昨年のミャンマー、アフガニスタンの政変に続き、インド・モディ政権はまたしても「起きてほしくなかった」事態に直面している。2022年2月24日から始まったウクライナへのロシアによる軍事侵攻である。たしかにロシア・ウクライナの問題は、欧米、NATO加盟国にとってのそれと比べると、インドにとっては「遠い問題」であり、当事者意識が強いとは言えない。しかし、ロシアはインドにとって冷戦期以来からの「時の試練を経た」伝統的友好国であり、戦闘機や空母から自動小銃に至るまでのさまざまな兵器、また原子力を含むエネルギー分野でも長年深い協力関係を構築・維持してきた。さらにロシアはソ連時代から国連をはじめとした多国間の枠組みで、カシミール問題や核問題、安保理改革など、つねにインドの味方になってくれる頼りになる大国であった[1]。21世紀のインドは世界のあらゆる主要国・新興国と戦略的パートナーシップ関係を宣言しているが、なかでもロシアは「特別で特権的な(special and privileged)」戦略的パートナーと位置付けられてきた[2]。とはいえ、今回のロシアの行為が主権国家に対する「侵攻」であることは明らかであり[3]、モディ政権はこれにどう対処するか難しい判断を迫られている。

インドの誤算と退避の遅れ

 じつは開戦前のウクライナには、2万人以上ものインド人が暮らしていた。そのうちの9割が現地で医学系の大学に通う学生である。ウクライナは、比較的安価で医師の資格を取得できるとしてインド人には人気の留学先の一つだったからである[4]。

 1月下旬ごろになると、ウクライナ情勢が緊迫の度を高めていることは世界で報じられ、米英などは大使館員を含めて退避を始めていた。にもかかわらず、インドは「事態を注視する」という姿勢に終始し[5]、やっと2月15日になって「学生など不要不急でない」インド人に対して、一時退避を「検討」するよう勧告するという渡航情報が発出された[6]。ところが、そもそもインドとウクライナを結ぶ航空便は数少なく、政府の要請でエア・インディアが22日に最初の商用便を運航させ、254名が帰国したものの、24日にデリーを飛び立った第二便は開戦によって引き返さざるをえなくなった[7]。こうしたことから鑑みるに、外務省を中心にインド政府は、それまでのロシア側の説明を信じ、プーチンが開戦に踏み切るとは思っていなかったものと思われる。

 戦火のなかに多くのインド人が取り残され、犠牲になるインド人も出るなか、政府は「オペレーション・ガンガー」と称する退避プロジェクトを開始した。ウクライナ周辺国のハンガリー、ポーランド、スロバキアなどにチャーター機、軍輸送機を送り、各国政府の調整役として政府高官も派遣して退避に乗り出した。しかしとくにハリコフやスームィなど戦闘の激しい東部での陸路の移動は困難をきわめ、突然の退避勧告には混乱も広がった[8]。退避プロジェクトは3月11日に完了したとされるが[9]、初動の遅れには国内でも批判の声が上がった[10]。

「非難」を避けつつロシアへ不快感を示したインド

 退避の遅れとは対照的に、ロシアの「侵犯」に対するインドの外交上のスタンスについては、野党、メディアの大半は、モディ政権の対応に概ね理解を示している。現在、国連安保理に非常任理事国の議席をもつインドは、1月31日、危機が高まるなか、「静かで建設的な外交」が求められるべきだと主張して、ウクライナ情勢を議題とする公開会合開催の是非をめぐる投票を「棄権」した[11]。この姿勢は2月11日にメルボルンで開かれたクアッド(日米豪印)外相会合でも貫かれ、ウクライナ情勢についても話し合われたものの共同声明には一切盛り込まれなかった[12]。このように、インドはロシアとウクライナの対立を多国間の場で取り上げることには消極的な姿勢を取っていた。

 しかし、二国間の外交交渉によって解決されるはずだというインドの期待は見事に裏切られた。2月21日、ロシアがウクライナ東部の親ロシア派支配地域、ドンバスのドネツクとルガンスクを「国家」承認すると発表すると、急遽開催された安保理でインドは「深い懸念」を表明してロシアへの不快感を示した[13]。さらに軍事侵攻が開始されたことでロシアへの国際的批判が強まるなか安保理に非難決議案が提出されると、インドはここでも「棄権」票を投じたものの、その「投票説明」のなかでは、情勢の急転に「非常に困惑している(deeply disturbed)」とし、「外交の道が放棄されたのは遺憾である」と述べ、ロシアへの失望を隠さなかった。そして在留インド人の安全を「深く懸念している」と表明して、前述の退避プロジェクトに奔走し、ウクライナ側には人道支援物資も送った。くわえて、ここで国際法、各国の主権と領土保全の尊重を訴え、ロシアの今回の行動は行き過ぎであるとのメッセージを発信したのである[14]。3月2日の国連総会の緊急特別会合での非難決議もやはり「棄権」したとはいえ、ここでも同様の「投票説明」で、国際法、主権、領土保全の尊重を強調した[15]。インドがロシアの軍事行動にここまで厳しい注文を付けるのは、旧ソ連時代からみても異例であり、それだけ「裏切られた」との思いが強いのだともいえよう。

深まるクアッドとの溝

 それでも、西側にはインドが、国連の安保理、総会、人権理事会、国際原子力機関(IAEA)での一連のロシア非難決議案をことごとく「棄権」したことへの不満が広がっている。ミュンヘン安全保障会議等のため2月中旬から訪欧したジャイシャンカル外相には欧州各国から方針変更への働き掛けがあり[16]、米国もブリンケン国務長官を筆頭に決議案に賛成するよう説得の「努力を惜しまなかった」とされる[17]。にもかかわらず、結果的にみれば、中国の脅威に対して近年、クアッドの枠組みなどで民主主義国としての連携を深めてきたインドが、今回、中国などと同様の投票行動を取り、権威主義のロシア・プーチン政権への包囲網に加わろうとしなかったことは失望をもって受け止められている[18]。国連総会後に急遽開かれた3月3日のクアッド首脳テレビ会合でもモディ首相の姿勢は変わらず、共同文書にはロシア非難どころか、ロシアへの言及さえなかった[19]。

 米国をはじめとする西側、とくにクアッドの連携強化に積極的であったモディ政権をもってしても、ロシアとの関係を切り捨てられないのはなぜか。依然としてロシアへの兵器依存度が高いことや、中国やパキスタンとの問題で、拒否権をちらつかせながら安保理でインドに有利な行動を取ってくれることへの期待、あるいはロシアとの歴史的絆といったことが、わが国のメディアや専門家からは指摘されている[20]。もちろんそれは間違いではない。しかしそうした事情は、いまに始まった話ではなく冷戦期からのものである。今日ではむしろ兵器調達先も米、仏、イスラエルなど多角化が進んでおり、政治・外交の面では、印米関係は冷戦期と比べると飛躍的に緊密化している。すなわち、インドにとってのロシアの戦略的価値はかつてと比べて相対的に言えば低下している。選択肢の増えたインドはロシアに対して頭が上がらない状況ではもはやない。にもかかわらず、なぜ「棄権」だったのか。

 筆者は、ネルー大のハッピモン・ジェイコブが指摘するように、インドはロシアの圧力に屈したのではなく、自らの利益の見地から行動したものと捉えている[21]。いまだ続く中国による実効支配線への攻勢やパキスタンによるテロ攻撃を踏まえれば、力による一方的な状変更の試みは認めないという原則を主張することはもちろん大事である。しかしそれ以上に、インドが直面する「陸上の」脅威を考えたとき、クアッドや欧州は信頼できるパートナー足りうるのであろうか。インド国内の論調をみると、米国とNATOのアフガニスタン撤退、それに伴い中パと関係の深いタリバンが復権したことは、そうした疑念をインドに強く抱かせたように思われる[22]。クアッドの他のメンバーはいずれも「海洋国家」であるが、インドは「大陸国家」でもあり、そこには大きな関心のずれがある。

インドの選択と今後の難題

 アフガニスタンで示された米国の意思と能力の後退、もっぱら海洋に焦点をあてるクアッドの実態を踏まえれば、中国がパキスタンやその他の周辺国を巻き込んでインドへの攻勢を強めるなか、地政学的にみてもロシアというカードを放棄する余裕はインドにはない[23]。端的に言えば、ユーラシア大陸で孤立したくはないのである。「投票説明」で原則や理念の重要性を強調しつつも、インドを取り巻く「陸上の」地域情勢に照らして、「戦略的自律性(strategic autonomy)」に基づいて国益を優先した選択とみることができる[24]。

 もっとも、インドの今回の選択は、現状では合理的であるとしても、今後の展開によっては不透明さもはらむ。ロシアの攻撃が一層激化、長期化し、人道上の被害が広がっても、またロシアがウクライナの政権を転覆したり、一部を占領した場合でも、ロシアへの非難や制裁に加わらないでいることは、「世界最大の民主主義国」として可能だろうか。あるいは今回の戦争を機にロシアが弱体化し、結果的にロシアの中国依存が深まった場合には、印ロ関係のもつ意味合いが失われてしまうのではないか。しかし米国やクアッドだけに頼ってもインドの安全と国益は確保できない[25]。ロシアのウクライナ侵攻は、インドに堂々巡りの難題を突き付けている。

(2022/03/24)

*こちらの論考は英語版でもお読みいただけます。
After Ukraine Invasion, India Struggles to Define Relations with ‘Special Partner’ Russia

脚注

  1. 1 伊藤融『新興大国インドの行動原理―独自リアリズム外交のゆくえ』慶應義塾大学出版会、2020年、177-182頁。
  2. 2 印ロ間では2000年のプーチン大統領訪印時に「戦略的パートナーシップ」を宣言して以来、首脳の年次相互訪問が続いており、2010年には「特別で特権的な(special and privileged)」戦略的パートナーシップに引き上げられている。“Joint Statement: Celebrating a Decade of the India- Russian Federation Strategic Partnership and Looking Ahead,” Ministry of External Affairs, December 21, 2010.
  3. 3 政府は用いていないが、インド国内メディアもロシアによる「侵攻」と、総じて批判的に報じている。”Putin Invades Ukraine,” Hindustan Times, February 25, 2022.
  4. 4 Ramya Kannan, “Explained | Why do Indians go abroad for medical studies?” The Hindu, March 6, 2022.
  5. 5 “India closely following developments in Ukraine,” The Hindu, January 28,2022.
  6. 6 “Indian embassy in Kyiv asks citizens to leave Ukraine amid rising tensions with Russia,” Hindustan Times, February 15, 2022.
  7. 7 “Air India flight returns midway after Ukraine closes airspace,” The Hindu, February 25, 2022.
  8. 8 たとえばハリコフには、3月2日に当日夕刻までに直ちに退避するよう求める勧告が突如出された。”Indian students given four hours to leave Kharkiv in urgent advisory by Kyiv embassy,” The Times of India, March 2, 2022.
  9. 9 “Jaishankar hails Operation Ganga as students, evacuated from Ukraine's Sumy, arrive in India,” Hindustan Times, March 11, 2022.
  10. 10 “Congress questions delay in rescue operations,” The Hindu, March4, 2022.
  11. 11 “Statement by Ambassador T.S. Tirumurti, Permanent Representative of India to the United Nations,” Permanent Mission of India to the UN, January 31, 2022.
  12. 12 「日米豪印が外相会合「ウクライナの主権保護が重要」」『日本経済新聞』2022年2月11日。
  13. 13 “Statement by Ambassador T.S. Tirumurti, Permanent Representative of India to the United Nations,” Permanent Mission of India to the UN, February 21, 2022.
  14. 14 “Statement by Ambassador T.S. Tirumurti, Permanent Representative of India to the United Nations: Explanation of Vote,” Permanent Mission of India to the UN, February 25, 2022.
  15. 15 “Statement by Ambassador T.S. Tirumurti, Permanent Representative of India to the United Nations: Explanation of Vote,” Permanent Mission of India to the UN, March 2, 2022.
  16. 16 Suhasini Haidar, Jaishankar speaks to EU,U.K. Ministers,” The Hindu, Feb.24, 2022.
  17. 17 Sriram Lakshman, “U.S. ‘spared no effort’ to push India on UN vote,” The Hindu, March 3, 2022.
  18. 18 米議会ではインドへの失望を表明する議員が続出し、インドがロシアから購入を進めているS-400地対空ミサイルシステムについて、「敵対者に対する制裁措置法(CAATSA)」を免除せず、適用すべきだとの声が高まる可能性も指摘される。“‘Disappointed Over UN Show': US Lawmakers Call on India to Distance Itself From Russia,” The Wire, March 3, 2022.
  19. 19 外務省「日米豪印テレビ会議共同発表」、2022年3月4日。
  20. 20 長尾賢「ロシアを非難する国連決議にインドが棄権した理由」『WEDGE Infinity』、2022年2月28日。笠井亮平「インドがウクライナ侵攻に「NO」と言えない事情」『東洋経済ONLINE』2022年3月4日。
  21. 21 Happymon Jacob, “The anatomy of India’s Ukraine Dilemma,” The Hindu, February 28, 2022.
  22. 22 伊藤融「アフガニスタン情勢とインド」『現代インドフォーラム』第52号、2022年1月、10-18頁。
  23. 23 筆者は、冷戦後のロシアはインドにとって、対米・対中関係の「保険」であり、これらの国との交渉の際の「梃子」でもあると位置付けている。伊藤融『新興大国インドの行動原理―独自リアリズム外交のゆくえ』慶應義塾大学出版会、2020年、182-186頁。
  24. 24 同様の視点はたとえば、以下を参照されたいChinmaya R. Gharekhan, “The Ukraine war, India and a stand of non-alignment,” The Hindu, March 2, 2022.
  25. 25 Rudra Chaudhuri, “How Russia’s invasion of Ukraine has undermined strategic choices available to India,” The Print, March 2, 2022.