軍隊と感染症

 本稿は、新型コロナウイルス(COVID-19)がロシアの軍事力に与える影響について、概ね4月末までの情報を取りまとめたものである。

 ロシアに限らず、COVID-19のパンデミックは各国の軍で猛威を奮っている。米軍では空母セオドア・ルーズベルトの艦内で大規模な集団感染(4月半ば時点で約800人が陽性)が発生し、これに際して艦長が海軍上層部に援助を求めた書簡が外部に漏れたことで解任され、その経緯が政治問題化しているほか、これ以外の3隻の空母でも感染者が出た。また、フランス海軍の空母シャルル・ド・ゴール(感染者約650人)やオランダ海軍の潜水艦ドルフィン(感染者15人)でも感染者が報告されているところを見ると、いわゆる「三密」状態になりやすい軍艦の艦内が主な感染場所となっているようだ。特に空母での集団感染が目立つのは、人間でなければできない作業(航空機の整備等)が多く、人口密度が水上戦闘艦艇や潜水艦と比べて格段に高くなるためではないかと思われる。

 ロシア軍でも、最初に確認された3人のCOVID-19感染者のうち1人は北方艦隊の軍人であった。艦艇乗組員であったかどうかは明らかにされていないが、いずれにしても軍隊の生活環境は感染症の危険性と隣り合わせであることはたしかであろう。

飛び火した「対岸の火事」

 ただ、4月初頭までのロシアは、COVID-19をそこまで深刻に捉えていなかったように見える。例えば4月2日の段階では、ロシア全土の感染者は3548人、死者は30人に過ぎず[1]、中国、欧州、米国等でのパンデミックは「対岸の火事」という雰囲気が非常に強かった。

 しかし、その後の1ヶ月で、ロシア国内におけるCOVID-19感染者は爆発的な増加傾向を示した。4月 30日にはロシア国内の感染者数は10万人の大台に乗り、5月3日には1日の新規感染者が1万人を突破した。本稿を脱稿した5月4日の時点では、ロシア全土における感染者数は延べ14万5268人とされている。ロシア政府は主要都市の封鎖や企業の強制的な業務停止によってなんとか感染を押さえ込もうとしているものの、現状ではその効果は不十分と言わざるを得まい。死者については同じく5月4日時点で1356人とされているが、実際には医療従事者などを中心にもっと多くの死者が出ているのではないかという疑惑もある[2]。

 地域別にみると、感染者は首都モスクワ市(4月30日時点で7万4401人)とその周辺のモスクワ州(同1万4939人)、それに第二の都市であるサンクトペテルブルグ(同5346人)に集中しており、やはり人口密集地での感染制御に困難をきたしているようだ。さらに5月1日には内閣の長であるミシュスティン首相が、翌2日にはヤクシェフ建設住宅相が感染していたことまで判明し、ロシアにおけるCOVID-19の蔓延はいよいよ深刻な局面を迎えつつある。

ロシア軍でも広がる感染

 話を再びロシア軍に戻すと、社会全体の感染状況とほぼ同期する形でロシア軍でも感染が拡大していった。特に4月半ばに入ると軍内部での感染に関する報道が相次ぎ、この頃から感染が大規模化したものと見られる。以下、報じられた主な事例についてまとめた(「判明」とあるのは、何らかの形で国防省が事実と認めたもの)。

  • 3月26日:北方艦隊の原潜オリョールにCOVID-19に感染した疑いのある民間人技師が乗艦したとして全乗員が隔離されたとの報道(未確認)[3]
  • 4月14日:北方艦隊の軍人を含む3人の感染が判明[4]
  • 4月16日:チュメニ高等軍事工科指揮学校の生徒14人と文民教員1人の感染が判明[5]
  • 4月16日:ナヒーモフ記念海軍兵学校の校長が高熱で入院していることが判明[6]
  • 4月17日:ナヒーモフ記念海軍兵学校の生徒31人の感染が判明[7]
  • 4月20日:キーロフ記念サンクトペテルブルグ軍事医学アカデミーの生徒55人の感染が判明[8]
  • 4月25日:スヴォーロフ記念トヴェリ兵学校の生徒8人の感染が判明[9]

 以上から明らかなように、4月までに報じられた感染事例は、そのほとんどが軍付属の教育施設におけるものであった。他方、軍の部隊における感染状況については情報が乏しかったが、4月27日には軍内における包括的な感染状況が初めて国防省から明らかにされ、以降は毎日のようにアップデートされるようになった。これを集計した以下の表を見ると、ややペースダウンしつつもロシア軍内でのCOVID-19感染者が増加し続けている様子が読み取れよう。

表 ロシア国防省が発表した感染者数の推移(単位:人)

  軍人 学校生徒 学校教員* 文民職員 合計
4月26日 874 779 192 245 2090
4月27日 901 963 271 254 2389
4月28日 960 1041 277 259 2537
4月29日 1044 1075 277 279 2675
4月30日 1068 1140 283 285 2776
5月1日 1099 1174 209 313 2795
5月2日 1177 1195 209 322 2903
5月3日 1254 1228 209 332 3023
5月4日 1384 1247 209 349 3189

ロシア国防省公式サイトのCOVID-19対策に関する特設ページより筆者作成

* 4月30日までは他の項目と同様に延べ感染者数が記載されていたと見られるが、5月1日以降は4つの教育機関における第一次検査結果のみが記載されるようになった。

 ちなみにロシア軍の定数は約101万人、実勢は90万人程度と見られているので(学校生徒、文民職員等は除く)、現状では定数の0.1%強がCOVID-19に感染しているということになる。この程度であれば軍事組織が作戦能力を喪失することは考え難いが、問題は感染がどこまで拡大するのかが未だ見通し難いという点であろう。また、新たに感染者が判明した場合は、その人物と接触した人物についてもしばらく隔離せねばならず(後述するようにロシア国防省はこうした目的の隔離施設を設置している)、実際に業務を遂行できなくなっている人数は感染者よりも遥かに多数に及んでいる可能性がある。

 実際に影響が出ている分野としては、徴兵が挙げられよう。プーチン大統領が3月30日に署名した大統領令[10]では、4月1日から7月15日までの間に13万5000人が徴兵されることになっているが、徴兵業務を担当する組織動員総局(GOMU)のブルディンスキー総局長は徴兵対象者を部隊へと送る時期を5月20日以降に後ろ倒ししなければならないとの見通しを4月29日の国防省幹部評議会で表明している[11]。

 軍需産業への影響も深刻である。4月9日にプーチン大統領を議長として開催された軍事技術協力委員会では、ロシアの主要軍需産業各社の社長クラスが出席して各社の状況を詳しく報告した。ここでは各報告の内容をいちいち紹介することは避けるが、運転資金の不足やサプライチェーンの断絶が共通の懸念であることが読み取れる[12]。また、弾道ミサイルや軍事衛星の開発・生産企業を傘下に含む国家宇宙コーポレーション「ロスコスモス」では4月30日までにCOVID-19感染者が173人(死者6人)に達していることが明らかにされている[13]。軍に留まらず、軍事力を支える産業部門もCOVID-19によって大きな影響を被っていると言えよう。

COVID-19 vs ロシア軍

 最後に、ロシア軍によるCOVID-19感染対策及び治療の実施状況についても簡単にまとめておきたい。ロシア国防省によると、5月4日時点では以下の方法によって国防省傘下の全軍事部隊及び機関で毎日、予防・診断措置を実施しているとされる。

  • 検疫所5554カ所
  • モニタリング及び応急措置のための巡回グループ
  • 感染を診断するための特別診療所23カ所(診断能力:1万1500人/日)
  • 感染者と接触した者を隔離・医療観察するための施設182カ所(3万人分)
  • 感染者用病床6745床(国防省附属病院内)
  • 移動式治療施設7ユニット(700床分)及び医師・看護師チーム86個
  • 全軍人に対する毎日の検温の義務づけ

 このうち、感染者用病床の一部はCOVID-19の発生を受けて新設された「多用途感染症医療センター」を指すと思われる。プーチン大統領の指示で国防省特別建設局が建設を進めているものであり、本稿執筆時点では既に8カ所がオープンした。最終的には合計16カ所が建設される予定で、残る8カ所については1万2000人を投入して24時間体制で建設作業が進められている。スタッフは、軍医400人を含めて2300人体制とされる[14]。

 軍内部での大規模感染を許したとはいえ、これだけの規模の医療施設を短期間に整備しうる戦略工兵能力と医療スタッフ等を含めた人的動員力の大きさは評価されて然るべきであろう。

(2020/5/7)

脚注

  1. 1 ロシア政府のCOVID-19情報ポータル『ストップ・コロナウイルス』より。以下で挙げるロシア全体の感染者数・死者数はいずれもここから取っている。
  2. 2 「医療従事者、多数死亡か 政府統計に疑念、医師が独自サイト―ロシア」『時事ドットコムニュース』2020年5月1日。
  3. 3 “Экипаж подводного крейсера «Орёл» поместили на карантин,” Би-порт, 2020.3.26.
  4. 4 “Минобороны признало неустойчивость перед новым врагом,” Коммерсантъ, 2020.4.14. このほかに、3人と接触した133人が隔離されて医療観察措置を受けていると報じられている。
  5. 5 “В Тюменском военном училище выявили случаи заражения коронавирусом,” Звезда, 2020.4.16.
  6. 6 “Начальник Нахимовского училища госпитализирован с высокой температурой. Он готовился к параду на Красной площади,” Фонтанка, 2020.4.16.
  7. 7 “46 курсантов и сотрудников военных училищ заражены коронавирусом,” Ведомости, 2020.4.17. この他に同校の教員18人も感染していたという情報もある。
  8. 8 “Минобороны: В Петербурге инфицированы 55 российских курсантов Военно-медицинской академии,” Фонтанка, 2020.4.20. なお、23日には同アカデミーの校長が大量感染の責任を取って辞任した(“Глава Военно-медицинской академии ушел с должности из-за заражения курсантов,” ТАСС, 2020.4.23.)。
  9. 9 “В Тверском суворовском училище у восьми воспитанников нашли коронавирус,” ИНТЕРФАКС-АВН, 2020.4.25.
  10. 10 大統領令の全文はロシア大統領府公式サイトの以下のページで閲覧することができる。
  11. 11 Начальник ГОМУ Генерального штаба ВС РФ рассказал о подготовке к предстоящему весеннему призыву граждан на военную службу, 2020.4.29.
  12. 12 Заседание Комиссии по вопросам военно-технического сотрудничества с иностранными государствами, 2020.4.9.
  13. 13 “Ещё три сотрудника ракетно-космической отрасли скончались от коронавируса – Рогозин,” ИНТЕРФАКС, 2020.4.30.
  14. 14 Минобороны России ввело в строй ещё шесть медицинских центров, 2020.4.30.