はじめに

 2019年末に中国で初めての感染者が報じられた新型コロナウイルス(COVID-19)が日本国内でも広がりを見せるようになって1年以上が経過した。いまだ日本はコロナ禍にあるが、世界ではワクチンの接種が進んでいる先進諸国もあり、経済活動の規制が緩和されはじめた都市もでてきている。このような時期を捉えて、本稿では、昨年から再び注目を集めている「人間の安全保障」の考え方を取り上げて、日本の感染症対策に関する中長期的な貢献策について検討する。

再び注目される「人間の安全保障」

 昨年から、COVID-19に関する日本の貢献策を考える議論の中で、これまで日本政府が国際社会に提唱してきた「人間の安全保障」という考え方に再び注目が集まっている[1]。実際に、昨年9月の菅首相の国連総会における一般討論演説において「人間の安全保障」という用語が盛り込まれた。

この感染症〔COVID-19――筆者注〕の拡大は、世界の人々の命・生活・尊厳、すなわち人間の安全保障に対する危機であります。これを乗り越えるには、「誰一人取り残さない」との考え方を指導理念として臨むことが、極めて重要です。一人一人に着目する「人間の安全保障」の概念は、ここ国連総会の場で長年議論されてきた考え方であります。議長、今回の危機に際し、人間の安全保障の理念に立脚し、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジの達成に向け、「誰の健康も取り残さない」という目標を掲げることが重要と考えます[2]。

 1990年代半ばに登場した「人間の安全保障」は、「生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り…保護と能力強化を通じて持続可能な個人の自立と社会づくりを促す考え方」[3]である。この「人間の安全保障」を日本外交の中に明確に位置づけたのは当時の小渕内閣である[4]。それ以降、2000年の国連ミレニアム・サミットに際して、人間の安全保障委員会の設置を提案するなど国際社会での議論をリードしてきた[5]。この他にも、国連に設置された人間の安全保障基金に対して、繰り返し十数億円の資金提供を行ってきた実績を有する[6]。

 2000年代に入ると、カナダが中心となってとりまとめた「保護責任」という考え方に注目が集まるようなり、またミレニアム開発目標(MDGs)の後継である持続可能な開発のための2030アジェンダ(SDGs)において、「誰一人取り残さない」という人間一人一人に注目した考え方が定着したこともあり、近年は「人間の安全保障」が表立って唱えられる機会はほとんどなかった[7]。

 前述の国連総会での一般討論演説において、菅首相が改めて「人間の安全保障」に言及した背景には、日本国内でも、典型的な形で「人間の安全保障」が脅かされるようになっただけではないだろう。近年、国際社会が経験した重症急性呼吸器症候群(SARS)などの感染症と比べても、COVID-19が先進国や途上国、北半球や南半球を区別することなく、世界中に広がり、世界を一変させたことが大きく影響していると考えられる。

「人間の安全保障」の原点と展開

 「人間の安全保障」の考え方は、国連開発計画(UNDP)による『人間開発報告1994』の刊行によって初めて示されたものである。この報告書では、6種類の脅威(歯止めのきかない人口増加、経済的機会の不平等、過度な国際人口移動、環境悪化、麻薬製造と取引、国際テロ)を重視し、個々の人の生存にとって重要な7種類の安全保障(経済、食糧、健康、環境、個人、地域社会、政治)が掲げられた。この7分野の安全保障が「人間の安全保障」として一括りにされたのである。そして報告書では、人間一人一人の能力向上による選択の自由度拡大と社会経済への参画を可能にする社会構築をめざして、国際社会が行動すべきであると呼びかけられた。

 また、この報告書でUNDPは、必要な政策行動として、領土にこだわる安全保障から人びとの安全保障へ、軍備による安全保障から持続可能な人間開発による安全保障へという比重と関心の変化を提唱した[8]。報告書を読み進めていけば、このような安全保障観の転換を促した背景には、東西冷戦の終結に伴う「平和の配当」を開発支援に呼び込もうとする意図があったことがわかる。つまり、冷戦後の主要国の軍事費減少を踏まえ、国際社会全体で国家安全保障のための軍事費を減らし、その分を途上国の人間開発に回すべきであり、こうした人間開発も重要な安全保障の一角を構成するものであるという論理が背景にあった[9]。

 「人間の安全保障」という考え方が広がるにつれて、上述した「保護責任」という新しい考え方などとともに、開発や平和を個々人の問題として捉え、その問題に国際社会が関わる必要があるという見方が提起されるようになった。実際に、テロや感染症などの新しい脅威への関心や、国内での人権侵害状況への関心の高まりから、2003年にはアナン国連事務総長によって、新しい国連の役割を検討するハイレベル委員会が設置され、翌年には「もっと安全な世界へ——我々が共有する責任」[10]と題する報告書がまとめられている。そして、これを踏まえて、アナン事務総長は「もっと大きな自由を——安全、開発、人権をすべての人に」と題した国連改革案の中で、「貧困からの自由」「恐怖からの自由」「尊厳を持って生きる自由」という3つの自由を重視することが示した[11]。こうして、冷戦後の国連が問題とすべき安全の考え方には大きな変化がもたらされた。

感染症対策における日本の貢献策

 日本政府が中心となり提唱してきた「人間の安全保障」の考え方は、どのように感染症対策に活用できるのだろうか。短期的な貢献策としては感染が蔓延している発展途上国に対する財政的、技術的な支援、またワクチンの公平な供給など喫緊の課題に対処することが重要であるが、中長期的な視点での貢献策を考える上では、将来的に日本政府が国際社会の中でどのような役割を果たすべきかという土台となる考え方が求められるだろう。この点において、筆者は「人間の安全保障」に注目することが有益であると考えている。

 しかしながら、1990年代と同じように「人間の安全保障」を日本外交の中心に捉え、その重要性を唱えるだけでは不十分であろう。「人間の安全保障」が唱えられたポスト冷戦期は、主要国の軍事費が削減された時代であったが、近年はコロナ禍にもかかわらず、世界の軍事支出の増大が続き、2020年は、1998年以降ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が統計をとりはじめてから最高額となった[12]。SIPRIの報告書では、こうした潮流の変化の理由として、中国やロシアが長期的な軍事の近代化と拡大を続けていることと、その両国との戦略的競争にさらされているアメリカの軍事費の拡大、そしてインドが隣国パキスタンや中国との紛争などにより軍事費を拡大していることなどが言及されている[13]。こうした拡大傾向が続けば、軍事面の比重が大きくなり、冷戦後の国際社会が取り組んできたテロ、気候変動、感染症、人間開発などの課題を非伝統的安全保障として取り組んできた考えを後退させ、本来取り組むべき安全保障観を狭めてしまう可能性も否定できない。

 こうした状況を踏まえると、「人間の安全保障」の考え方を基礎に、感染症対策を広義の安全保障として位置づける知的作業が必要となるだろう。日本政府はこれまでもG7/8などのサミットの中で感染症に関する問題を提起し、ワクチン開発・供給やユニバーサル・ヘルス・ガバレッジ(UHC)などの議論をリードしてきた[14]。こうした実績を踏まえながら、国連などの場において、感染症管理やワクチンの共同開発を「人間の安全保障」の問題として捉えて、議論をリードすることが求められる。そのためには、我が国の国家安全保障局(NSS)がCOVID-19についての水際対策や経済的な影響を議論するだけでなく[15]、感染症対策を安全保障政策の一環として、国内対策と国際貢献策の双方を検討すべきではないだろうか。

おわりに

 本稿では時代を遡り「人間の安全保障」という概念の出発点やその展開を踏まえつつ、COVID-19に対する日本の貢献策について検討を行った。「人間の安全保障」が打ち出された冷戦後の世界と米中露の戦略的競争の時代にある現代では、国際情勢が大きく異なり、単に「人間の安全保障」を提唱するだけでは、実質的な議論をリードすることは難しいかもしれない。しかし、これまでの「人間の安全保障」の提唱や国際保健行政に関する日本の実績をアセットとして活用しつつ、国際保健課題に対して中長期的な視点から貢献策を打ち出すことは十分に可能なはずだ。

 安全保障の考え方が、軍事的な側面に比重が移っていることも確かである。しかし、気候変動が安全保障に与える影響についての議論も盛り上がりを見せるなど[16]、伝統的安全保障に対する考えを見直すべき状況は継続している。こうした議論の中で、「人間の安全保障」の考え方に改めて注目することも重要となってくるだろう。

(2021/5/18)

脚注

  1. 1 東大作「コロナ禍を人間の安全保障で」『毎日新聞』2020年6月11日宮下大夢「人間の安全保障の理論と実践――「誰も取り残されない社会」の実現に向けて」 シノドス、2020年12月7日などがある。
  2. 2 「第75回国連総会における菅総理大臣一般討論演説」『国連外交』外務省、2020年9月26日。
  3. 3 「人間の安全保障」『人間の安全保障』外務省、2021年3月22日。
  4. 4 「人間の安全保障」が日本政府の方針として採用される経緯については、来栖薫子「現段階の「人間の安全保障」」『国際問題』第603号、2011年7月、7頁を参照のこと。
  5. 5 2001年に国連難民高等弁務官を長年つとめた緒方貞子とアマルティア・センを共同議長にして発足し、2003年に最終報告書がコフィ・アナン国連事務総長に提出された。人間の安全保障委員会編『安全保障の今日的課題:人間の安全保障委員会報告書』朝日新聞出版社、2003年。
  6. 6 2010年以降は、10億円以下の水準にとどまっている。「国連人間の安全保障基金」『ODA(政府開発援助):人間の安全保障 実績』外務省、2021年3月22日。
  7. 7 例えば国連総会の一般討論演説において、日本の首相が「人間の安全保障」に言及したのは、2015年の当時の安倍首相以来のことであった。「第70回国連総会における安倍総理大臣一般討論演説 平成27年9月29日」『国連外交』外務省、2015年9月30日。
  8. 8 『人間開発報告書1994』UNDP、1994年12月、37頁。
  9. 9 山影進「地球社会の課題と人間の安全保障」高橋哲哉・山影進編『人間の安全保障』東京大学出版会、2008年、7頁。
  10. 10 Kofi Annan, “A more secure world: Our shared responsibility,” Report of the Secretary-General’s High-level Panel on Threats Challenges and Change, December 2, 2004.
  11. 11 “In larger freedom: towards development, security and human rights for all,” Report of the Secretary-General, General Assembly: A/59/2005, , March 25, 2005, pp.7-38.
  12. 12 「世界の軍事費、最多 コロナ禍でも約2兆ドル 昨年」『朝日新聞』2021年4月27日、9頁。
  13. 13 Diego Lopes da Silva and Alexandra Marksteiner, “Trends in World Military Expenditure, 2020,” SIPRI, April 2021, p.3.
  14. 14 2008年のG8北海道洞爺湖サミット、2016年のG7伊勢志摩サミットにおいて、日本政府は国際保健協力について議論する場を用意してきた。
  15. 15 2020年4月には、国家安全保障局に経済班が設置され、感染症の経済的影響の分析も行われるようになった。「国家安保局に「経済班」発足 新型コロナ対応も急務」『日本経済新聞』2020年4月1日。
  16. 16 「岸防衛相「気候変動は地域を不安定に」サミットで安保も議論」『日本経済新聞』2021年4月23日このような安全保障に対する考え方の変化は、1970年代終わりからの総合安全保障の議論の延長線上にあるものとしても捉えることができる。総合安全保障については、山口航「安全保障政策の「コンセンサス」――総合安全保障と安全保障論議」『シノドス』2020年5月9日を参照のこと。