減少し半分になる半減期は12.33年で、放射性核種の中では寿命が短いこと、体内に入っても内部被ばくの発生は極めてまれであることから、基準値以下であれば、海洋放出に理解が得られると判断したためである。
具体的手段として、IAEAに協力を求めた。2021年4月、IAEAに中国を含む11カ国の専門家で構成するタスクフォースが設立され、先の包括報告書を岸田総理に提出した[10]。また、現在タンクに貯蔵されている130万トン超の処理水中に含まれるトリチウムの総量はわずか20グラム弱であり[11]、放出に伴い想定される年間の放射性物質の総量が中国を含む他国の原子力施設に比べ、低水準であることを繰り返し発信している(表2参照)。
表 2:各国の原子力施設から排出されるトリチウムの総量
国名 | 施設名 | 排出量 | 基準年 |
---|---|---|---|
日本 | 福島第一原発 | 22兆ベクレル | 2023年以降 |
韓国 | 月城原発 | 23兆ベクレル | 2016年 |
中国 | 泰山第三原発 | 143兆ベクレル | 2020年 |
米国 | キャラウェイ原発 | 42兆ベクレル | 2002年 |
カナダ | ダーリントン原発 | 241兆ベクレル | 2015年 |
フランス | ラ・アーグ核燃料再処理施設 | 1京3,700兆ベクレル | 2015年 |
出典:電気事業連合会のホームページなどを参照に各国の最新データをまとめた。
(2) 対話と外交による情報戦への対応
しかしながら、科学による「安全」の立証は心理的な「安心」を提供することにつながらず、国内では、福島県および近隣県の水産業者を中心に、処理水放出による風評被害の発生を訴える声が絶えなかった[12]。「安全」と「安心」の隙間をつく形で、中国は繰り返し、処理水の放出が海洋汚染に直結するかのような国際世論への訴えを仕掛けている。
日本政府は2023年初頭から、「国際世論への対策」を本格化させた。まず、太平洋島嶼国14か国に岸田総理の親書を届けるため、林芳正外務大臣を特使として派遣し、キリバスを除く13カ国を訪問して、親書を手渡すとともに、処理水放出の安全性を直接説明した[13]。
政権交代を契機とした関係改善を追い風に、韓国の取り込みも図った。5月の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領との首脳会談で、岸田総理は韓国側が求める同国の専門家による福島第一原発の視察を受け入れた[14]。視察は「韓国国内におけるALPS処理水放出への理解醸成」(日本外務省)が目的で、5月22日~26日に実施された[15]。
4.長期戦に備えた戦略確立を
パラオのウィップス大統領が6月、福島を訪問し、ALPS処理水に関する日本の対応への信頼を表明するなど[16]、外交は一定の成果を挙げつつある。しかし、この程度では中国は引き下がらない。同国の駐韓大使が6月、韓国最大野党「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)代表をソウルの大使公邸に招き、海洋放出阻止に向けて協力していくことで一致した[17]。日本に協力的な尹大統領に対し、最大野党との連携で揺さぶる狙いとみられる。さらに、7月には水産物を含む日本の食材への輸入検疫を強化し、海洋放出に向けた動きをけん制している[18]。
ALPS処理水の海洋放出は30年超に及ぶ。海洋放出を適切に実施できるかどうかは、風評被害の発生防止のみならず、日本の国家としての信用をも左右する。そのため、長期戦に備え、政府一体で連携して対応する必要がある。情報発信の遅れや事前説明の欠如により、国内外から厳しい反発を招いた過去から教訓を学ばなければならない。具体的には、関連省庁が常に情勢分析や対応策に関する議論ができるよう、内閣官房国家安全保障局にALPS処理水に関する対策室を設置することや、そこにコミュニケーションの専門家を招へいすることを検討するべきだろう[19]。
*こちらの論考は英語版でもお読みいただけます。
Commencement of Release of “Treated Water” from the Fukushima Daiichi Nuclear Power Station: Efforts to Gain the Understanding and Support of International Public Opinion
(2023/08/23)
脚注
- 1 「ALPS処理水の現状」東京電力ウェブページ。
- 2 日本放射線影響学会「トリチウムによる健康影響」2019年12月、10-11頁。
- 3 Bqはベクレルで、放射性物質が放射線を出す能力を表す単位。放射線を受けた人体への影響を表す単位はシーベルトと言う。「放射線、放射能の単位について」北陸電力ホームページ。
- 4 「ALPS処理水海洋放出の方針に対する特別決議」JF全漁連、2023年6月22日。
- 5 “IAEA Finds Japan’s Plans to Release Treated Water into the Sea at Fukushima Consistent with International Safety Standards,” IAEA, July 4, 2023.
- 6 原子力規制委員会「特定原子力施設検査実施要領書(使用前検査)」2023年7月7日。
- 7 笹川平和財団『問われる原子力の信頼:福島第一原発事故10年』2021年5月、32-33頁。
- 8 「吉田外務報道官会見記録」2021年4月28日、外務省。
- 9 「処理水に関するQ&A」在中国日本大使館、2021年5月24日。
- 10 脚注5参照。
- 11 電気新聞「トリチウムの基本Q&A」。
- 12 脚注4参照。
- 13 例えば、「林外務大臣臨時会見記録」(クック諸島)2023年3月20日。
- 14 外務省「日韓首脳会談」2023年5月7日。
- 15 外務省「東京電力福島第一原子力発電所のALPS処理水の現状に関する韓国専門家現地視察団の訪日(結果)」2023年5月25日
- 16 外務省「林外務大臣によるウィップス・パラオ共和国大統領への表敬」2023年6月14日。
- 17 「日本は太平洋を下水道に 中国と韓国野党が共闘 福島・処理水放出非難」『産経新聞』2023年6月9日。
- 18 「中国税関が日本産輸入食品の検査を既に強化との声」JETROビジネス短信、2023年7月27日。
- 19 笹川平和財団海洋政策研究所と安全保障研究グループは、ALPS処理水の海洋放出に関する日本政府への緊急提言を取りまとめ、9月1日に公表した。