はじめに
ウクライナにロシア軍が侵攻して以来二年半が経過した。当初キーウ陥落が危惧される中、ウクライナ軍の善戦は目覚ましく、ロシア軍の攻勢は早々にとん挫する。ロシアはキーウ周辺の戦線を整理した上で東部と南部とに兵力を集中し、いったん防勢に転じた。ウクライナの反転攻勢に備えるための防衛線を強化したのだ。西側の支援の下に昨年夏に開始されたウクライナの反転攻勢は、地雷原やさまざまな障害と強力な砲兵に保護されるロシア軍陣地に阻まれ、その進展は大方の期待に副うものではなかった。実際、下図が示すように、ウクライナ南部及び東部の前線は昨年夏以来大きく変化していない[1]。8月上旬、ウクライナはロシアのクルスク州に対して越境攻撃していることを発表した。ウクライナ軍指導部が常々指摘しているように主導権を取り続け[2]、ロシアを後手に回らせる効果は得られそうだ。ただし突出部が小さいこと、また、重要な南部戦線及び東部戦線から離れていることから、決定的な成果を得ることは難しそうだ。
「手詰まり」という状態がもたらすもの
昨年11月、ウクライナ軍総司令官(当時)ザルジニー大将は、エコノミスト誌のインタビューに応じ、反転攻勢が勢いを失って第一次世界大戦の西部戦線と同様に「膠着(stalemate)」していることを認めた[4]。ザルジニー大将が用いたStalemateという単語には「手詰まり」という語感がある。戦いの当事者にとって決定的な成果をもたらし得る行動の選択肢がないという意味だ。また、同大将は、打開(breakthrough)すべき現状について、引き分け状態までを含むStalemateに比してより深刻なニュアンスを持つ「行き詰まり(deadlock)」とし、打開のためには抜本的な技術的革新が必要であるとした。よっぽどなことがない限りウクライナにとって戦争状態からの出口は見えないことを示唆したのだ。
確かに短期的にもめごとが解決しそうな気配はない。当事者にとっても国際社会にとっても事態を抜本的に改善するための手立てを見つけることは容易でなく、「手詰まり」感が否めない。同時にどちらかが決定的な勝利を得ること、あるいは、逆にどちらかが完全に敗北もしくは破綻することも短期的には考えにくい。ウクライナが戦いを続ける意思は堅固にみえるものの、西側の支援で抵抗を続けるのが精いっぱいで、ゼレンスキー大統領が主張するようにロシアに奪われた領土全部を奪回するのは極めて困難と考えるのが妥当だ。一方、ロシアが近々占領地域を大きく拡大してウクライナ全土に迫るような戦果を挙げることも難しそうだ。もちろん深刻な懸念は残る。プーチン大統領が開戦当時から示唆している戦術核兵器の使用という危険だ。ロシアが追い詰められて最後の手段として小型とはいえ実戦に核兵器が使用されれば、全面的な核攻撃の応酬にいたるエスカレーションを制御することは容易でないからだ。この事態、すなわち広島・長崎以来はじめての実戦における核兵器使用という事態すら回避できれば、世界全体が震撼するような展開にはならないように思える。
こう考えてみると「手詰まり」は必ずしも最悪のシナリオではなさそうだ。むしろ、最悪の事態を当面回避するための現実的な選択肢としてとらえるべきなのかもしれない。
「手詰まり」のコスト:「陣地戦」と「消耗戦」
「手詰まり」という状態に関して直ちに想い起すのは、第一次世界大戦の塹壕戦だ。参戦国の多くが短期決戦を企図していたにも関わらず4年という長期にわたる消耗戦に陥った。ドイツもフランスも開戦初頭に相手の背後に回り込んで敵の主力を包囲して殲滅すること、つまり大胆な機動戦による短期決戦を企図したが、結果的には緒戦からほぼ正面衝突、4年間にわたってがっぷりよつの陣地戦で寸土を争い続けた。この戦争は、900万人を越す軍人と1,000万人に及ぶ民間人が犠牲になる大消耗戦でもあった[5]。
前述のザルジニー大将は、反転攻勢がとん挫したことを認めた際にウクライナ軍が不得手な陣地戦(Positional warfare)を強いられていると指摘した[6]。また、ロシアは人員の損耗に対する耐性が強い―言い換えれば人命を軽視する傾向が強いため、死傷者が多くなりがちな陣地戦においてウクライナ軍は不利であると述べた[7]。ところで陣地戦は一般的に長期間にわたりやすく、死傷者も多い。これに対して機動戦は短期決戦に結び付きやすく、戦闘の様相も勇壮で陣地戦ほど凄惨にならないことが多い。がっぷりよつになる前に背後に回り込まれて退路を断たれればまったく勝ち目はなく、全滅するよりは降伏を選ぶことが多いからだ。一方、陣地戦での攻撃側は、重火器の火点としてのトーチカや射撃あるいは退避のための壕などの施設、また、それらを守るための障害などをひとつずつつぶしていかねばならず、防御側はこれを死守しようとするので、時間がかかるし、両側の死傷者も多くなる。膠着した陣地戦は兵員の損耗という深刻なコストをともなう。経済的なコストも甚大だ。国連は昨年末にウクライナを戦災から復興するためには4860億ドルを要するとの見積もりを公表した[8]。日本のGDPの11パーセント、年間防衛費総額の9倍にあたる[9]。
ロシアにとっても戦争のコストは大きい。米国防総省の見積もりによれば、ロシアが開戦以来侵攻部隊の装備を整え、展開し、維持するために要した戦費は2110億ドル[10]、ロシアにとって2023年のGDP1兆8600億ドル[11]の十分の一を超す。ロシア軍の死傷者は本年二月の時点で合計31万5千人にいたったと見積もられる。特に消耗戦(war of attrition)が顕著になった昨年末以降、死傷者数が増大し、一日平均で約千名に及ぶことが報道されている[12]。ロシアの人口は1億4千万人、出生率は1.4と人口の規模とその動態の点で日本と大差なく、少子高齢化の中で若年人口が縮小している。このような状況下で、100万人以上を動員し続けることは容易でないし、ましてや、死傷者の数に意を払わない人命を軽視した作戦が長続きするとは思えない。
こう考えてみると、「手詰まり」という状態を当面の目標とすることは、最悪の事態を避けるための緊急避難策として意味を持つように思える。一方、これを維持するためには多大な努力が必要なことを忘れてはならない。特にウクライナ側が陣地戦による消耗に耐え抜くためには、西側をはじめとする国際社会の支援が不可欠だ。
終わりに代えて:「手詰まり」の展望
ところで、当面は「手詰まり」状態の維持を目指すとしても、その先の行く末を考えない訳にはいかない。第一次世界大戦では、4年にわたる膠着状態の末にフランス及びイギリスを中心とする連合国が勝利する。ロシア革命によるロシアの戦線離脱、アメリカの参戦、ドイツ革命をきっかけとする政変など、欧州全体の国際関係が変化したことが背景にあった。アメリカの参戦というワイルドカードによってバランスが大きく変化したこと、参戦国の国内混乱を背景として戦争継続意思が急激に失われたことがきっかけだった[13]。
もう一つ思い起こすのは、朝鮮戦争以後の朝鮮半島の情勢だ。1950年6月に北朝鮮が南進を開始して以来翌年の春まで、半島南端にあたる釜山から北端の中朝国境にいたる半島全域で機動戦が戦われた後、徐々に陣地戦に移行し、38度線周辺で戦線が膠着した。1953年7月に休戦協定が成立して以来今日まで、非武装地帯を挟んで南北が対峙するが、以来70年以上にわたって戦争が本格的に再燃するような事態にはいたっていない。
ウクライナでの「手詰まり」状態が第一次世界大戦のようにウクライナあるいはロシアのいずれが弱体化することや新しいアクターが参加することをきっかけに解消されるのか、あるいは朝鮮半島のように数十年にわたって続くのかを判断するのは時期尚早だ。ここで重要なのは、当面「手詰まり」状態を作為し、これを崩さないための努力が必要であり、かつ、そのコストが小さくないという点を認識することであろう。
(2024/08/27)
*こちらの論考は英語版でもお読みいただけます。
Implications of a Stalemate in Ukraine – a Realistic Option to Avoid the Worst
脚注
- 1 ウクライナの戦況、特に前線の推移は、いくつかのメディアやシンクタンクのサイトで確認することができる。例えば、BBCは、現在においても各戦線の局地的な戦闘の推移を継続的に地図上で追っている。一方、同局は最近のマクロな動きに関して、2022年11月及び2024年5月現在の態勢図を掲載するだけであり、その間に大きな差異がないこと、すなわちその間にウクライナが行った反転攻勢の成果が大きくないことを示唆している。The Visual Journalism Team of the BBC News, “Ukraine Tracking the war with Russia,” BBC, May 17, 2024.
- 2 Varely Zaluzhny, “On the modern design of military operations in the Russo-Ukrainian war: In the fight for the initiative,” accessed August 24, 2024.
- 3 Kateryna Stepanenko, Riley Bailey, Karolina Hird, Madison Williams, Yekaterina Klepanchuk, Nicholas Carl, and Frederick W. Kagan, “Russian Offensive Campaign Assessment, November 22,” ISW, November 22, 2022; Riley Bailey, Grace Mappes, Christina Harward, Angelica Evans, and Frederick W. Kagan, “Russian Offensive Campaign Assessment,” ISW, May 24, 2024; Christina Harward, Nicole Wolkov, Grace Mappes, Davit Gasparyan, Karolina Hird, and George Barros, “Russian Offensive Campaign Assessment,” ISW, August 19, 2024.
- 4 “An interview with Ukraine’s commander-in-chief on the breakthrough he needs to beat Russia,” The Economist, November 4, 2023, p.45.
- 5 History.com editors, “World War I,” May 10, 2024 Updated(Original: October 29, 2009).
- 6 陣地戦(Positional Warfare)という概念やその特性については、ロシア・ソ連の軍人・軍事思想家であるAlexander Svechinが1926年に出版した自著Strategyの中で詳しく解説している。Pieter Garicano, Grace Mappes, and Frederick W. Kagan, “Positional Warfare in Alexander Svechin’s Strategy,” Institute for the Studies of War, April 2024.
- 7 Varely Zaluzhny, op.cit..
- 8 Orysia Lutevych Obe, “The war rages on but Ukraine’s recovery cannot wait,” Chatham House, June 7, 2024.
- 9 IISS, The Military Balance 2024, Routledge, 2024, p.276.
- 10 Gökhan Ergöçün, “2 years of war: Russia-Ukranie conflict exacts stinging economic costs,” Anadolu Agency, February 23, 2024.
- 11 IISS, op. cit., p.190.
- 12 Julian E. Barnes, Eric Schmitt and Marc Santora, “Russia Sends Waves of Troops to the Front in a Brutal Style of Fighting,” The New York Times, June 27, 2024.
- 13 History.com editors, op. cit..