はじめに

 今から100年前、戦火によって荒廃したパリで、第一次世界大戦の講和会議が開幕した。世界各国の代表団がパリに集まり、ドイツとの講和条件や戦後国際秩序についての議論が行われた。日本も西園寺公望と牧野伸顕らを代表とする総勢約60名の代表団をパリに派遣した。そして、6ヶ月の議論を経て、1919年6月28日にヴェルサイユ宮殿において、講和条約が署名された。この講和条約の第一編は、国際連盟規約で構成されており、世界で初めて普遍的な国際機構の設立が決定されたのも、この時であった[1]。

はじめに

 この国際平和に向けた各国の誓いは、100年という時の流れの中で、ほとんど忘れられてしまっている。今年9月、国際連盟の後継となる国際連合の総会において、トランプ米大統領が「未来は多国間主義者ではなく、愛国者の手にある」と表明し、自国民を最優先する姿勢を改めて明確にした[2]。アメリカに限らず、イギリスのEU離脱や世界各地でのポピュリスト政権の勃興など、多国間主義に背を向ける動きが席巻している。
 このコラムでは、国際連盟からの100年という節目に、国際連盟の挑戦に改めて光を当て、国際社会を支える普遍的価値と日本の役割について考えてみたい。

戦争と平和

 第一次世界大戦によってもたらされた被害がどれほど衝撃的であったかについては広く知られている通りである。5年間という長期間にわたる戦争はヨーロッパ全土を荒廃させ、人々の生活にも大きな影響を与えた。ただし、戦争被害の大きさだけが衝撃的だったわけではない。外交官やエリートたちが有していた戦争と平和に対する考え方を一変させる契機にもなった[3]。
 第一次世界大戦以前、戦争は外交交渉によって利害の調整ができなかったときに、利害の対立を処理するための合法的手段として認められてきた。実際に、1899年及び1907年に開催されたハーグ平和会議では、多くの戦時国際法が整備されたが、戦争に訴える権利については、「国家間ノ関係ニ於テ兵力ニ訴フルコトヲ成ルヘク予防セムカ為、締約国ハ、国際紛争ノ平和的処理ヲ確保スルニ付、其ノ全力ヲ竭サムコトヲ約定ス」[4]と定められただけであった。
 一方、国際連盟は、この戦争観に大きな変更をもたらした。国際連盟規約では、戦争の脅威について「戦争又ハ戦争ノ脅威ハ、聯盟国ノ何レカニ直接ノ影響アルト、否トヲ問ハス、総テ聯盟全体ノ利害関係事項タルコト」[5]と規定し、戦争を当事国同士の私的問題ではなく、国際社会の関心事項として捉えるようになった。もっとも、国際連盟規約では紛争解決の手段としての戦争は依然として認められていたが、国際社会の公共的秩序維持という観点から、国際連盟の定める条件を満たすことが求められるようになったのである。

戦争と平和

社会経済問題における協力

 国際連盟の意義は戦争と平和の問題に限られない。国際連盟は社会問題にも力を入れて取り組んでいた。例えば、1921年に設立された国際連盟保健機関(LNHO)[6]は、連盟事務局保健部長であったポーランド人医師ルードビッヒ・ライヒマンを中心として、伝染病を防ぐために世界各地から情報を集め、伝染病に関する情報を発信し、国境を越えた伝染病の拡散防止において大きな成果を上げた。
 さらに、1922年には、学問や文化における国際協力を促進することを目的に、知的協力国際委員会(ICIC)が設立された。この委員会は哲学者のアンリ・ベルグソンや物理学者のアインシュタイン、キュリー夫人など、当時各分野の最前線で活躍する知識人たちが参加していた。はじめは各国の知識人が抱える課題についての議論が中心であったが、次第に知的・文化交流についても重要な役割を果たすようになった。この運動は、現在のユネスコに引き継がれている。
 この他にも、国際連盟は、原住民の保護、婦人や児童の人身売買の禁止、アヘンなどの有害物質や武器の取引の監視などの国際的問題に対しても積極的に取り組んだ。こうした取り組みは国際連盟事務次長を務め、自らもICICに参加していた新渡戸稲造の言葉にもよく表されている。新渡戸は東京で行われた講演の中で、国際連盟の第一の目的に戦争の防止をあげながらも、戦争を防ぐためには経済、社会問題の協力も不可欠として、「条文に書いていないこと」であっても各国が協力していく必要があると主張していた[7]。

国際共同体としての国際連盟

 当時、ほとんどの独立国が参加し、紛争の平和的解決、軍縮、保健衛生問題、難民問題、労働問題など多岐にわたる問題について取り組みがなされたことは、国際社会を一つの共同体として捉える考え方があったと言うこともできるだろう。上で紹介した新渡戸はその典型的な例である。新渡戸は社会問題における国際協力の重要性を認識していた人物であるが、その背景には普遍的な道徳観があった。1929年に開催された太平洋問題京都会議では、国家の「絶対独立絶対主権」という誇張的な考えを否定し、国際連盟の取り組みを通して「相共通した普遍的な正義の観念」を培っていくことの重要性を訴えていた[8]。
 これまで当事国同士の問題であった戦争やさまざまな国境を越えた課題が、まさに第一次世界大戦を契機に、「われわれ」の問題として捉えられるようになった。これらの課題を一国の努力だけではなく、多国間の枠組みにおいて解決しようとする考え方が誕生したことは、国際社会にとって大きな転換点であったと言えるだろう。

結びにかえて

 戦争の問題から社会問題まで、国際社会はさまざまな課題を抱えている。それぞれが複雑な問題であり、国際機構の枠組みをもっても解決することは難しい。しかし、国際課題を「われわれ」の問題として捉えるようになったことは、国際連盟の意義として改めて評価されるべきではないだろうか。こうした国際社会を支える普遍的価値こそが、国際社会を社会たらしめていると考えることもできる。

結びにかえて

 パリ講和会議の後、日本は国際連盟の常任理事国となり、事務次長の地位にあった新渡戸とともに、世界の平和に責任を持つ立場にあった。しかしそれにも関わらず、満州問題を契機として、国際連盟を脱退し、国際秩序維持に貢献するどころか、その逆の道へと突き進み、自国をも滅ぼすに至った。
 日本は、トランプ主義に代表される国際社会での分断が進みつつある今こそ、国際連盟の挑戦を振り返り、国際社会の中における自らの立ち位置を再認識する必要があるだろう。

(2019/11/05)

脚注

  1. 1 国際連盟が正式に設立されたのは、ヴェルサイユ条約が発効した1920年1月10日である。
  2. 2 「〔多国間主義〕の危機、国連に試練」『日本経済新聞』2019年10月1日。
  3. 3 小和田恒・山影進『国際関係論』放送大学教育振興会、2002年、86-87頁。
  4. 4 国際紛争平和的処理条約第1条
  5. 5 国際連盟規約第11条
  6. 6 詳細は、安田佳代『国際政治のなかの国際保健事業』ミネルヴァ書房、2014年を参照。
  7. 7 新渡戸稲造「国際聯盟の組織と活動」『新渡戸稲造全集』教文館、1969年、第 4 巻, 407–408 頁。
  8. 8 新渡戸稲造「太平洋問題京都会議 開会の辞」鈴木範久編『新渡戸稲造論集』岩波書店、2007年、426頁。