はじめに

 今年1月16日に、フィナンシャル・タイムズ(FT)に、メルケルのインタビュー記事「EUは目を覚ませ(”Angela Merkel warns EU: ‘ Brexit is a wake-up call’”)」が掲載された。この記事の中で、メルケルは「私はEUをドイツの生命保険と見なしている…単独で地政学的な影響力を振るうには、ドイツはあまりにも小さすぎる。だからこそ、単一市場の全ての利点を生かす必要がある」と語った[1]。多国間主義の価値観を一貫して擁護してきたメルケルにとっては、切迫感のある発言であったとFTでは紹介されている。

 イギリスのEU離脱は、第二次世界大戦後の国際社会が一つの転換点を迎えたと言えるだろう[2]。戦後のヨーロッパ統合の歴史の中で、加盟国が離脱するのは初めてのことであり、ヨーロッパ各国が築き上げてきた多様性と国際協調を重んじる「ヨーロッパの価値観」にも傷がついたことも間違いない。そして、メルケルが政治家としてのキャリアを通じて擁護してきた多国間主義などの価値観にも矛先が向けられるようになり、欧州の先頭に立つ政治家が突如として国際社会の流れに逆行する存在となってしまった[3]。

 本稿では、国際社会が転換点を迎えるにあたり、メルケルの倫理観や価値観に焦点を当てて、彼女が取り組む外交や対外認識について議論を試みたい。

メルケル独首相の外交と「確固たる信念」

メルケルの生い立ち

 あまり知られていないが、メルケルは東ドイツに育った人物である[4]。ルター派の牧師であったホルスト・カスナーを父に持ち、キリスト教の影響を強く受けながら育った。その後、メルケルはライプツィヒ大学で物理学を学び、科学アカデミー物理化学中央研究所において、物理学者としてのキャリアを歩み始めていた。

 30代半ばに、ベルリンの壁崩壊を目の当たりにして、政治の世界に飛び込んだ。はじめは「民主主義の出発(Demokratischer Aufbruch)」という政党に所属したが、東西統一後、最初の選挙でキリスト教民主同盟(CDU)から出馬して連邦議員に当選した。その直後、第四次ヘルムート・コール内閣において婦人・青年担当大臣や環境大臣を歴任した。もちろん、東ドイツ出身の女性を入閣させたのは、コール首相にとっては東西融和の発展を示すパフォーマンスの意味もあっただろう。しかし、2005年に、ドイツ初の女性首相に就任し、すでに15年間首相を務めている。環境問題や人権問題など国際協調を重視する国としての基礎も築き、各国のリーダーの中でもその存在感は大きい。

メルケル独首相の外交と「確固たる信念」

メルケルの信仰と政治

 メルケルは物理学者であったこともあり、科学的で合理的な思考を持つ冷静な人物として捉えられることもあるが、キリスト者としての立場も明確である。彼女のスピーチでは、多くの宗教的な概念が用いられ、繰り返しの自分のキリスト教信仰を公言している[5]。外交政策との関係では、特にヨーロッパのアイデンティティの規定する共通基盤としてのキリスト教の意義を強調するものが多い。例えば、2011年9月12日に、ミュンヘンにおいて開催された国際カール大帝賞[6]の授与式では、次のように述べている。少し長くなるが引用したい。

希望への道がくりかえし切り開かれていく要因はどこにあるでしょうか?…教会の教えがヨーロッパにおける共通の価値の重要な基盤になっているからというだけではありません。わたしたちはヨーロッパにおいてその共通の価値を忘れてはならないということです。…一体感の基盤となる感覚は、政治以前の空間で形作られます。そこでは教会が中心的な役割を演じます。教会が他者に向かって開かれ、隣人愛を求めること、人間は過ちを犯す存在であるけれど、助けられ守られる存在でもあることを認めること——こうしたことすべてが、社会に対する考え方を特徴づけ、その考え方に基づいて政治が行われるのです[7]。

 メルケルのスピーチを読み解いていくと、社会の連帯を支える教会の役割が重視されており、その教会が中心となって作り上げる倫理観を政治が継承していく必要性を見て取ることができる。また、この考え方は、ヨーロッパが築き上げてきた価値観とも結びつけられている点でも注目するべきである。このスピーチの後半において、メルケルは「ヨーロッパという家」は、自由や責任に対する共通の理解があれば、それぞれに違いがあっても、緩やかに調和できるという認識の上に建てられていると明確に述べている[8]。

メルケルが直面する現実

 国際社会の中で大きな指導力を発揮しているメルケルであるが、キリスト者としてのメルケルに対しては意見が大きく分かれている。確かに、人々の尊厳を守ろうとした難民受け入れの政策は、キリスト者として高く評価されてきた。一方では、イスラム教徒が多数を占める難民の受け入れは、ヨーロッパ・キリスト教社会の没落を促進していると考えている勢力も存在しており、極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の台頭を許したと非難もされている。

 しかしながら、こうした厳しい状況においても、メルケルの信念は揺らいでいない。FTのインタビューの後半では、ドイツ政治の成果として、原子力発電所の廃止や難民の受け入れと並んで、「世界への関与を大幅に高めた」ことを挙げ、「外交的な責任、そしてますます軍事面での責任」を一段と負うようになったことにも触れ、「将来もっと増えるかもしれないが、我々は間違いなく正しい道を進んでいる」と語った[9]。国内外において社会的分断が深まる中でも、自らの歩みに裏付けられた社会的連帯の価値は、メルケルにとって揺らぐことがない「確固たる信念」として存在していることがわかる。

メルケル独首相の外交と「確固たる信念」

結びに

 ここまでメルケルの生い立ちやスピーチを取り上げて、彼女の「確固たる信念」とそれを支えるキリスト教信仰について紹介してきた。メルケルの国際場裏における指導力の背景には、それを支える信仰に基づいた倫理観が存在していることがわかるだろう。特に戦後ヨーロッパが築き上げてきた価値観においては、教会が果たすべき役割が重要視されていた。宗教が国際関係に与える影響という点は、今後、国際社会が転換点を迎えるにあたって、どのように国際的な連帯を再建するべきか考え直すヒントを与えてくれるだろう。言うまでもなく、キリスト教以外の宗教も含めて、宗教が果たす役割に目を向けていく必要があるだろう。

 長く続いたメルケル政権も残り2年をきった。多国間主義が危機に瀕している中で、メルケルがどのような役割を果たしていくのか注目していきたい。

(2020/2/21)

脚注

  1. 1 「メルケル独首相 EUは目を覚ませ(上)」『日本経済新聞』2020年1月16日。原文は、Lionel Barber and Guy Chazan, ‘Angela Merkel warns EU: Brexit is a wake-up call’, The Financial Times, 16 January 2020.
  2. 2 例えば、「英離脱、欧州史の転換点」『日本経済新聞』、2020年2月1日、「英国、EUを離脱 加盟国初の減 欧州統合 転換点」『読売新聞』2020年2月1日。
  3. 3 2018年に、トランプ米大統領が「我々はグローバリズムのイデオロギーを拒絶し、愛国主義を尊重する」と多国間協調を象徴する場である国連総会で述べたことは広く知られた通りである。その後、世界各地で「自国第一主義」の考え方が広まっていった。スピーチの原文は、The White House, “Remarks by President Trump to the 73rd Session of the United Nations General Assembly,” New York, September 25, 2018
  4. 4 出身地はハンブルク生まれであるが、生後すぐに東ドイツに家族で移住している。
  5. 5 フォルカー・レージング編『わたしの信仰 キリスト者として行動する』新教出版社、2018年、8-9頁。本書はドイツでメルケルのスピーチ集として、2018年に出版された日本語訳である。Volker Resing ed., Daran glaube ich: Christliche Standpunkte, St. Benno: Leipzig, 2018
  6. 6 ドイツ・アーヘン市がヨーロッパ統合に貢献した人物に授けている賞。2008年にメルケルは同賞を受賞しており、翌年の授与式にもゲストとして呼ばれていた。
  7. 7 同上、136−137頁。
  8. 8 同上、138頁。
  9. 9 Lionel Barber and Guy Chazan, ‘Angela Merkel warns EU: Brexit is a wake-up call’, The Financial Times, 16 January 2020.