はじめに

 中国で最初に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染者が確認されてからわずか3ヶ月で、感染は世界中に拡大し、3月11日には世界保健機関(WHO, World Health Organization)が「パンデミック(世界的感染)」の状態にあることを認定した。WHOは、1948年に設立された保健問題を扱う国連の専門機関である。普段はあまり注目される国際機関ではないが、1923年に国際連盟の常設附属機関として設立された国際連盟保健機関(LNHO, Leagues of Nations Health Organization)の後継機関であり、戦前から続く歴史ある国際機関の一つである。
  これまで感染症対策において、天然痘の撲滅など様々な実績を上げてきたWHOであるが、COVID-19への対処をめぐっては、多くの批判が向けられている。4月14日には、トランプ米大統領が、WHOの対応が中国よりであるとして、検証を終えるまでの間、拠出金の支払いを停止することを明らかにした[1]。このように、保健問題の専門機関であっても、米中対立をはじめとした国際政治の影響を強く受けている。
 このコラムでは、国家間の政治的対立の中においても、国際保健協力を発展させてきた人類の歴史を振り返り、COVID-19の収束に向けた国際社会の課題について検討したい。

はじめに

19世紀末からの国際保健行政の発展

 19世紀末、ヨーロッパ各地でチフスやコレラなどの感染症が蔓延し、感染症対策が公衆衛生上の課題となっていた。そのため、これら感染症の対策を検討する国際会議がヨーロッパで定期的に開催されるようになり、1907年には伝染病の検疫機関として公衆衛生国際事務局(Office International d'Hygiene Publique)が設立された。同様に、アメリカ大陸では、汎米衛生事務局(Pan American Sanitary Bureau)がワシントンに設立されるなど、地域レベルでの保健協力が整備され始めていた。
 そして、第一次世界大戦後には、各地域を包括する形で国際連盟保健機関(LNHO)が設立された。大戦における不衛生な塹壕戦や兵士の国際的な移動に伴い、赤痢、チフス、コレラ、麻疹、スペイン風邪の拡大が深刻化しており、正確な死者数は把握されていないが、戦争被害にも劣らない被害が発生した[2]。大戦後も、感染症の蔓延が大きな問題となっており、戦後の経済再建に深刻な影響を与えることが懸念され、国際連盟の下に保健問題を扱う常設機関を設立する必要性が共有されていた[3]。
 このように国際保健行政が発展した背景には、第一次世界大戦の直接的な影響もあるが、19世紀末に起こったグローバル化の進展という大きな文脈を見落としてはならない。この時期には、世界に広がる物品、資本、労働のネットワークが発展し、保健問題の他にも、労働や知的協力など社会課題についての共通の規則を制定し、共通の利益を確保しようとする認識が出現しており[4]、ヨーロッパ域外の国も含めて、さまざまな社会課題の協力が展開された[5]。

19世紀末からの国際保健行政の発展

国際保健協力における政治的せめぎあい

 1920年代以降、国際連盟保健機関(LNHO)は、マラリア対策や感染症情報共有、血清やビタミンの国際標準化の取り組みにおいて大きな成果を残したが、国家間の対立や緊張関係に影響を受ける場面も多かった。例えば、連盟理事会の下では、安全保障に関する問題が優先的に検討されていたため、形式的な承認を得る際にも時間を要する傾向があり、また予算的な制約も大きく、LNHOが主催する会議の開催頻度が減らされることもあった[6]。また、LNHOが実施する技術協力も、各国の政治権益と衝突することもあった。国際連盟が実施する対中国技術協力の一環で、LNHOの保健部長を務めていたルートビッヒ・ライヒマンが中国国民政府に対して広範な保健衛生分野で技術協力計画を策定したが、計画があまりに壮大であり、中国に多くの権益を有する日本やイギリスなどが反対することもあった[7]。
 このように政治的せめぎあいの中にありながらも、国際連盟の社会課題における活動は活発なものであった。こうした中で、1939年には、国際連盟理事会において、他の社会問題も含めて、「技術的な問題」を検討する委員会が設立された。議長となったスタンリー・ブルースは、経済や社会問題の国際的協力の必要性や有用性が高まっていると述べ、安全保障領域から独立した、「経済及び社会問題」として取り扱うことが相応しいと報告した[8]。このブルースの改革は、第二次世界大戦後の国連の経済社会理事会の設立につながったといわれている[9]。

感染症管理における政治協力の可能性

 上で見たように、社会課題に対する技術的な協力は、国家間の対立関係を反映する側面もある。現在、医療体制が脆弱な紛争地でのCOVID-19の感染拡大を避けるために、国連のグテーレス事務総長によって「世界中で激化する武力紛争の停戦が呼びかけられているが[10]、米中両国の足並みは揃わず、国連安全保障理事会が効果的な決議を出すことができずにいる[11]。

感染症管理における政治協力の可能性

 しかし、感染症に対する取り組みは、政治的対立を収束させ、国際協調体制を導かせる可能性を有している。近年においても、米中は戦略的な対立関係にあっても保健衛生分野では協力関係を築いてきた実績もある。2003年に流行したSARS(重傷急性呼吸器症候群)や2009年の新型インフルエンザでは、アメリカは専門家を派遣し、共同研究を実施するなど中国を支援してきた[12]。もちろん、現在のように米中対立が激化していない時期のことではあるが、歴史を振り返れば、感染症をめぐる問題は、国家間対立を乗り越えて、協力関係を深めようとする契機となる可能性を有していることがわかる。
 国際政治の影響を強く受ける感染症管理について、『人類と病』の著者である詫摩佳代は、その著書の中で、感染症の管理は他の問題に比べて、協力することで、いずれの国も利益を得ることができ、また他国にその経験を共有することで、双方の利益になると指摘し、「感染症協力に内在する潜在力を最大限生かす政治的努力」が求められると述べている[13]。COVID-19などの感染症の管理は、他の政治課題に比べれば、各国の目標が明確であり、共通利益を導きやすい問題であることがわかる。

おわりに

 国際保健行政の展開を見たように、感染症管理は、政治的な対立の中にあっても、協調体制が導かれる可能性が大きい問題である。21世紀最初の公衆衛生上の危機であったSARSの体験を踏まえて、国際社会は、2005年に国際保健規則を改定し、WHOの機能を強化してきた実績もある[14]。このWHOの改革は、「ウイルスは国境を認識しない」という考え方が世界で共有された証であると、現在の日本政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長の尾身茂は述べている[15]。
 感染症を抑え込むことで得ることができる共通利益を再確認し、WHOを最大限に活用するためにも、米中対立という狭い視点だけでなく、国際関係を広く冷静に捉える視点が求められている。

(2020/5/22)

脚注

  1. 1 「米、WHO拠出を停止」『朝日新聞』2020年4月16日。
  2. 2 スペイン風邪だけでも、3000万人から5000万人が亡くなったと指摘されており、第一次世界大戦の戦死者数の約3倍に相当する。アルフレッド・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ――忘れられたパンデミック』みすず書房、2009年、10頁。
  3. 3 詫摩佳代『人類と病:国際政治から見る感染症と健康格差』中公新書、2020年、37頁。
  4. 4 入江昭『グローバルコミュニティ――国際機関・NGOがつくる世界』早稲田大学出版部、2006年、28頁。
  5. 5 拙稿「国際連盟の設立と国際社会における普遍性の追求」『国際情報ネットワークIINA』、2019年11月5日。
  6. 6 安田佳代「国際連盟保健機関から世界保健機関へ 1943年-1946年―機能的国際協調の継承と発展―」『年報政治学』2010年2月、196頁。
  7. 7 対中国技術協力については、後藤春美『国際主義との格闘――日本、国際連盟、イギリス帝国』中央公論新社、2016年を参照。
  8. 8 城山英明『国際行政論』有斐閣、2013年、73頁。
  9. 9 同上、74頁。
  10. 10 António Guterres, “Opening remarks of the Secretary-General's appeal for global ceasefire,” 23 March 2020.
  11. 11 「新型コロナで安保理初会合 米中に溝」、『日本経済新聞(電子版)』、2020年4月10日
  12. 12 「「新冷戦」コロナが浮き彫り協力できた衛生分野も対立」『朝日新聞』2020年5月11日。
  13. 13 詫摩、前掲書、145−146頁。
  14. 14 国立感染症研究所「国際保健規則(IHR):世界的な公衆衛生上の安全保障の枠組みの10年:第一部~IHRの歴史~」
  15. 15 尾身茂「感染症が問う人類史的課題――パンデミックにどう立ち向かうか」『外交』Vol.60, Mar./Apr. 2020、8頁。