はじめに

 今年も8月6日に広島で、9日には長崎で平和祈念式典が開催された。式典では、3年前に国連で採択された核兵器禁止条約に参加し、日本政府に核保有国と非核保有国との橋渡し役を果たすことを求める声が広島、長崎の両市長から上がったが[1]、政府からは新たな方針は示されなかった[2]。

 現在、新型コロナウィルス感染症の世界的な広がりの影響を受けて、核軍縮交渉は停滞している。今年4月末から予定されていた5年に一度の核拡散防止条約(NPT)の再検討会議は「状況がゆるすようになるまで」延期された[3]。5年前と同様に決裂すれば[4]、NPT体制が形骸化しかねない状況である。また、2021年以降の米ロ間の新戦略兵器削減条約(新START)の扱いについても不透明な状況が続いている。

 こうした状況を踏まえて、被爆から75年という節目に、戦後日本外交の原点と核軍縮の取り組みを振り返り、日本外交の可能性について考えてみたい。

はじめに

戦後日本外交の原点と「国際連合中心」

 1956年12月に、日本は国連への加盟が認められ、本格的な国際社会への復帰を果たした。当時、加盟が認められた国連総会の議場において、外務大臣を務めていた重光葵が「いづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であることを信ずるものであります」[5]と述べ、平和愛好国としての日本外交の抱負を語った。そして、翌年には『わが外交の近況』(外交青書)の第1号が発行され、「外交活動の三原則」として、「国際連合中心」、「自由主義諸国との協調」および「アジアの一員としての立場の堅持」が掲げられた[6]。

 しかし、この「国際連合中心」という原則は、当初より不安定な土台の上に打ち出された原則であった。日本の国連加盟が認められた時期は、すでに東西対立が深刻化しており、岸信介政権では、日米安全保障条約の改定が大きな課題となっていたように、アメリカとの関係性が重視されていた。どれほど岸の意向が働いたか明らかではないが、翌年に発行された『わが外交の近況』第2号では、「国際連合中心」という原則よりも、西側諸国との協調が前面に押し出されていった[7]。この「国際連合中心」という原則は、当時、外務省参事官であった齋藤鎮男が指摘するように、「当時、日本がとった立場というのは、米国に絶対ついていくというのではなくて、やはり『袞竜の袖』に隠れるため」[8]という意味合いが強く、日米安全保障条約も国連の原則に合致するものであることを示すために掲げられた原則であって、国際社会に対する具体的な貢献策を伴った原則ではなかった。

戦後日本外交の原点と「国際連合中心」

第11回国連総会での日本代表団

 しかしながら、「国際連合中心」という原則は、平和愛好国としての価値観がまったく反映されていなかったわけではない。あまり注目されていないが、『わが外交の近況』第1号では、「国連における活動」として国連総会第一委員会における「核実験禁止問題」に多くのページ数が割かれている。もちろん、アメリカのビキニ環礁での水爆実験により、第5福竜丸が被爆するという事件があったことも影響しているが、唯一の被爆国としての戦後日本の問題意識や使命観を読み取ることもできる。

  当時、軍縮・核不拡散問題を扱う国連総会第一委員会を担当していたのは、国連加盟が認められる直前まで政府代表(オブザーバー)を務めていた澤田廉三であった。少し長くなるが、委員会での澤田の演説(原文英語)を引用したい。

 「軍縮への建設的努力は政治情勢が改善されるまで待つべきか、あるいは軍縮協定が成立してこそはじめて政治情勢が改善されるのかという点については議論が岐れるところであろう。しかし、われわれとして為すべきことはこの議論に時を費すべきところではなく、現在の政治情勢の下で実現され軍縮の目的である国際平和の確保へと導くと考えられるあらゆる軍縮手段を続行することである。…私は、大国特に核兵器をもつ大国の指導者に対し、従来より以上に率直かつ建設的な会談を行い、われわれが戦争の恐怖、不幸にさらされることなく生きていける世界を実現する努力において指導する立場に立つことができるようになるよう望むものである。」[9]

 この時、澤田は、核実験は人類の安全のみならず、経済活動にも関する問題であるとして、国連として速やかに実行可能かつ効果的な具体的措置を採るべきであることを委員会で主張し、「全般的軍縮と核実験中止の実現への第一歩」として核実験の事前登録制度の創設を訴えた[10]。この提案は、多数の加盟国から支持を受けたが、核実験の即時禁止の決議案を提出したソ連は、共同提案は合法的に核実験を是認するものであるとして反対した。また、アメリカからも賛同を得ることができなかったため、この共同提案は表決に付されることはなかった[11]。

 結果的に、澤田の提案は国連の場では受け入れられなかったが、帰国した澤田は日本の利害のみを主張するのではなく、世界正義に訴えた日本の提案は、ニューヨークタイムズにも取り上げられアメリカにおいて反響を呼んだように、国際世論を喚起するものであり意義ある取り組みであったと振り返っている[12]。また、別の小論では、澤田は「国際世論の間に立つて融和を図り、…その指導をしていくことができる」[13]と戦後日本外交の可能性を見出していた。当時、国際社会に復帰したばかりの日本であったが、外交現場では大きな目標を掲げて取り組んでいたことがわかる。

第11回国連総会での日本代表団

おわりに

 戦後日本外交を振り返ると、アメリカに安全保障を依存しながらも、国際社会の普遍的な価値を追求した日本独自の取り組みがあったことがわかる。「国際連合中心」という原則には内容が伴わなかったと指摘されるが、第11回国連総会における日本代表団の取り組みを見れば、平和愛好国としての戦後日本外交の使命や可能性を見出すことができる。このコラムでは、核兵器禁止条約への参加問題については判断を下すことはできないが、歴史を振り返れば、核軍縮への取り組みは戦後日本外交の中心的な課題であったことがわかる。外務省では2017年から開催されてきた「核軍縮の実質的な進展のための賢人会議[14]の結果を踏まえて、今年3月には「核軍縮の実質的な進展のための1.5トラック会合」が開催されている[15]。被爆から75年目という節目の機会に、普遍的な価値を追求する力が弱まっている現代国際社会の中で、国際世論を牽引する積極的な外交政策に期待したい。

(2020/9/18)

脚注

  1. 1 松井一實(広島市長)「平和宣言」 2020年8月6日田上富久(長崎市長)「長崎平和宣言」2020年8月9日
  2. 2 核兵器禁止条約に対する外務省の立場は、外務省「軍縮・不拡散と我が国の取組(概観)」2020年4月10日を参照
  3. 3Gustavo Zlauvinen, “Letter from the President-designate to all States Parties regarding the postponement of the NPT Review Conference,” UN Office for Disarmament Affairs, Conference of the Parties to the Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons, 27 March 2020
  4. 42015年に開催されたNPT再検討会議では、中東地域の非核化にアメリカが反対したために、議論をまとめた文書を採択できないまま閉会した。「NPT会議が決裂 核軍縮、文書採択に失敗 米英、中東非核構想に反発」『朝日新聞』2015年5月23日。
  5. 5 外務省「国際連合第11総会における重光外務大臣の演説」昭和31年12月18日
  6. 6外務省『わが外交の近況』第1号、1957年9月、7頁。
  7. 7外務省『わが外交の近況』第2号、1958年3月、6頁。
  8. 8齋藤鎮男『続・国際連合の新しい潮流』新有堂、1991年、206頁。もともと「袞竜(こんりょう)の袖」は「天子の威徳」の例えであるが、ここでは日米安全保障条約の改定に向けた国会対策として、国連の権威を借りようとすることを意味している。
  9. 9「1月16日沢田代表の発言(原文英語)外務省『わが外交の近況』第1号、125−126頁。
  10. 10カナダとノルウェーとの共同提案であった。井口貞夫監修、鹿島平和研究所編『日本外交史』第32巻、鹿島出版会、1972年、203頁。
  11. 11アメリカは核実験に関する実質的議論を行う時間的余裕がないことを理由に挙げ、すべての提案を軍縮委員会および小委員会に付託し、慎重審議させる趣旨の決議案を提出するとともに、全会一致での採択を希望して、日本代表団に対しても共同提案国となることを勧誘していた。同上書、203−204頁。
  12. 12 「原水爆の実験禁止 日本の提案に反響」『朝日新聞』1957年3月5日。
  13. 13 澤田廉三「国連における日本の使命」新民会『新民』第8巻第3号、1957年3月、27頁。
  14. 14 「核軍縮の実質的な進展のための賢人会議」外務省『核軍縮・不拡散』2019年10月21日
  15. 15 「「核軍縮の実質的な進展のための1.5トラック会合」の開催(結果)」外務省『報道発表』2020年3月6日