はじめに

 2024年8月14日に、岸田首相は自民党総裁選挙には立候補せずに、退陣する意向を表明した。2021年10月に発足して以来、約3年に及んだ政権に幕を閉じることになった。記者会見で、岸田首相は「分断が進む国際社会で協調に向けた国際的な議論をリードした。大きな成果を上げることができたと自負している」[1]と振り返った。今後、岸田政権に対する本格的な評価がなされるだろうが、安保三文書の改定、防衛力の抜本的な改革を行うなど外交・安全保障の分野では大きな成果を残したと言えるだろう[2]。

 本稿では、岸田首相が重要視してきた価値をめぐる外交、つまり国際社会の普遍的価値を擁護する外交に注目し、岸田政権下の外交について振り返りたい。その上で、今後の日本外交の課題について明らかにしたい。

外交・安全保障の要諦としての「信頼」

 ほとんど忘れられているが、就任当初、岸田首相は所信表明演説の中で、外交・安全保障政策について「私は、外交、安全保障の要諦は、『信頼』だと確信しています。先人たちの努力により、世界から得た『信頼』を基礎に、三つの強い『覚悟』をもって毅然とした外交を進めます」[3]と語った。そして、その一つ目の「覚悟」として、「自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値を守り抜く覚悟」を取り上げた。二つ目には「我が国の平和と安定を守り抜く覚悟」、三つ目には「地球規模の課題に向き合い、人類に貢献し、国際社会を主導する覚悟」として語り、自国の平和と安定だけでなく、国際社会全体に関わる国際課題に取り組むことを明言していた。

 こうした普遍的価値の擁護を掲げた日本の外交や安全保障政策は、中国の経済的・外交的な影響力の高まり、特に2013年に習近平政権で「一帯一路」構想が提唱され、日本で対中警戒心が高まったことが影響している。実際、2010年代、中国はその経済力を背景に、OECD開発援助委員会(DAC: Development Assistance Committee)の基準に囚われない支援を行うことによって、多くの非民主主義国家との連携を強化してきた。また、南シナ海仲裁裁判所の裁定を「断固反対」として中国が拒絶したという事実は[4]、東シナ海での中国の強硬姿勢と相まって、日本の安全保障に関わる極めて深刻な懸念と認識されるようになった[5]。

 これらを背景に、安倍政権下では「武力行使には至らない事態」(グレーゾーン)に対処するための「切れ目」のない対処を可能とする内容を含む、平和安全法制[6]を国会で成立させるとともに、インド洋・太平洋間で民主主義の定着・市場経済の推進を目指す「自由で開かれたインド太平洋」(FOIP)が掲げられるようになった。岸田首相も、普遍的価値を共有する国際的枠組みを強化してきた安倍政権の成果を引き継いでいる。上述した所信表明演説においても、普遍的価値を守り抜く手段として、アメリカをはじめとした、オーストラリア、インド、ASEAN、欧州などの同盟国・同志国と連携し、「自由で開かれたインド太平洋」を推進していくことが述べられていた。

ロシアによるウクライナ侵攻に対する対応と日本の立場

 国際社会の普遍的価値の擁護を掲げた岸田政権が試練に直面したのが、2022年2月にロシアがウクライナに侵攻し、核保有国による国際秩序に対する挑戦という事実が現実となったことである。岸田首相は、ロシアによる侵攻が明らかになった直後に、ロシアによる侵攻を批判し、翌日にはロシアに対する経済制裁を実施することを明らかにした[7]。その後、岸田首相は、ロシアに対する経済制裁を強化するだけでなく、ウクライナに対しては緊急人道支援、復旧・復興支援、国際機関を通じた支援などを実施してきた。

 岸田首相はウクライナ情勢への対応を、単なるウクライナ支援に位置づけるのではなく、ロシアによるウクライナ侵攻を、国連憲章に掲げられている紛争の平和的解決義務、武力不行使原則といったルールや、国の領土保全や政治的独立を侵すものであると位置づけきた。2022年の国連総会での一般討論演説においても、次のように述べている。

法の支配に根付いた国際秩序が維持されることが不可欠です。国連はそうした秩序形成に中核的な役割を担ってきました。ところが現在、この国際秩序の根本が大きく揺らいでいます。ロシアのウクライナ侵略は、国連憲章の理念と原則を踏みにじる行為です。力による支配ではなく、全ての国が法の支配の下にあるのが重要であり、断じてそのようなことは許してはなりません[8]。

 こうした岸田首相の立場は一貫しており、ロシアに対する対応をめぐって国際社会の分断が深まる中において、国連憲章が掲げるルールを再確認し、また「法の支配」の重要性を国際社会に繰り返し訴えてきた[9]。

 同時に、岸田首相はNATOとの連携強化も進めてきた。2022年に、日本の首相として初めてNATO首脳会合に出席し、ロシアによる侵攻が欧州だけの問題ではなく、国際秩序の根幹を揺るがすものであり、欧州とインド太平洋の安全保障は切り離して考えることができないことをNATO諸国に語りかけてきた[10]。その際に、岸田首相は「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と語り、東アジアにおいて中国の海洋進出に伴い台湾有事が発生する可能性が高まっていることに対する危機感も明らかにしてきた。こうした危機感は、G7広島サミットの記者会見で「世界のどこであれ、力による一方的な現状変更の試みは決して認められません」[11]と述べたように、明確に国際社会の全体問題として捉えられるようになった。

課題を残した核軍縮

 広島県選出の国会議員として岸田首相は核廃絶に対しては強い思い入れがあったと考えられる。それは、首相就任前に出版された著作の冒頭にある「核全廃に向けた松明を…この手にしっかり引き継ぎたい」という言葉からも窺うことができる[12]。実際に、G7広島サミットでは、各国の首脳たちとともに広島平和記念資料館を訪問しただけでなく、「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」を採択することに成功した。NPT再検討会議が行き詰まりを見せる中で、G7首脳で核軍縮に向けたビションを採択し、「核戦争は決して戦われてはならない」ことを再確認することができたことは大きな成果であっただろう[13]。

 しかし、日本をとりまく安全保障環境の悪化から、アメリカとの同盟関係を強め、核兵器依存を深める方針をとってきた岸田首相にとって、現状を打開する新しいアイデアを示すことはできなかった。「広島ビジョン」では、NPT体制の維持、包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効、核兵器用核分裂性物質生産禁止条約(FMCT)の推進など、これまでの国際社会での取り組みを再度取り組むことが再確認されるにとどまり、被爆者から落胆の声も上がっていた[14]。

 岸田首相はあくまでも米国の核の傘による拡大抑止の維持という現実的な方針との間でバランスをとったと考えているのかもしれないが、国際社会全体で核軍縮に対する機運が高まらない現状を打破するためには、核禁止条約会議へのオブザーバー参加など新しいアプローチや取り組みが示されてもよかったのではないか。

今後の日本外交の課題

 ここまで論じてきたように、岸田政権では、G7広島サミットなどの機会も捉えながら、国際社会の普遍的な価値を擁護しようとする日本外交の存在感を示してきたと評価することができるだろう。実際に、2024年4月に岸田首相がアメリカを国賓として訪問した際、アメリカ議会で「私たちは共に大きな責任を担っています」と、国際秩序を守るためにより大きな責任を担うことを述べたことに対して、拍手で歓迎された[15]。国内においても、安倍政権時代の残された課題でもあった安保三文書の改定、敵基地攻撃能力、防衛費増額などの課題を確実に進め、日本の防衛・外交政策をより踏み込んだ形で実現させてきた[16]。

 しかし、普遍的な価値を掲げた外交を展開することは、日本の安全保障だけでなく、国際社会が抱えるさまざまな課題へのコミットメントがなければ、それは単なるビジョンの提示で終わってしまう。岸田首相は、日米が国際秩序に対して責任を有している「グローバル・パートナー」であるとして、地域の平和と安定の礎としての日米同盟の強化を進めた。また同年7月にはNATO首脳会議にパートナー国と参加し、欧州大西洋とインド太平洋の安全保障は不可分であり、地域を越えた安全保障協力の重要性を唱えてきた。次期首相には、岸田首相のレガシーとも言える連携が強化された日米関係やNATO諸国との協力を活用して国際社会の課題に積極的に関与する実践的な力と国際社会の普遍的価値を擁護するという理念に向けた政策を形にする実行力が求められるだろう。

(2024/09/17)

脚注

  1. 1 「岸田首相会見 自民総裁選に不出馬を表明 首相退任へ」NHK、2024年8月14日。
  2. 2 現時点で、海外では岸田首相に対する本格的な評価は行われていないが、外交・安全保障政策について高く評価している論考も掲載され始めている。例えば、Mirna Galic, “How Fumio Kishida Shaped Japan’s Foreign Policy,” United States Institute of Peace, August 22, 2024.
  3. 3 「第二百五回国会における岸田内閣総理大臣所信表明演説」首相官邸、2021年10月8日。
  4. 4 「メディア総動員 中国が批判展開 南シナ海判決」日本経済新聞、2016年7月13日。
  5. 5 古賀慶「米中対立の行方と日本の進む道」五十嵐隆幸・大澤傑編『米中対立と国際秩序の行方:交叉する世界と地域』東信堂、2024、269頁。
  6. 6 外務省「安全保障法制の整備:いま・なぜ・平和安全法制か?」2023年4月5日。
  7. 7 「ウクライナ情勢を踏まえた制裁措置等についての会見」首相官邸、2022年2月23日。
  8. 8 「第77回国連総会における岸田内閣総理大臣一般討論演説」首相官邸、2022 年9月20日。
  9. 9 この点については、拙稿「G7広島サミットの成果と今後の日本外交の課題:「価値をめぐる外交」についての歴史的教訓から考える」国際情報ネットワーク分析IINA、2023年6月21日を参照のこと。
  10. 10 「岸田総理大臣のNATO首脳会合出席(結果)」外務省、2022年6月29日。
  11. 11 「G7広島サミット議長国記者会見」首相官邸、2023年5月21日。
  12. 12 岸田文雄『核兵器のない世界へ―勇気ある平和国家の志』日経BP、2020年、4頁。
  13. 13 「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」外務省、2023年5月19日。
  14. 14 「G7広島サミット閉幕 被爆者や関係者などの受け止めは」NHK、2023年5月21日。
  15. 15 「米国訪問 -3日目-」首相官邸、2024年4月11日。
  16. 16 「ハト派」とみなされてきた岸田首相だからこそ実現できたという見方もある。「(緊急連載 岸田政権の3年:中)安保大転換、「ハト派」ゆえ」朝日新聞、2024年8月16日。